週刊RO通信

「文学は吾人のテイストである」

NO.1566

 見出しの言葉は、夏目漱石(1867~1916)さんである。

 テイストの中心義は、味がする。風味、好み、嗜好、趣味である。美的感覚、審美眼、センス、判断力、見識である。taste the joys of freedomと展開すれば、自由の喜びを享受するという意味だ。

 趣味にはホビー(hobby)もある。道楽、気晴らし、稼ぎとしての職業以外の好きな道、なにかをつくったり、研究したりする能動的な意味合いである。わたしは、テイストはそれの上位的概念だと思う。

 漱石さんのテイストにはとても含蓄があって、心をひきつけられる。「思索、活動の対象を美しいと判定する美的判断力」(カント)に共通するだろう。人間を愛し、人間に密着し、人間の生き方を透徹した文学をつくろうとした漱石さんの人生観が表現されている。

 自分もそうありたいが、いかんせん凡人であるから、「〇〇は吾人のテイストである」と、ひとりひそやかに呟くのも実のところ気圧される。テイストはなかなか容易ならざる言葉だから、精神や技量が伴うかどうか。

 ところで、世間は広い。マイクを握って大音量で自分のテイストを語る人がいる。すなわち、政治家である。天下国家、人々のために粉骨砕身、わが身を顧みず、政治に滅私奉公するとおっしゃる。芝居のセリフではない。自作自演、「政治は吾人のテイストである」と天下に公言なさる次第だ。

 かかる立派な人物を徒や疎かに遇することはできない。そこで良識ある市民は、微力ながらも、清き一票を投票箱に投ずる。呼びかける人がおり、受け止めて応える人がいる。

 赤心を押して人の腹中に置く(後漢書)という言葉がある。まごころをもって人に接するのだから、まごころを投票に代えて応ずる。かくして素晴らしい政治が始まる。なんとも麗しい光景ではあるまいか。

 さて、与党政治家のみなさんは、実によくやってくれる。半年以上もかけて、政治資金規正法改正に取り組んだ。取り組みたくもなかった。しかし、自分たちが撒いた種が人々の不興、不信、怒りを買ったのだからやむを得ない。やむを得ないのではあるが、頭はかすむし、体はしびれて動かない。

 岸田氏は、規制法が衆議院を通過するや胸を張った。規制法に関する報道の評判はきわめてわるい。――なんでもかんでも検討だらけで、裏金防止ができるのか。時間をかけたにもかかわらず、抜本的改革どころではない。与党政治家の保身が前面に出て、まるで反省していないじゃないか。

 これに対して岸田氏は「実効性がないとの指摘はまったく当たらない」と、とんちんかんな抗弁をした。どうしてこんなにずれ切った言葉が出てくるのか不思議である。当初、岸田氏は「(失った)信頼回復のために火の玉になって党の再生に取り組む」と語っていたではないか。

 そこで岸田氏の脳中を忖度してみる。本問題で、ちらちら恨みがましく聞こえてきたのは、「政治にカネがかかる」という言葉である。カネがかかるのなら公開すればいいと思うが、岸田氏らにすれば、政治資金の使途を公開するなんてことは、絶対に自民党の再生につながらないのである。

 読み解けば、自民党の有力な支持者は、カネの公開など求めていない。というよりも公開しないほうがよい。素人筋にすれば、人々の信頼を獲得するには公開が不可欠だと考えるのに、なぜ逆なのか? これ、たかりの仕組みだからである。関係者相互に、たかり・たかられての、うま味・面白みが成立しているからである。岸田氏が火の玉になろうとした核心はこれだ。

 政治家に倫理道徳を期待するのは、木に縁りて魚を求む(孟子)ものだ。ということを知らない人はいないだろうが、ここまで追い詰められたら方向転換するだろうと期待する。ここが世間の甘さだ。露骨にいえば、「あなた」の清き一票ではなく、欲しいのはおカネそのものなのである。

 自民党政治家らが、漱石さんの言葉を置き換えて、「政治は吾人のテイストである」などと語るわけはない。前者はれっきとした人生の美学であり哲学である。かかる政治資金規制法に賛成するような政治家には美学はありません。あえていえば、彼らの政治信条は儲け主義なのである。

 わたしは漱石ファンであるし、儲け主義の士に期待するものはない。