あかでめいあ3 2008/05
戦争は最大の罪業である そのU山ア俊一


  


 戦争とは、本当に冷酷・非人間的なことが平然と行われます。こんな人間性を無視した悲劇を再び起こさないためにも、戦争を始めないための徹底的な努力が絶対に必要であり、そのために全知全能を傾けるべきではないでしょうか。
 「戦争は最大の罪業である そのT」は「あかでめいあ2005年第12号」に掲載しました。


「あかでめいあ」は人生設計を考える勉強会組織・ライフビジョン学会と、組合活動のあり方を研究するユニオンアカデミー会員の、一年間の学習成果を発表する年報です。2008年5月15日、第15号を発行しました。全体目次は「あかでめいあ発売中」頁でご覧ください。

あかでめいあ第15号発表原稿

「戦争と平和」に関する諸環境の変化

地球上は大きく変わりつつある
いま、地球全体は激しく変わりつつあります。そしてゆっくりと社会のルールや人々の生き方も変わってきています。
 その変貌の最大のものは、戦後長く続いてきた「アメリカの一極支配の破綻」です。突入後五年目を迎えたイラク戦争は、アフガニスタンを含め三九〇兆円(アメリカ民主党発表・日本の国家予算の四年半相当分)の巨額の戦費と、最新鋭の近代兵器を惜しみなく駆使し、四〇〇〇人もの兵士を犠牲にしても、いまだ終結の展望が見出せない状況にあります。
 とりわけ三九カ国にも及んだイラク派遣・有志連合軍はすでに半数以下(一六カ国)に減少し、いまやアメリカの兵隊が全体の九三%を占めている有様です。中でも主要な戦力と見られていた有力国の指導者の多くは、この派兵の功罪を問われ、次々と政治の舞台から消え去っていきました。
 いまや超大国といわれたアメリカの国力・発言力の低下は覆うべくも無く、あの六カ国協議の場での対応、朝鮮民主主義人民共和国とのやり取り、国際舞台における各局面の動きや、後に述べる経済面の動向などは、くっきりとその姿を映し出しています。

経済環境も大きな様変わり
 今日まで「世界の基軸通貨」としてゆるぎない地位を保持してきた「ドル」は、いまや根底から揺らいでいます。その価値をイラク戦争開始時点と比べてみると(〇七年一一月二八日現在)、対ユーロでマイナス四一%、対ポンド(英)でマイナス三三%、対円(日本)ではマイナス二〇%と大きく下落し、それ以降も低下の道をたどっています。当然のこととしてアメリカの〇七会計年度の財政赤字は二、一九〇億ドル(約二八兆円)と悪化し、前年比では三四%も増加しています。
 さらにサブプライム(米国低所得者向け住宅ローンの焦げ付き)問題は、その損害規模が米国の金融機関だけでも一〇〇〇億ドル超となり、全体では三〇〇〇億ドル(三三兆円)を超え、底なし沼の様相さえ示しています。それがドル不信感に拍車をかけ、いまや世界各国から怨嗟の声が湧き起こってきています。日本の六大銀行の〇七年九月中間決算でも大きな影響を受け、最終利益は前年比で四五%も下回っており、さらに巨額の支援基金の拠出も求められています。
 こうしたドル経済の凋落に比べて、東南アジアはじめ新興国は、目覚しい躍進ぶりを見せています。二〇〇七年の全世界の経済成長率は平均でプラス五・二%(世界銀行・IMF等の推計)と見られていますが、その内訳で見ると、新興市場・東アジア圏がプラス八・一%(内中国はプラス一一・三%)を占めており、アフリカ圏全体でもプラス五・八%と見られています。
 これに対しアメリカはようやくプラス一・九%、ユーロ圏は合計でプラス二・五%、日本はプラス一・八%程度と見通されています。
 かつてはアメリカ、ヨーロッパ、日本の三極で世界の成長率の過半数を占め続けていましたが、いまや中国、インド、ロシアの三カ国で成長率の過半数を制しており、アメリカとドルを中心としてきた経済環境も大きな地殻変動を起こしつつあります。
 とりわけ中国は、二〇〇三年以降の五年間、国民総生産(GDP)は平均一〇・六%の伸びという驚異的な成長を遂げ、いまやドイツに次いで世界第四位の経済規模を保持しています。中国と日本のまったく違うところは、働くものの暮らしなど見向きもしない日本と違って、中国は改革開放以来一貫して政策目標の第一に「人民生活の向上」を掲げ続けてきており、この数十年都市住民の収入は平均九%近く、農村部住民の可処分所得も平均六%台の増加が続いています。
 かつて五木寛之さんが述べていましたが、「中国の経済成長の拡大は、確実に人民生活の改善・向上と連動しており、大きかった日中両国民の生活上の格差は、想像以上のスピードで縮小されてきています。このままの形で進行していけば、あと数十年たったら、日本人の多くの人が「中国に出稼ぎに行く」という事態も考えられます」との言葉が胸にズシリと響いてきました。


日本丸はどこに漂流するのか


アメリカ合衆国・日本州で本当に良いのか
 経済や庶民の暮らしなどにはまったく関心を示さず、「戦後レジームからの脱却」や「憲法改正」など、「戦争ごっこ」にのみ異常な執念を燃やし続けていた安倍首相が前代未聞の珍事で去ったあと、「福田お下がり内閣」が登場しました。
 しかし、いきなり日本国民の意思や憲法よりも「アメリカとの国際公約に職をかける」と大見得を切りました。そして年金記録漏れ問題については「公約違反というほど大げさなものではない」とか「そんな公約したかな」などと国民感情を逆なでするような発言を繰り返し、やったことは補給支援特措法案と〇八年度予算案の強行採決ぐらいで、二月中旬までの一ヵ月間に日本の国民総生産(〇六年度五一一兆円)を上回る五六〇兆円もの株価の暴落があったのに対しては、何の手を打つこともできず、政権発足後僅か二ヵ月後には支持率はガタ落ちとなり、いまも沈下が続いています。どうも日本の政治の上層気流には、国家の危急を救う賢明な宰相を生み出す条件は備わっていないとしか思えません。
 いまやイラク戦争によって一層弱体化したアメリカ同盟軍の中で、日本は最大の支柱とされつつあります。ドル経済の斜陽化に立ち向かうために持てる国力のありったけを捧げつくし、四面楚歌となったアメリカと運命共同体に自らを位置づけようとしていますが、本当にそれでいいのでしょうか。

憲法の上に日米安保条約が君臨
 日本は一九五二年四月、日米安保条約が発効し、独立を達成した以降も一貫して「アメリカ合衆国・日本州」と言われてきました。つまり独立はしたものの、内実はまったく変わらず、政治・経済・外交・軍事などの全般にわたってアメリカからのアドバイスを受け、その指示を日本国憲法はじめ諸法制の一段上に位置づけ、今日まで国政のすべてを進めてきました。
 そのあり方はさまざまで膨大な範囲にわたるものですが、分かりやすい例を挙げてみます。一九九四年(宮沢内閣)ごろから、毎年秋になるとアメリカから政治・経済・財政・金融・労働などの全般にわたって「年次改革要望書」なるものが手交されるようになりました。日本政府はその実行を約束し、翌年の春にはその結果をアメリカ議会に報告することが慣例として続いてきました。
 もちろんあの郵政民営化(小泉内閣)問題などもこの中で求められたものでした。二〇〇七年の要望事項の大要は(安保条約に関わる軍事的課題などは別の窓口で行われますが)○医療機器・医薬品の市場開放、○銀行窓口での保険商品の販売解禁、○物流コストの引き下げ、○郵貯関連事業のあり方、○労働法規の改正問題などであり、これが独立国の姿でしょうか。こんな個別政策までにわたる押し付けが行われている国が、日本以外のどこにあるでしょうか。
 特に驚くべきは、アメリカの駐留軍に対する特恵措置「思いやり予算」と称する代物です。その中身は各種軍需施設、家族を含む高級住宅、小・中学校、スポーツ・厚生施設などですが、その総費用はアメリカが世界に展開している同盟国二六カ国分を合計した額よりはるかに多いといわれており、ここまで至れり尽くせりの優遇をしなければならないのかと他の国からも指摘されています。


日本の防衛(軍事)力の実態


世界の五指に入る軍事大国に
 日本の防衛(軍事)力の詳細は、極秘に覆われている部分が多く、公表されている限りの範囲で見ると、一九八〇年から二〇〇〇年にかけて異常なまでの軍拡を行い、通常戦力としては世界の五指に入る軍事大国の姿が浮かび上がってきます。
 @日本の防衛白書で見ても、九〇年から〇〇年の一〇年間の防衛費の伸びは、日本が一位、二位はイギリス、三位はフランス、四位はアメリカ、五位はドイツとなっています。
 A〇一年一〇月、イギリス国際戦略研究所の発表によると、世界の軍事費の比較では一位アメリカ、二位日本となっていました。
 B〇三年一一月、ミリタリーバランスが発表した「サミット参加国の軍事費比較」では、一位アメリカ、二位日本、三位イギリス、四位フランス、五位ドイツ、六位イタリア、七位ロシア、八位がカナダとなっていました。
 C〇五年六月、スウェーデン国際平和研究所の発表によると、世界の軍事費の規模では、一位アメリカ、二位イギリス、三位フランス、四位日本、五位中国となっています。
 このように防衛費、軍事費とその規模など、いずれの調査においても、若干位置づけは変わりますが、すべて世界のベスト五に入る軍事大国ぶりを示しています。このことは日本国憲法の精神を明らかに疎外どころか、蹂躙しているといわざるを得ません。

核兵器不保持という日本の立場
 前記したように防衛費・軍事力上位五カ国の中で、現在核兵器を所有していないのは日本とドイツだけです。しかし核兵器(もしくは核)の問題については、とても複雑な事情や歩みが見られます。
 @核問題について日本では、非核三原則(核を持たず、つくらず、持ち込ませず)が合意されてきましたが、近年なし崩し的に骨抜きにされ、徐々に有名無実化されつつあります。特に「持ち込ませず」については、一九六〇年の安保改定時「核装備の米艦船、航空機の立ち寄り、飛来などは自由にできる」という密約を結んでいたことが明らかになったにもかかわらず、今日までひた隠しにし、政府はいまも公式には認めていません。
 A核を巡る政府の憲法解釈としては「政府や党の機関としては核の論議は行わないが、それ以外の場では自由な議論としてやってもいい。――安倍前首相」とか、「必要最小限の抑止力の中には核(兵器)も入る、いまは核抜きの議論などできる状況ではない――中川前自民党政調会長」など、かなりあいまいなものとなっています。
 B核兵器も日進月歩で変わりつつあります。かつて広島に投下された一五キロトンの原子爆弾からはるかに破壊力を拡大し、いまや「戦略核」はメガトン(一〇〇万キロトン)級、戦術核でもキロトン(一〇〇〇キロ)級といわれ、ブッシュ政権が〇三年五月「使いやすい核」ということで開発した小型核兵器(数十キロトン級)でも、地中にある生物、化学兵器の貯蔵施設や各種の地下施設の破壊・破滅に威力を発揮するといわれています。
 C日本はすでに小泉内閣時代にMD(ミサイル防衛)の日米共同開発・共同生産にまで踏み込んでおり、最近ではアメリカ攻撃に向かうミサイルの日本による迎撃体制も可能になったとまでいわれています。
 対米関係で注目すべきは、〇七年五月一日開催の日米安保協議委員会(日本側は外相、防衛相。米国側は国務相、国防相が出席)の決定事項です。それは「米国は核兵器が日本防衛のための拡大抑止力の中核であることを再確認した」を始め、「新しい在日米軍再編計画は、米軍と一体となって地球規模での軍事行動を効率的に展開するためのものである」とか「そのため日米機密保護協定(いつどこでつくられ、どんな内容なのか)によって 軍事情報を共有し、機密保護をさらに強化していく」となっていることについて、日本人は本当に真剣になって考える必要があると思います。
 D日本はいまのところ核兵器を保持していることになっていません。一部ではそのことをもって「平和愛好国家」と見られている面もあります。しかしこの問題はそんな単純なものではありません。
 上記のように日米安保条約を主軸として、日米を運命共同体と位置づけるアメリカは、今後すべての軍事行動を不離一体(統一した軍事体制)で戦うことを明言しています。すでに米中央軍司令官は「日本の自衛隊はすべてアメリカ連合軍の一員」とはっきり述べています。
 したがって、日本がアメリカと肩を並べて戦う限り友軍であり、核兵器を必要とするときは、いつ、いかなる場面でも直ちに補給、もしくは貸与する準備があるということでしょう。
 要するに日本側が核兵器を保有しているか否かは、当面の有事に際してはまったく関係がないということであり、あえて言えば必要な事態になればいつでも使用できるということです。この問題も、それでいいのでしょうか。


戦争に通じる道


謀略・デッチ上げの常習国
 日本は残念ながら謀略・デッチ上げの常習国とみられています。事実関係から見ても、日本が太平洋戦争に向かって戦端を開いた満州事変は一九三一年(昭和六年)奉天郊外の柳条湖において、そして日支事変は一九三七年(昭和一二年)北京郊外の盧溝橋において、いずれも当時の関東軍によるデッチ上げ事件がその発端となっています。また一九四一年(昭和一六年)の太平洋戦争における真珠湾攻撃も、マレー半島上陸も、明らかに宣戦布告前に攻撃を開始しており、米・英両国だけでなく国際的に、欺し討ちであったことは明らかになっています。最近の「極東軍事裁判否定の動き」はこうしたことを極力覆い隠そうとする狙いであり、国際的には孤立の論理といえるでしょう。
 しかし、こうした謀略・欺し討ちなどの事実は、開戦時点ではまったく明らかにされないどころか、「爆破は怪しからん」「徹底的にやっつけろ」と戦意高揚に利用され、結果的に戦線拡大に有効な働きをすることになりました。これは戦時下の徹底的な機密保持と報道管制の中で起こったできごとであり、再び起こしてはならないことです。
 そしてこのようなデッチ上げの全容が国民の前に明らかにされたのは、すべてが終わった敗戦後も相当たってのことでした。このことも決して忘れてはならないことです。
 
国内政治でも欺しや嘘が横行
 国内政治の面でも、歴代内閣は国民に対し「欺しと嘘の政治」を続けてきました。例えば消費税については導入の当初から「社会保障や年金への充当」を前面に掲げながら、導入が決定されると掌を返すように裏切り、しかも逆に国庫負担の削減・保険料の引き上げ・給付の削減まで平然と行ってきました。また最近の例では、あの郵政民営化総選挙(〇五年九月)で公約したことなどはまったく無視し、郵便局の閉鎖や廃止、サービスの切り下げなどを堂々とやっています。
 特に日本では、選挙の際の「争点隠し」などは当たり前で危なっかしい課題などは表に出さない、出した公約でも単に「魚を釣る餌」のようなものであり、選挙に勝ってさえいれば「公約違反」や前言を翻すことなどは朝飯前という姿勢で、「選挙に勝ったことは、すべての政策に白紙委任を受けている」と勝手気ままに振舞ってきました。これこそまさに愚民政治といわなくてはなりません。
 また国民にとって極めて重要な外交や安全保障上の問題でも、真実を隠し欺し続けてきていることは、日本政府の品性をより疑わせるものとなっています。例えばあの沖縄返還時の密約問題(占領下の沖縄の人々にアメリカ政府が支払うべき復元補償費を日本政府が代わって支払うことを裏約束したもの)などは、アメリカ側が何度となく公表し、確認しているにもかかわらず、日本政府はいまも頑として認めようとせず、しかも司法当局(裁判所)までがこのことを追認していることです。さらに前記したように長年にわたるアメリカ艦船の核装備寄港や航空機飛来などの問題についても、アメリカ側が「核装備を解体しての訪日は物理的に不可能」とまで述べているにもかかわらず、現在でも公式には認めようとはしてはいません。そして国際外交の面では、平和憲法を表看板としながら、一九八〇年から二〇数年余にわたって総力を挙げて軍事力の増強政策を続け、この憲法の条文に真向から挑戦するかのように、軍事大国化の道をいまも懸命に走り続けています。
 特異な現象としては、日本の歴代総理や要人たちは、議会や国民に向かっては必要以外のことはほとんど語らず、アメリカに対してだけは遅滞なくすべてを本音で語り合ってきました。国民との約束などは平気で反故にしても、「箸の上げ下げまで指図」してくるアメリカとの裏約束にだけは異常な執念を見せるこの姿勢は、いま日本は本当に独立国といえるのか、あるいはどこの国の隷属下にあるのかを真剣に問うていると思います。

貧乏人いじめの冷酷な政治
 日本の国家財政の赤字は、〇八年の初頭で八四〇兆円を超え、国民一人あたりでは六五〇万円(四人家族では二六〇〇万円)の借金、さらに自治体での借金を加えると一〇〇〇兆円を超え世界一の借金国となっています。これを家庭経済に当てはめると、まさに破滅、夜逃げの状態となっていますが、政府はいまも本気になって処理する気配すら見せていません。その中でやってきたことは、以下のような手前勝手な政策ばかりでした。
 @このような財政危機が続いている中で、この六年間「改革」と称してやったことは、大企業には二兆九〇〇〇億円もの減税を行うほか、租税特別措置と称する優遇を行い、一方大金持ち(高額所得者)には八六年の所得税率七〇%から六〇%、五〇%、そして三七%にまで大幅に引き下げると共に、証券(株)を扱う者には売却益・配当にかかる税率は本来税率の半分(一〇%)に軽減し続けてきた。一方勤労者・庶民に対しては、この六年間五兆二〇〇〇億円もの大増税を強行し、消費を冷却し続けてきました。さらに消費税増税についてはいまも、「羊頭狗肉」の年金繰り入れや社会保障の充実などを掲げ、いまでも強行の構えを続けています。
 Aまた預貯金の利子についても、いま先進国では三%から五%ぐらいは常識なのに、日本銀行に圧力をかけ続けて、現在普通預金は僅か〇・二〇%の水準で抑えられ、過去一〇年間で約三〇〇兆円(国民一人当たり約二五〇万円)が庶民の懐から奪い取られています。
 B先進国ではこの一〇年間、ほとんどの国が五%から一〇%の賃上げを獲得してきましたが、日本では賃上げどころか逆に賃下げという悲惨な結果となっています。日本経済再生のカギは内需の拡大であり、そのための必須の条件は「賃金の引き上げ」であることは百も承知の政府はまったく動こうともせず、財界の論理に埋没し、結果的に大量の低所得者を生み出し、格差を一層拡大することになってしまいました。いまや国際指標で見ても、日本の労働分配率は格段の下位に位置し、最低賃金の額では先進国の水準には遠く及ばず、発展途上国のやっと中位ぐらいでしょうか。
 Cこうして日本人一人当たりの名目GDPは、小泉政権が発足した二〇〇一年には経済協力開発機構(OECD)加盟三〇カ国中五位であったのに、〇二年七位、〇三年九位、〇四年一二位、〇五年一五位、そして〇六年にはついに一八位と一直線に低下し続けてきました。このことは「小泉・竹中改革」とは何であったのかを象徴的に示しています。
 Dこうした働く者・貧乏人ばかりをいじめつくす冷酷な政策は、とても先進国の姿とはいえません。極貧国で見られるように「もう生きていけないから兵隊にでもなるしかないか」という風潮にも似て、いま徴兵制度のない日本で、戦争迎合派の喜びそうなやり方だと思えなくもありません。
 先日イギリスのエコノミスト誌が「日本悲観論」を発表していましたが、そのタイトルはa)盛り上がりにかける国内消費、b)大幅な国家財政の赤字、c)国内政治の不安定化、d)各種指標に見る国際的地位の低下、e)米景気後退による外需の減少、f)円高による輸出企業の業績悪化、g)日本ビジネスの非効率イメージ、h)外資系企業の誘致の困難性、i)超低金利による国内投資機会の欠如、j)雇用環境の劣悪さと低賃金、k)大都市と地方の大きな格差、l)日本の株価の低さ、m)食料自給率の低さ、n)少子化による経済縮小懸念、などとなっていますが、何か寒々としてきます。


戦時体制作りの経験は豊富


自衛隊の動きは要注目
 前段でも述べたように、いま日本には自衛隊、警察、公安調査庁などを中心に戦時経験者の知識が豊富に集積されており、戦時体制作りの面では、ありあまるほどのノウハウが蓄積されていることは間違いありません。そしていま、関係者ははやる心を抑えて時到るのを待っているともいわれています。
 問題の核心は国民の意識をどう、「戦時適応型に変えていくか」であると思います。もう戦争世代は八〇歳以上となってほとんど社会の中枢から退場し、子供のころの疎開経験者や空襲体験者を含めても国民の二〇%ほどに過ぎません。戦争をまったく知らない人が八〇%にもなった現在、子どもを中心として教育の重要性をことさら強調する「戦時体制派」の狙いがよく分かります。同時に戦争の持つ意味、その悲惨きわまる現実や平和への道のりの厳しさを伝えることもますます大切になってきています。
 いま自衛隊が国民向けに力を入れているのは、「平地に波乱を巻き起こす」わけには行きませんので、まずは「愛される自衛隊」を目指していることです。差しさわりの無い基地や艦内見学、戦車搭乗体験、航空ショーをはじめ各種の催しへの招待、町内のお祭り行事などへの参加などで親しさをアピールする。時にはアメリカ軍まで参加して、これらに協力しています。
 特に災害救援隊は自衛隊の存在を示すサービスの目玉であり、近代装備を駆使しつつマスコミをフルに活用して宣伝にも努めています。懸命に取り組んでいる人にケチをつける気持ちは毛頭ありませんが、消防署などに比べると始動も遅いし、「お役所仕事」的なことも時折ちらついています。しかし自衛隊のすべての活動は国民の税金でまかなわれていることを忘れないで欲しいと思います。
 しかし基地による被害はいまも続発しており、これに反対する市民運動や、最近頻繁に起こっている航空機や軍事用艦船によってもたらされる惨害などに市民感情が悪化してくると、「衣の袖からよろいがチラチラ」というように怖い顔がしばしばのぞくのは大変危険です。

情報保全隊は昔の憲兵か
 自衛隊はいまや高度の戦力を保持した武装集団です。すでに明らかにされているように、自衛隊・情報保全隊による情報収集や国民監視活動は背筋に寒さを覚えます。これはどう考えても戦時社会の再編を目指すものとしか考えられません。
 調査・監視の対象は驚くほど広範囲なものであり、全国に設置された方面別情報網を駆使して、国民のあらゆる活動を系統的に監視し、綿密に記録した膨大な資料です。内容は平和を求め、戦争に反対する団体・反自衛隊の声をあげた団体などを中心として、労働組合、法律家団体、宗教団体などの幹部や活動家を政党別に整理し、個人名まで記載されています。また放送、新聞、マスコミ関係者はじめ画家、写真家、作家など多方面にわたっており、地方版(地方議会・地方団体の動向など)もつくられています。
 さらにこの計画は、法律ではなく行政規則で定められているといわれ、問題はこのような膨大な資料を、多額の税金を費消してなぜ作成したかについて防衛大臣は、「自衛隊は全国民を監視する必要がある」と言うだけで、納得のいく説明はまったくなされていないことです。自衛隊を批判したり、反対する団体・個人を徹底的に洗い出し、いざというときは「危険人物」「非国民」のレッテルを貼ったり選別をするための下準備といわれてもしかたありません。


戦後体制作りの政府の狙い

 
武力攻撃事態法と国民保護法制
 戦時体制づくりの面で、いま政府が考えていることを端的に示しているのは〇三年六月に成立(小泉内閣)した「武力攻撃事態法」といえるでしょう。その概略は、緊急事態が起きたと判断した場合、「防衛出動」の名のもとに各地に防衛施設が造られ、民家を改築し、陣地を構築して展開し、病院の優先使用、医薬品の徴収、トラックや車両による物資輸送なども命令できるというものです。
 そしてその双璧となる「国民保護法制」とは、もちろん警報の発令や住民の避難・誘導などは行うこととなっていますが、「保護とは名ばかり」で、中心眼目は国民を徹底的に管理・統制するための罰則ばかりが強調されています。例えば「物資の保管命令に従わなかった者」「通行禁止・制限などに従わなかった者」「土地・家屋の使用や、物資の収用や立ち入り検査を拒んだ者」などの処罰項目がずらりと並んでおり、「問答無用の統制」だけが主軸となっています。
 そして一朝有事の際は、公共機関はもちろん、民間機関を含めて大々的に強制動員されることになっています。例えば電力、ガス、水道などの事業者。道路、港湾、輸送、鉄道、空港、ダムなどの管理者。金融機関、報道機関、原子力機関、各研究機関の責任者などはすべて協力を義務付けられ、命令に従わなかった者には厳罰が課せられることになっています。当然のことのように集会・出版・デモなどは禁止され、通信の秘密も保証されず、移転・移動の自由も制限され、物資は統制され、情報も完全な管理下におかれます。
 これらのことは「完全な憲法疎外の行為」であり、戦時中の戒厳令下と同じ自衛隊(防衛省)によるクーデターとどこが違うのでしょうか。街は疑いなく「死の街」と化し、国民生活のすべては丸ごと統制され、思想・良心の自由は奪われ、知る権利も奪われ、場合によっては所有権・財産権も命令一下、没収されることになるでしょう。

世の中が息苦しくなってきた
 最近街角には戦闘服の自衛隊員が堂々と現れて訓練や演習行為を行い、急速に硝煙の臭いが濃くなってきたといわれ、関係住民に不安や被害を与えています。前記したように空では自衛隊機の事故が頻発し、海では艦船による衝突事件も増加していますが、加えて米軍による住民に対する暴行事件もさらに増加する傾向にあります。政府の対応はどこから見ても微温的であり、これらのことは「安保体制化の必要悪」と見ているのではないでしょうか。
 平和や戦争に関わる学習・勉強・講演会などについての圧力も強くなってきています。特に関係団体に対する会場の貸出・制限などの行為も最近露骨になってきており、中には裁判所の判断にすら従わない一流ホテルまで現れてきました。一般の団体が戦争や平和に関する宣伝をしようと公安委員会に許可を求めても、なかなか許可してもらえませんが、右翼団体の街宣車は轟音を響かせて堂々と突っ走っています。右翼団体のビラが大量に貼られてもお巡りさんは知らん顔ですが、反戦ビラでも貼られていようものならすぐに跳んできます。これが現社会の素直な実態といっていいでしょう。
 特にやり口が汚いと思われるのは、米軍再編に関わる交付金の支給に当たって、国のやり方に反対する自治体には容赦なく支給を停止していることです。(沖縄・名護市、神奈川・座間市、など)これは国民の税金を使って反対する自治体を「兵糧攻め」にし、無理矢理言うことを聞かせようとする、強権的で卑劣極まるやり方といわなくてはなりません。


戦争とは非情・非人間的なもの

 
平時の常識では通用しない社会
 戦時体制を完成させるには、「勝つこと」だけを至上命題とし、ほかの一切の政策をこれと整合させ、軍事行動のすべてに非常大権を与えることが絶対条件となります。具体的な政策としては、軍事費を確保するための税金の強制徴収権とその使用権、軍事物資の徴用権とその増産体制の確立、情報・マスコミ・教育の管理権、言論・出版・集会などの統制権、徴兵の確保と軍需工場への徴用権などが不可欠の要件となります。
 また戦争推進のためには、あらゆる人や物を無条件で総動員することになります。その遂行を阻む者は組織であれ、団体であれ、個人であれ、徹底的に排除または抹殺されることになります。
 要するに戦時体制とは「完全な統制社会」をつくり上げることであり、自由主義的な発想や行動は一切許されず、平時の社会のあり方を逆転させることになります。それはある意味で「うっかりものも言えない」暗黒社会をつくり出すことになるのです。
 逆転社会といえば、平時は一人でも殺せば殺人犯としてどこまでも追い回されますが、戦時になり軍隊に入ると、真っ先に「人を殺す訓練」をさせられ、戦場では敵を一人でも殺せば誉められ、それもたくさん殺傷すれば英雄として讃えられることになります。
 しかし冷酷・非常・悪魔のような行為といわれる三光作戦(殺しつくし・焼きつくし・奪いつくす)にしても、すき好んでこんなことをするはずがありません。
 私は幸いというか年次も浅く、兵科も野戦工兵隊であったため、こうした地獄絵のような場面に遭遇することはありませんでした。しかし多兵科の混合体であった「捕虜仲間の会」などではいろいろな体験を聞かされました。だが戦争経験の豊富な古年次兵、古参下士官の人たちはあまり語ろうとはしませんでした。
 それでも頼み込んで聞かせてもらった話は、想像以上に悲惨なものでした。「少年兵を可哀想だと思って見逃したら、親友が撃たれて死んだ。その後はひざまづいて頼まれても殺すしかなかった。」「民家の老人や娘さんを殴り倒して食料を奪ったが、当時中隊の糧秣はカラで、仲間は餓死寸前の状態だった。」「この寒さの中で民家を全焼させては気の毒だと思って「手抜き」をしたら、思わぬ反撃で散々な目にあった、その後は手抜きなどする気にもならなかった。」など、ポツリポツリと話してくれた。血みどろの争奪戦の中で冒した残忍な行為はよく分かっている。「だから話したくないのだ」と言っていた。そして「いまでも時々あの場面が夢に出てきて、思わず手を合わせて謝っている。」いまは「こんな恐ろしい殺し合い、奪い合いの場面をつくり出した者が憎い。」と言っていました。

戦争には将棋のように捨て駒がいる
 戦闘に当たっては、場面ごとに各段階でさまざまの作戦計画が作られる。例えばある重要拠点を奪うために正面攻撃隊、左右からの側面攻撃隊、奇襲攻撃隊、遊撃隊などが編成されますが、その配置こそが各隊の運命を決することになるのです。
 戦端が開かれ、正面攻撃隊は命令に従い、多くの死傷者を出しながらも遮二無二前進を続ける。敵の砲火をそこに集中させている間に、側面攻撃隊が突破口を切り開き、拠点奪取に成功する。それは死傷者がどんなに多くても「戦いは勝利」となるのです。
 大きな戦闘場面でいえば、太平洋戦争中、あの栗林忠道中将が率いる硫黄島の陸海軍守備隊二万七千余名は、大本営の作戦本部では派遣の当初から「玉砕部隊」と位置づけられていました。つまり「全滅しても援軍は一切送らない」という無慈悲なものであり、全員特攻隊という扱いでした。将棋でいえばまさに「大きな捨て駒」であったと思います。
 戦争とは、本当に冷酷・非人間的なこんなことが平然と行われていたのです。こんな人間性を無視した悲劇を再び起こさないためにも、戦争を始めないという前段の徹底的な努力が絶対に必要であり、そのために全知全能を傾けるべきではないでしょうか。


戦後処理に見る民族性の違い

 
日本とドイツの驚くべき違い
 第二次大戦の「負の遺産」をきれいに洗い流したドイツと日本の違いは到底比較になりません。ドイツではあのヒットラーが行ったユダヤ人の大虐殺をはじめ、戦争行為によってもたらされた一切の事実を自らの手で調べ、詳細を明らかにし、国として誠実に謝罪し、関係者を厳しく処罰し、可能な限りの賠償を行ってきました。ナチス親衛隊員であった者は戦後六〇余年を経た今日でも厳しく追跡されており、逮捕されると極刑が待っています。
 これに対し日本では、極東軍事裁判はあったものの、処罰(処刑)を受けたのはトップ政治家と限られた高級軍人が中心であり、その後戦犯が首相や大臣に返り咲いたのも日本だけでした。とりわけ戦時中拷問・暴力・暴行死などに猛威を振るった憲兵隊や特高警察の幹部らは、お咎めを受けるどころかほとんど無傷で温存され、なかには国会議員となったり、自衛隊や警察幹部として横滑りした者もかなりいました。
 また日本人は自らが行った残虐非道な行為は、体面重視を最優先させるのか、恥ずかしさや悔悟の念が残るのか、すべての痕跡を徹底的に抹殺することに全力を上げています。例えば、あの細菌兵器の製造や中国人をその実験台に使ったハルピン近郊七三一部隊の事後処理に見られるように、巧妙な方法を駆使して秘匿・焼却などを行っています。そして関係者には固く口止めし、記録(少なくとも公式には)を残すようなことは絶対にしていません。
 しかしドイツ人のこれからに対する姿勢はまったく違います。私は戦後、あの悪名高いポーランドのアウシュビッツ収容所やドイツのザクセンハウゼン収容所を何回か訪れましたが、その落差にびっくりしました。
 そこには連日大量殺人を行った大きなガス室や、殺害(銃殺等を含め)現場が整然と残されていました。しかもドイツ側の執行官や担当者の名を記したノートが積み上げられ、そこには処刑した者の氏名、年齢、性別から殺害方法までが克明に記録されていました。そのうえ、天井までも積み上げられた着衣や衣料、身の回りの所持品はじめ宝石、ネックレス、指輪もたくさんありました。特に驚いたのは、色とりどりの毛髪、爪、歯などもそれぞれ山のように積まれていて、人間の脂肪で作られた石鹸までが陳列されていたのを見て、思わず息を呑んだ記憶があります。何よりも強烈な印象を受けたのは、こうしたことを秘匿しようとも廃棄しようともした形跡がまったく見られなかったことです。

ソ連邦の捕虜管理は杜撰
 私も前に述べたように、戦後三年間「殺されても文句も言えない」捕虜として、ソ連邦(現ロシア)のウズベック共和国の南端、中央アジアのパミール高原地帯にいました。砂漠のど真ん中で、まったく同じ形の強制収容所に入れられ、ドイツ人やイタリア人の捕虜と共に強制労働に従事させられていたので、あのユダヤ人の人たちの絶望的な日々の実態はよく分かります。しかしここでも平地で海抜二〇〇〇m、日々の労働も生半可ではないうえ、夏は五〇度近くの酷暑となり、冬は零下四〇度の寒さの中で何度死線をさまよってきたことか、そのなかでたくさんの仲間が恨みを呑んで砂漠の砂の中に消えていきました。
 私は戦後、総評(労働組合)の代表団として、何度もソ連邦を訪問する機会を得ました。幸い当時のソ連邦の労働組合幹部の社会的地位は高く、普通のことなら大抵の頼みは聞いてくれました。そこで私は機会ある度に、「私はかつてソ連の捕虜であった」ことを話し、仲間の慰霊のためにも現地を訪問させて欲しいと頼んだ。ところが話がこのことに移ったとたん、いっせいに顔を見合わせ、以後は何とかして話題を変えようとしたりしました。特に最高幹部クラス(党中央委員)ですら迷惑そうな顔をして、取り合ってもらえず、私はあきらめることにしました。彼らもこの問題では「後暗さ」や「負い目」をもっており、まともに話し合えるような状況にはなっていなかったのです。

シェレーピン氏の好意もあって
 たまたま一九六七年は革命五〇周年に当たり、ソ連邦では革命記念日(一一月七日)を中心に国を挙げての大祭典が行われ、クレムリン宮殿内では記念行事として「世界九〇カ国労働組合首脳会議」が一週間に亘って開かれていました。私は日本代表として何回か発言しただけでなく、アジア代表間のまとめ役まで頼まれ走り回っていました。そのこともあって会議の主催者でもある全ソ労働組合評議会の議長シェレーピン氏(当時ソ連共産党でブレジネフ、コスイギン、ミコヤン氏に次いで序列第四位の幹部会員)と親しくなり、二人だけでも話し合える仲になっていました。
 祭典行事が終了後、帰国を前にして「仲間の眠っているウズベック・スタンに何とか行かせてもらえないだろうか」と頼んでみた。シェレーピン氏は一瞬黙り込んだが、さすがにナンバー4の幹部会員だけあって「分かりました。あなたには今回本当にお世話になり何か御礼をしようと思っていたところでした。しかしこの問題は当方にもいろいろ事情があって、がっかりされることもあるでしょうがぜひあなたの目で実情を見てきてください」と現地幹部への手紙まで添えてくれた。
 タシケントでは現地のトップ幹部が対応してくれたが、既に二〇年以上を経ており、収容所は完全に取壊されていたが、われわれが造った劇場はじめ建造物や作業所などはかなり残っていました。しかし収容者に関する資料などは、中央政府からの指示で一〇年ほど前にすべてモスクワに持ち去られたとのことでした。
 日本人墓地に行ってみると、山陰のさびしい場所に土饅頭が並び、丸太を削った棒が立ち、そこには捕虜番号(何本かには日本名も書かれていた)だけが示されていた。それでも救われたのは、優しそうなウズベック人の老夫婦が墓守をしてくれており、近所に住む人たちが交代で世話をしてくれているとのことで、その日も野花が手向けてあった。現地人の人々は、われわれが捕虜のときから日本人にはとても親切であり、この日も「ヤポンスキー・ソルダート。日本の兵隊さん」と寄ってきて、懐かしそうにいろいろ話してくれた。
 〔注〕その後、現地を訪ねた人から大分改善されたことを聞いたが、シェレーピン氏の指示であったかどうかは分からない。そして民間交流も可能になり、私の友人や抑留者団体の関係者も訪問を重ねたなかで準備体制をつくり、駐ウズベック日本大使館やウズベック共和国政府の支援も受け、確か二〇〇二年の春ごろには、現地に「鎮魂の碑」と近辺四箇所に「抑留者記念碑」が完成したと聞いた。もちろんきちんと納骨もされたようですが、だからといって詳細な身元が判明したわけではありません。

戦後処理のあり方もよく考えよう
 私の推測する限り、ソ連邦時代の日本人抑留者に関する記録は、われわれに対する扱いからみてもいい加減なものであり、モスクワに持ち去られたとはいえ、ドイツとは比べものにならないほど杜撰なものであったと思います。だからこそ、国交を回復した今日に至っても、日本側に渡せないのだと思います。
 こうした違いはドイツ人(ゲルマン民族)ロシア人(スラブ民族)日本民族など民族性の違いからくるものなのか、あるいは宗教観、戦争観、歴史の由来、おかれた環境などからくるものなのか、検証してみることも必要ではないかと思います。
 また日本が行ってきた戦後処理問題では、中国残留孤児問題や戦時中強制連行して酷使してきた中国人や朝鮮人の人たちのこともありますが、私はあの太平洋戦争中海外で戦没した二三〇万人もの人たちの中で、いまも遺骨が収集(帰国)されていない方が一一六万柱もあることに注目します。収集作業は政府も協力して、一九七五年までは年間一万柱ほどのペースで進んでいましたが、以降は極度に縮小され、二〇〇〇年に入るとほとんど途切れてしまいました。五〇年たったら「戦争は終わった」とでもいうのでしょうか。
 「お国のため」といわれて強制的に召集され、苦しい戦場で生命がけで戦ったことにはまったく変わりがありません。しかし行方不明のその人たち(ご家族)にはまともな補償などもなされていないはずです。そんなことでいいのでしょうか。これが戦争というものの終末の姿といえるでしょう。


【山ア俊一】
1926年生まれ、44年志願で入隊、45年ソ連に抑留、48年復員。52年総評本部勤務(企画部長、企画室長)、80年中央労福協事務局長。92年日中技能者交流センター常務理事、参与。




On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |