月刊ライフビジョン | メディア批評

改めてジャーナリズムの意義を考える

高井 潔司

 11月初め、札幌の大学で、ジャーナリズム論を講義する機会があった。その写真と簡単なメッセージを中国のSNS「微信」の「朋友圏」にアップした。朋友圏とはフェイスブックみたいなもので、友達として登録したグループの人たちに私の投稿が配信される。それがきっかけでジャーナリズム論をめぐって面白い展開があったので、今月はいつもと趣向を変えて、その展開から私のメディア論のさわりを紹介したい。

 中国語で、ジャーナリズムは「新聞専業主義」という。中国語の新聞とはニュースのこと、専業主義はプロフェッショナリズムという意味で、ニュースのプロフェッショナリズムということになる。意味が不明なカタカナ文字とちがって、中国語は漢字で意味がしっかり翻訳されている。私の講義でもこの中国語翻訳を紹介し、一般的にはごっちゃに使われるが、メディア研究者の間ではジャーナリズムはマスメディア(大衆媒体)、マスコミ(大衆伝播)とは区別して使われていることを強調した。

 私の微信でのショートメッセージは、中国語で札幌の大学で「新聞専業主義」について講義したというだけの内容だった。しかし、投稿の翌日、長年の友人である中国青年報の元社長、陳小川さんから、彼が9月に浙江大学都市学院で行ったという講演のポスターと講演の概要を掲載した都市学院の講演内容紹介のPDFが、私の微信アカウントに届いた。

 講演のタイトルはズバリ「今日新聞専業主義は必要か」だった。私はこのポスターを見て、これは私の講義と同じ趣旨の話をしたと直感し、長年の友情を改めて確認した。ついつい感激してしまって、朋友圏に改めてこのポスターと、「長年の友人、陳さんと私は同じテーマで講義をし、しかもジャーナリズムの重要性とくに取材の大切さを強調した」とのメッセージを投稿した。

陳小川氏の講演趣旨

 まず陳さんの講演の趣旨を翻訳しておこう。陳小川氏は以下のように指摘した。

 ショート動画の発信が盛んになっている昨今、情報の流通チャンネルは多様化し大衆化している。個々人が記者となって発信できる時代の言論状況まで登場した。だが誰もが専門的な能力や優秀な記者の素質を持っているわけではない。だからこそジャーナリズムが必要になっている。ニュースを扱う仕事は専門性がかなり強く、ジャーナリズムを追求する。ジャーナリズムはニュースの真実性と客観性を要求する。しかし、現状はフェイクニュースの影響力がすでに人々の生活に浸透している。

 科学技術の発展によって、情報の発信速度、ルートが飛躍的に進歩し、ファーストフード式のSNSプラットホームが大衆の視野を占拠し、個人の判断を左右するようになった。(新聞、テレビなどの)主流メディアの声は次第に情報爆発のインターネット時代に埋没し、メディアの公的な信頼度は次第に消滅しようとしている。

 また陳氏はプロのメディア人として、「足を使って取材すること、筆を使って真実を復元すること」を銘記し、しっかりと真実のニュースを見つけ出し、人工的に作り出されるヒット数ランキングへの警戒を呼びかけた。主流メディアは社会の時事問題に密着し、ヒット数メディアはサブカルチャーやエンタメ情報を追っかけている。主流メディアはニュースの価値の深堀りに焦点を合わせ、生活に密着した情報の発信、つまりジャーナリズムの実現を目指している。

 最後に陳氏は学生に対して、情報の発信をめぐって、ネットコミュニティの討論に声を挙げると同時に、ニュースに対する警戒心を保持するよう呼びかけた。マイメディア(中国語では「自媒体」、個人の発信)やショート動画のプラットホームにおいても客観、真実主義を堅持し、ジャーナリズム性を擁護し、ネット時代においても理性を保持することが肝要だ。

アジェンダ設定機能

 要するにこのブログ記事を読む限り、陳さんの講演のポイントは、インターネットの時代においても、新聞や雑誌という伝統メディアが培ったジャーナリズムが必要ということ、そのジャーナリズムとは、取材によって情報の真偽を検証し、また社会にとって必要な情報を取捨選択して発信する「アジェンダ(議題)設定機能」を持つということ――にあった。つまりジャーナリズムには何がニュースか、そのニュースをどう議論すべきかを示す機能がある。その場合にメディアは感情的ではなく理性的な判断に基づくべしとジャーナリズムは教える。

 アジェンダ設定機能はメディア研究の結果、生まれたジャーナリズムの理想型の一機能であって、現実にはメディアが十分に発揮できているわけではない。むしろどの権力もその機能を自ら手中に収めようとする。中国のような一党独裁国家では共産党の宣伝部がメディア組織を傘下においてこの機能を独占している。しかし、インターネットやSNSは個人メディアであり、完全掌握は難しい。一方、日本のようなメディアが報道の自由を享受している国家においても、政府は広報組織を通じて間接的にメディアを誘導し、メディアのアジェンダ設定機能を抑えようとしている。W.リップマンは百年前の名著『世論』(1922)の中でこの広報の役割について見事に描き出している。

 「(広報係は)記者一人では目鼻もつけかねるような状況についてはっきりとしたイメージを提供し、記者の大きな手間を省いてくれる。しかし、広報係が記者のためにつくるイメージは、広報係が公衆に見てほしいとというイメージになってしまう。そうなれば広報係は検閲官であり、宣伝家であるが、その責任は自分の雇い主に対して負うのみである」

 ネットのヒットランキングは、もともとネットの収入が情報と共に画面に表示する広告のヒット数で決まるシステムに適合するように作られている。だからヒット数を稼ぐために、ユーザーの好む情報を優先して発信する。それは大衆の感情に訴える大衆迎合主義に陥る。日本の民放テレビのモーニングショーでは、「ネットのニュースランキング」をキャスターが楽し気に紹介しているが、これは自らの「議題設定機能」を放棄して、ネットやそのユーザーに迎合しているのだ。

 私の講義でも、親の世代でさえもはや新聞を読まないという学生を相手に、インターネットやSNSの利便性を指摘しつつも、そこにはさまざまな落とし穴があり、今後そうした問題の解決のためにジャーナリズム理論が大いに役立つことを強調した。スマートフォンは私たちにとって便利この上ないが、悪意を持った人たちにとっても便利この上ないツールだということを忘れないでと、SNSで知り合った女子大生を殺害した札幌の嘱託殺人事件に触れながら警鐘を鳴らした。80年代、90年代、中国の新聞改革を主導した中国青年報のリーダーらしい陳小川さんの視点と、大いに共感した。

疑似環境とステレオタイプ

 こう書くと、おいおい、報道の自由のない中国と日本を一緒くたにしていいのかという批判が聞こえて来そうである。確かに同一視してはいけないし、ジャーナリズム理論は中国のメディア界の現状を批判的に分析する上でも重要なポイントになると私は考えている。

 前述のメディア学の基礎を築いたW.リップマンは、報道の自由はジャーナリズム確立の上で必要条件ではあるが十分条件ではないとし、むしろ情報(報道)を歪める様々な条件を分析した。中でも、情報とはそもそも事実や現実そのものではなく、それに似せて加工された「疑似環境」であること、記者であれ、読者であれ、情報を認識する上ですでに構成されている「ステレオタイプ」が付きまとっていることを指摘した。情報が「疑似環境」であり、それにステレオタイプが常にまとわりついていることが、情報を歪曲する二大要素であり、逆に報道を分析する上で重要なツールである。

 このメディア批評でも私はそれをしばしば活用してきた。「疑似環境」と「ステレオタイプ」という情報を歪める二大要素を克服する上で、記者の「行って、見て、語る」という「最もすぐれた本能」を発揮することつまり情報を確認する取材が大切だとリップマンは指摘している。すべての情報は事実そのものではないから、ニュース報道においては情報を真実に近づける作業が不可欠であり、それがジャーナリズムの重視する取材である。インターネット万能時代、そうした作業のないまま、あふれる情報を転送し、拡散することの危険性がいま浮き彫りになっている。

 また中国の報道の自由について言えば、インターネット時代においてその状況は大きく変化している。習近平時代において、新聞やテレビ、出版など伝統的なメディアは、党や国家の機関に編成替えされ政府の統制下に置かれ報道の自由は著しく低下した。ネット時代への移行も伝統メディアの力を削ぐことになった。一方、インターネット、SNSで、誰もが発信できる自媒体は日本以上に活況である。統制のしやすい伝統メディアと違って、自媒体はゲリラ的であって、発信されてから、削除などできるが、その前にすでに拡散していることがしばしばある。日本のマスコミでは、中国では報道の自由がなく、当局を批判する情報はすべてカットされているように伝えられるが、最近の「ゼロコロナ」に対する抗議行動は、SNS上で中国人が発信した動画で明らかにされている。日本のメディアは何のことわりもなく、それを使って報道しているのだ。ネット時代には報道規制はなし崩し的に、あるいはゲリラ的に乗り越えられる可能性も秘めている。

 しかし、自媒体では、しばしばフェイク情報や誇大情報も見受けられる。だから、その受発信にも警戒が必要だ、と陳さんは訴えているのだ。中国当局はこの自媒体をどう管理するか、頭を悩ましている。統制してしまってはインターネット文化も産業も衰退してしまう。自媒体で多くのフォロアーを持ち、影響力の大きい人物を規制し、見せしめにして、自媒体の自粛を促した。ジャーナリズム理論で言うと、当局はアジェンダ設定機能を掌握しようとやっきになっている。

 11月19日付読売新聞によると、中国の国家インターネット情報弁公室はSNS運営事業者に対し利用者の投稿内容の事前審査などを求める規定を公表したという。読売の見出しだと「ブラックリスト入りなら、利用制限」「中国がネット投稿の事前審査要請 実名登録徹底を」という厳しい内容だ。だが規定の原文を探して読んでみると、それはニュースの評論を投稿するSNSのサイトに限定した規制であって、SNSすべての投稿に対する規制ではなかった。SNSのすべてを規制するのは難しいし、かえってネット社会を後退させ、中国経済にも影響する。突発的な事件、事故の発生を伝える投稿を全面的に抑え込むのは難しい。

 コロナ汚染の初期、発生をいち早く伝えた医師のブログを押さえ処罰した結果、コロナ対策の実施を遅らせた李文亮事件ひとつ取り上げてもSNSの投稿規制は逆効果をもたらし、当局のSNS規制自体も批判を招く結果となる。

 日本のマスコミは、中国の言論空間が中国当局によって完全に封殺されているかと報じる一方で、特派員たちは支局に籠ってネットウォッチングに専念しているという。ゲリラ的に発信する中国の大衆の声を見逃すわけにはいかないのだ。

 ジャーナリズムでは取材のほかに、記事作成にあたって情報源をしっかり書くことを求めている。それは読者が情報源を見ることによって、記者が誰にどのような取材をしているか、知ることができ、それによって情報の確度を測ることができる。複数の情報源があり、権威ある人物が情報源になっていれば、情報の信頼度がそれだけ増すことになる。

日本ジャーナリズムの衰弱ぶり

 と書いていたら、現在の中国報道の典型的な事例を発見した。11月28日付読売新聞「上海『ゼロコロナ』抗議」「異例、習氏の退陣要求」とかなり衝撃的な事件だ。ところが、情報源を見ると、SNS及びSNS上の動画、さらにAFP(フランス通信社)電、米ウォルストリート紙という外国メディアの転電。上海特派員の記事なのに、現場に取材に行っていないことがわかる。それなら東京の本社に居てもできる仕事。特派員として上海に駐在している意味がない。SNSに対する当局の規制強化の記事を書いた記者が、SNSの発信する情報を見て記事を書いているとはまさに笑止千万。こんなところにも、ジャーナリズムとしてのマスコミの衰弱ぶりが見えてくる。

 確かに中国当局はネットの言論空間も掌握しようと懸命だが、それは不可能だ。「習近平は退陣しろ」という抗議デモのシュプレヒコールが、SNSを通じて日本のテレビでも報道されたのを見てもそれは明らかだ。中国のメディアの状況、言論状況を、報道の自由の有無や当局の一方的なメディア統制という視点だけで分析すると、判断を誤まることになる。ネットの強みと弱点が中国では際立っている。私流メディア論から、以上のような中国のメディア・言論空間、日本メディアの中国報道の景色が見えてくる。


◆ 高井潔司 メディアウォッチャー

 1948年生まれ。東京外国語大学卒業。読売新聞社外報部次長、北京支局長、論説委員、北海道大学教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群メディア専攻教授を2019年3月定年退職。