くらす発見

生きにくい社会の私

筆者 奥井禮喜(おくい・れいき)

 改正こども・子育て支援法が可決された。

 2023年の国内出生数は72万人、合計特殊出生率は1.20、もっとも低い東京は0.99である。なるほど、低い。

 出産が少ない理由が暮らしにくさにあるとすれば、東京は日本で一番暮らしにくいことになる。一番暮らしにくい地域が最大の過密地帯である。人々は暮らしにくさを求めて東京に集まる。集まらざるを得ない構造になっているわけで、ますます人口減少に拍車がかかる。まことに皮肉である。

 外出して狭い歩道を歩いていると、かなりの速度で自転車がすり抜ける。ルールもマナーもないと腹が立つたびに、いや、生きるに必死なんだと思う。

 改正子ども・子育て支援法は、なんとしても人口減少を防ぎ、子どもを増やしたいから知恵を絞ったのであろうが、子どもがいなくても、生活するのがやっとだという状態の改善にはつながらない。

 出産には、まず結婚すべしとばかり、自治体は結婚支援のお見合いなどイベントを提供する。これは、官製賃上げ並みに効能が薄いだろう。

 かつて若者の結婚願望は強かったし、周囲の反対があっても、いや、あればあるほど燃え盛った。仲間が結婚すると周辺に連鎖する傾向が強かった。

 古今東西、愛し合っている二人が、周囲に邪魔される悲恋ものは非常に多い。結婚したい人が周囲の援助でゴールインするなど物語としてはたいして面白くもなかろう。(これからは物語の面白さが変わるのだろうか)

 生殖は動物の生存欲求である。生存が危ぶまれる雰囲気のほうが生殖は活発になる。先進国の出生率が軒並み低いのは生存欲求が低いからである。とすると、生存しにくいのに生存欲求が高まらないのは、生きる意欲が減退しているのではあるまいか。そんな大変な事情に対して、政治家の知恵が及ぶだろうか?

 周囲が支援しなければ相手を求めようとしない心理状態であれば、結婚するのは大きな問題である。熱烈恋愛しても愛情は冷めやすい。冷めるだけにとどまらず人生の障害や負担を招く。結婚はゴールインではない。独身では考えられなかった問題に次から次へとぶつかっていく生活へ出発することである。

 それをみなさんが十分承知しているからこそ、結婚しない。さらに、結婚即出産という決めつけには異論がある。

 かつて「平均的ライフサイクル」を考えていたが、思想的にも生活的にも、そんなものは通用しない。もっといえば、多数の人々をひとまとめ、一緒くたにするよう大雑把な発想では通用しない。なぜ少子化なのか、この原因を本気で追求せず、昔ながらのライフスタイル観に頼っているかぎり問題解決には程遠い。

 本当に、暮らしにくいから結婚しないのだろうか。問題はもっと大きくて、生きにくい思い(=いかに生きるべきかを考える力が減退している)に支配されていると仮定してみる。

 たとえば、昔に比較するとはるかに高学歴化が進んだ。勉強することが、「いかに生きるべきか」への活力を増加させていないとすれば、社会の子育てが成功していないのである。

 人口はなるほど数ではあるが、活力や知恵は数から出るとは限らない。昔、日本は資源・エネルギーや土地がないが人が豊富だ。人こそ最大の資源だとよく語った。いま、人口が減少傾向にあっても1億2千万人もいる。

 日本より人口が少ない国々がずいぶん元気にがんばっている。明治時代の活力は、時代が下がるにしたがって活用の方途を誤った結果、惨たんたる敗戦を迎えた。いまは、どうも活力が出てこない。人々の活力が発揮される社会的風土が形成されているだろうか?

 社会の活力は個人の活力の総和である。暮らしにくさ論にとどまらず、生きにくさの本質はなにか。それを考えて対処するという発想がほしい。人口を量だけで推し測るのではなく、質をこそ中核に据えるべきである。

 そこで、「君たちはどう生きるか」なのである。