週刊RO通信

『悲歌のシンフォニー』

NO.1565

 先日の土曜日、東京交響楽団の公演を聴きに出かけた。わたしは、曲のなにが大事で、なにを聴きださねばならないとか、演奏がどのように素晴らしいとか、ほとんどわからずに、ひたすら聴くだけの音楽ファンである。しかし、わかろうがわかるまいが、約2時間、いつもこころ洗われる。

 開演間近に着席したので提供された解説書も読まないうちに演奏が始まった。第一曲は、ショパン(1810~1849)の『ピアノ協奏曲第2番ヘ短調』。これはCDをもっていてときどき聴く、なじみの曲である。直接聴く演奏はやはり、「いい」。わたしの感想なんてこんなものだ。

 シューマン(1810~1856)と仲間は、はじめてショパンの楽譜のピアノ演奏を聴いたとき、陶然と酔いきったようで、しばし言葉もなかった。この協奏曲はきっとベートーヴェンかシューベルトが書いたのだろうと思ったが、楽譜の表紙にショパンと署名があるのでびっくりした。シューマンと仲間はショパンを天才だと語り合った。

 第2曲は、グレツキ(1933~2010)の『交響曲第3番 悲歌のシンフォニー』ではじめて聴いた。1時間近く、全体通じてゆったりしたテンポで変化らしい変化がない。演奏は静謐なのだが音響が茫々と広がる感じで、なによりもわたしの頭には重たく、演奏が終わったらぐったりした。

 ブラボーの大声が数回聞こえた。演奏は十分すぎるくらい素晴らしいものであるが、このずっしり重たい気持ちはなんなのか! とても単純に演奏をたたえる気分にならなかった。コンサートに行くようになって10年になるが、こんな気持ちになったのははじめてである。

 指揮は沼尻竜典さん、挿入歌のソプラノは砂川涼子さんである。あとで解説を読んで重さの意味がわかった。翻訳の歌詞を拾うと、次のようである。

 ――聖なる神に背く ならずものどもよ お前たちはいったいなぜ わが息子を殺したのか?

 もはや母者には いかなるよりどころもありはせぬ。 わが老いた目を 涙でどんなに洗い流そうとも。

 憐れな息子はいずこともしれぬ 穴の中に横たわっているのだろうか。 暖炉脇の自分の寝台で 横になることもできただろうに。――

 沼尻さんは、「戦争や対立により子を失う悲しみは、敵味方、国籍や宗教に関係ない共通する心情であり、グレツキが描いた曲は全体が祈りの感情である」と語っている。この曲は日本では30年前に初演された。その指揮を執ったのが沼尻さんで、今回は30年ぶりの再演である。

 グレツキの1974年のインタビューによると、「私は聴き手を選びません。私が言いたいのは、私は決して聴き手のために作曲していない。私には言いたいことがありますが、聴衆もそのことに探りを入れてもらいたい。(自分)ひとりだけが興味のあることを選べばいいのです」。(要点)

 まるでサービス精神がないコメントみたいであるが、初演指揮前に沼尻さんがベルリンで会ったグレツキは素朴で穏やかな人柄だったと回顧している。言いたいことを掘り下げて、精一杯表現する。芸術を志す人間として、これ以外に道はないという気概だろう。聴き手もそうあらねばならない。

 たまたまわたしは全然知識なく『悲歌のシンフォニー』を聴いた。歌詞もあとから読んだし、ポーランド語で歌っているから意味はわからなかった。しかし、グレツキが、母と子にかぎらず、人間同士の関係をぶち壊して人を殺害する戦争を徹底的に嫌悪して作曲したことは伝わった。

 バイデン氏が5月31日、イスラエルのハマスに対する提案を公表した。以前ハマス側が提案した内容とほとんど変わらない。この間、ネタニヤフはハマス撲滅を掲げて殺戮と破壊をおこなった。バイデン氏の発言は「もう戦争は終わるべきだ」という。その通りである。はじめからその通りである。

 戦争になれば相手を壊滅させることしか頭になくなる。戦争をするのは政治家である。政治で問題解決するはずの政治家が軍事力に全面的に依存した外交しかできていない。政治がやくざの世界と異なるのであれば、軍事力に依拠しない国際外交に一意専心せねばならない。そうでないから世界はいつも一触即発の危機にある。重たい気分の本体はこれであった。