論 考

政治家は木魚と同じ

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 本日の朝日新聞はかなりのスペースを割いて、自民党議員に政治改革の熱がないことを批判的に指摘している。まさにその通りである。

 しかし、そもそも政治倫理に外れたことをおこなったのが自民党議員であるのに、自民党議員に政治改革を求めるのが妥当だろうか。きつい表現をすれは、悪いことをした者に自分で手錠をかけろという理屈ではないか。

 そもそも、議員先生といってもおおかたは陣笠レベルである。派閥の領袖レベルが岸田、麻生、茂木氏などであり、彼らが大きな顔をしているのは、その他はそれ以下である。それに従っている諸君に政治改革の熱がないのは当然だろう。

 安倍内閣の8年間、モリカケサクラ事件で安倍氏が無実の罪をかぶせられたと思っている議員は、自民党の中でもいなかったにちがいない。安倍氏は、追及する弱小野党をせせら笑うがごとくに政権を担い続けた。それを支えたのが議員諸君である。いまさら彼らに政治改革の熱がないなどとぼやく意味がない。

 政治をするために政治家をめざした人がどのくらいいるだろうか。わたしが見るところ、おおかたが俸禄を食むために政治家になったみたいである。議員諸君にとって政治資金改革は「賃下げ」を意味するのである。並みの勤め人と違うところは、彼らは勤め人のように会社のためにと我慢せず、断固戦うのである。彼らが経営する政府は大赤字で、会社ならとっくに倒産している。そうであっても、なんとしても賃金を維持しようと突っ張るのだから、その点、勤め人はおおいに見習うべきであろう。

 ところでアメリカでは、犯罪事件で有罪になった前大統領が、復活をかけて大統領選挙に出馬する。下馬評では、現職に優るとも劣らぬようだ。トランプを担ぐ共和党議員は判決などどこ吹く風どころか、逆手にとって選挙戦を有利に推進しようとする。

 トランプが驚異的な打たれ強さをもつ、と感心する論評もあるが、もともと嘘とはったりをパワーとして台頭してきたのだから、並の価値観では評価できない。本当の問題は、ペテン師まがいの論理を展開するトランプを、なぜ人々が熱狂的に支持するのか。アメリカ的民主主義への期待は大きいが、にもかかわらず、トランプが大手を振ってのし歩く政治状況はきわめて剣呑だ。

 それに比較すると、日本の民主主義が上等とはとてもいえないけれど、嘘とはったりを見抜く程度の眼力は、だれもが備えているだろう。日本の場合は、選挙してダメなら選び直す、なんどでもそれを繰り返すという気迫が薄い。政治に無気力な惰性が支配的ではないのだろうか。政治家は木魚と同じだ。きちんと音が出るようにしっかり叩くべし。

 民主主義は、知恵と時間をかけて育てるものである。日本人には、その辛抱強さがおおいに期待されている。