論 考

労働組合の教育を哲学する

筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)

――デューイは、教育とは、最も広義の意味で、個と種族の経験の全範囲を指す生命(生命、生活、人生)の、社会的発展と連続の手段であると定義した。

 その観点からすると、目下の労働組合の運動・活動の総体は、組織を主題とするところに矮小化されている。そのために、労働組合における教育という言葉の用い方は、本来の意義を失う。そして、労働組合のあり方について、いくつかの問題の論点が浮かび上がる。

 労働組合の教育を哲学することを動機としてこの論考を始めたが、それは労働組合を哲学することに至る。そして、労働組合とは、生命(生命、生活、人生)の発展と連続のために、人間いかに生きるかを運動として希求する「人間の学校」であるという提起を、思い起こすことになった。――

私の動機

 私が参与する財団は、その名称にも「教育」を冠し、労働組合の教育・研修活動を助力することを事業としている。その創設の理念は、敗戦後の日本における社会変革を担う人材の育成にあった。とりわけそれは、「自由にして民主的な労働運動の健全な発展」を旨に取り組まれ、現在に至っている。

 その創設から50年余が過ぎ、労働組合とその運動の停滞と軌を一にして、創設の理念は形骸化し、自らの存在意義や価値をどこに求めるのかも表層的なものでしかない事態にあると、私は感じている。

 そんなことから、労働組合の教育を哲学することで、この財団のあり方を考察してみようと考えた。自分の考え持ち、それを財団メンバーに働きかけながら、機が巡ってくれば、私なりの助力をしたい。学びは緒に就いたばかり。論考は甚だ心許ない。だが、それを成長の踏み台にしなければとの思いが、私にはある。引用の多さ、内容の拙さは、ご容赦願いたい。

教育とは?」と労働組合

 生物は自己に作用するエネルギーを制御・征服して自己を更新し、その生命を存続さる。米国の哲学者ジョン・デューイ(1859~1952)は、人間の生命の連続には、その社会集団の経験の再構成、拡大・深化という更新(再創造)が伴い、この人間の全経験を生命(生命、生活、人生)とするから(以下、生命と記す)、最も広義の教育とは、この生命の社会的発展と連続の手段であると定義した。*1)

 私の経験からも、また自戒も込めて、労働組合は、このような哲学的観点を明確に持ててはいない。それは、総体として、組織を主題とすることにこだわっていれば、デューイが主張するような展開には至らない可能性が強い。労働組合も、デューイの言う生命の連続を旨とする社会というメタシステムの不可分なサブシステムだ。しかし、漫然として、労働組合が、この哲学的観点を持てずに在ることは、その運動・活動の総体は、無駄な努力が多いということになる。

 労働組合において、教育という用語は、組織の維持・継続を主題として用いられているに過ぎない。しかもそれは、方針全体の一つの分野ないし区分とされている。また、労働組合と社会との関わりとは、政策・政治活動や、社会貢献活動として、これもまた活動の分野・区分として扱われる。このような現実は、労働組合が、メタシステムに対しての不可分な存在ではなく、区切られた内向的な存在に堕してしまっていることを表している。

 労働組合が、この哲学的観点を明確に有する存在であるならば、その運動・活動は、広義の(社会的)教育に包括される。つまり、労働組合において、構成する個人も組織総体も、第一義的に社会的存在であることを、明確な前提とすることが必要である。

 また、その運動・活動の総体は、生命の発展と連続の手段として、その存在理念も、運動・活動の様式も、教育ないし教育的でなければならない。そうであれば、現状の組合における教育という言葉を、そして社会を、組合中心の活動区分や分野で語ることの意味を消滅させる。

哲学的課題・人間観と労働組合

 デューイは、普遍的意識(全体)と個人的意識の関係を哲学的課題として定式化した。それは、個よりも、生命を発展し連続する全体が先にあるのだというものだ。つまり生命という普遍的な母胎から個人的なものが発生し、発達し、普遍的なものを担い、それを発展させ持続させていく過程が、社会の連続であるとする。*2)

 そしてそれを担う人間とは、生まれながらに強い活動力をもつ能動的存在であり、その能動性は、依存性と可塑性により発揮され、依存性は相互依存関係を成立させる能力であり、可塑性は経験による学習能力である。*3)

 つまり、生まれながらにして人間は、社会的存在としてあり、その人間個々が、能動性からの依存性を発揮して相互依存関係を構築しつつ、とりまく環境・状況に働きかけ、そこからの刺激に応答しながら学習するという可塑性を発揮し、経験を更新していくのだ。この経験を他者と共同所有していくことで、社会的集団の経験は更新されていく。それゆえに、生命は、発展し、連続する。

 労働組合は、運動・活動のあり方として、どのように生命と個の関係を、そして人間観をもとにしているだろうか。また、社会(環境・状況)への働きかけ、そこからの刺激への応答としての学習、そして経験の更新と共有という、教育としての含意ないし様式はあるのだろうか。

 それを具体的に言えば、労働組合が、生命と個人の関係および人間観を踏まえて、社会の改良へ向けての参画と共同・共有を、運動・活動の中核とすることだと、私は解している。

通信(コミュニケーション)と労働組合

 広義の教育、つまり、社会集団の経験の再構成、拡大・深化という更新(再創造)を成すための方途は、通信(コミュニケーション)にある。(以下、通信と記す)通信とは、他者から、拡大させられ変化させられた経験を得ることであり、通信を受ける側は、他者が考え感じたことを、ともに考え感じることであり、それは自らの態度を修正する。そして同時に、送る側は、ある経験を伝えるという経験の中で変化するの。*4)

 労働組合の運動・活動の総体は教育であるとともに、その取り組みを進めるための様式において、通信というものをどう捉え、どう位置付けているだろうか。労働組合のあらゆる場面において、通信というものを基本とし、それが本質的に機能するように最大限の努力・助力・配慮は、為されているだろうか。残念ながら現状は、ほとんどの組織においてコミュニケーション不全ではなかろうか。

教育の民主的考え

 自己を改良することを理想とする社会における教育は、民主的であることを必要とする。そして、その理想社会に向けた現実的な改良は、その社会に存在する望ましい諸形態を抽出し、望ましくない諸形態を批判し、改善することで成される。この改良のための基準の一つは、意識的に共有する関心の多さと多様さにあり、二つ目に多様な集団相互の自由で充実した交流にある。それが教育の民主的考えの構造である。*5)

 社会的人間としての個人、人間の本源的能力(能動性における依存性、可塑性)、環境・状況への働きかけと、そこからの刺激による応答・学習、そして経験の更新、更新された経験の通信による社会的共有、社会的経験の更新(再創造)、知識の蓄積、この過程が教育であり、それが生命の発展と連続へとつながる。

 それを成立させ、社会の改良を現実にしていくということは、デューイが提起する二つの基準から解せば、人間の尊厳の確立、自由と平等、そして連帯という、より根本からの民主的な社会のあり方が求められるということだ。

労働組合は人間の学校だ!

 生命の発展と連続の過程、つまり教育とは、経験の再構成と拡大・深化(再創造)である。それを担う、生まれながらに社会的な人間において、経験の更新に資する、最も柔軟で制御力のある行動とは、思考をともなうものである。その思考には、これまで生命が蓄積した知識が動員され、その行動の目的も、その過程も、生命から意味づけられる。*6)

 生命を担う人間として生まれ、持てるいのちを、生命の発展と連続にむけて投企する。そして、投企が向かう目的も、その過程も、生命から意味づけられるというような生き方を、デューイは、「最高に進化した人間の生命」「最も充実した人間の生命」とした*7)

 労働組合が、哲学的観点を明確にし、このことを行き着く先の港とすれば、否、しなければならない。そう考えると「労働組合は人間の学校だ!」*8)という、奥井禮喜氏の提起が、あらためて想起される。我が財団は、このことが、労働組合運動を通して実践されていくことを、助力し、媒介させる主体として在るべきなのだ。     

*1)~*7) 『民主主義と教育』デユーイ著、松野安男訳、岩波文庫1975年

*8) 奥井禮喜氏が、一貫して提起されていることを引用した。