8月5日(土)ライフビジョン学会では、中国古典読書会十周年記念発表会「古典の上にも十周年」を行いました。読書会メンバーはサラリーマン。仕事の専門と中国古典文学をジョイントすれは、何か新しい発見がある。かも?と、この十年の学習から得たささやかな『甘露』を発表しました。
科挙の仕組み
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人にはどれだけの空間が必要か
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儒林外史「貢院」にみる最小限空間
伊東正人 集合住宅設計のエンジニア
住宅の平面プランを設計する場合、そこに住まう人の使い勝手を考え、無駄のない機能的な空間の提供が求められる。人が住宅の中で行なう行動は炊事・洗濯・掃除・食事・睡眠・洗面・入浴…これらの入れ物、器として住宅はどうあるべきかという問題である。例えば、世間一般にあるワンルームマンションの広さは平均18uぐらい、中には15uぐらいのものもある。
ところで「儒林外史」という小説には科挙(官吏登用試験)に使用される試験会場(貢院)や受験する部屋(号舎)の記述がある。そこで私は、その非常に小さな空間(広さは約1.1u)とそこで行なわれるであろう人の行動にスポットを当てた。
「儒林外史」は中国古典文学中の逸物と言われながら、残念ながら日本ではほとんど知られていない。その内容は科挙(官吏登用試験)というきわめて形式主義に堕した制度によって生み出されるさまざまな社会の矛盾、および人間性を失った知識階級の生態を描くオムニバスである。登場人物もストーリーも派手さはなく、皮肉っぽく、時には哀れ、時にはほのぼの、人間模様も描き出している。
貢院の号舎は通路の両側に幾棟もの号筒があり、この号筒は馬小屋のごとく仕切られていて、辛うじてひとりが入れる狭い部屋になっている。これが号舎であり、この中で試験を受ける。南京の貢院は295棟、20,644号舎あったといわれる。そこに試験官・試験事務官の宿所や事務室や採点場その他が付属するので、貢院は広大なものであった。
受験者は前日、暗いうちに入場する。全受験生の収容に1日かかり、号舎で一晩あかして翌日より試験開始。受験生は筆記用具や夜具や食料品を持ち込む。受験時間が長くまた陰気な所であったので、病人が出たり怪談が生まれたり、不思議な夢を見ることもあったという。
■号舎の空間―建物の寸法関係
号門の大きさ:幅3尺、高さ6尺
号舎前通路 :幅3尺
号舎の大きさ:間口3尺、奥行き4尺(面積約1.1u)、天井高6〜8尺、棚板3枚(机用、椅子用、物置用)
号舎の構造・仕上げ:壁―レンガ積、床―石張り、屋根―木造下地瓦葺き、前通路の床―石張り
号舎での行為:準備(片付け)―必要なもの意外は物置棚に載せる。食事(食料・飲料)―椅子に座り、机の上に並べる。就寝(夜具)―机用棚と椅子用棚を付けてその上で眠る※1。受験(考慮、筆記)―椅子に座り、机に向かう※2。洗面(水の入手)―子釜に水を汲んでくる。排泄(トイレ)―然るべき場所へ行って用をたす。
※1体をエビのように曲げて眠る。
※2昼間と夜では向きが違うと想像する。昼間は外を、夜は燭台の方を向く。昼間でも雨が降り出したら燭台側を向く。答案を雨で濡らさないため。
号舎の広さは約1.1u。これは茶室の1畳台目(約2.8u)より狭く、今日でいうやや狭目のトイレの広さと同じ。ここで先ほどお話しした行為が行なわれる。設計というものは人の生活を映し出す。具体的には行為に対応する空間を作り出すことである。私は今までは古典を読むだけであったが、今回は原稿作成にあたりこの空間に座り、寝転んでみた。どんなに狭い空間でも試験に合格するため、自分の夢を叶えるために懸命にここで闘った、古人の人々の心を実感した。家の中に自分の書斎がないと嘆く世のお父さん。部屋の片隅でもベニヤ板が2枚あれば、工夫次第で書斎コーナーが造れますよ。
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水滸伝・宋江の人心掌握術
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塩田昭男 食品会社人事マン
水滸伝の舞台である北宋時代は、国内政治の不調と異民族の侵略に苦しんだ。第8代の皇帝は文化政策を重視し詩文、書画の隆盛をみたが、政治的手腕のない側近による政治は腐敗し、北方の新興王朝・金に侵略され、皇帝は北方に連れ去られ、「北宋」は滅びてしまう。
このような時に国政を正そうと立ち上がった宋江は、色は黒く、背は低く、おまけにデブ、そして人まえでよく泣くのである。これは中華の大人(勇気や能力があり体格もよい)のイメージとは大きくかけ離れている。このような男がなぜリーダーシップを発揮できたのか、私はここに興味を抱き、水滸伝の主人公である宋江を取り上げた。
宋江が棟梁を勤める非合法集団・梁山泊は三つのグループに分けることができる。第一グループは下級の軍人、第二グループは半盗半商の漁民や交通労働者、第三グループは胥吏(しょり)と衙役(がえき)からなっている。それぞれ個々人が技術・技能を持った集団であり、ただの盗賊の集団ではない。それぞれのグループがその役割を理解し責任を全うしたのである。
このような集団を宋江は何故、統率できたのか。それは自分より優れた能力を持つ者に対しては競争心がなく威張らない。必要な人材を梁山泊に迎える時は、三顧の礼に近い対応と処遇をしていること。獲得した物資、物品は部下の成果に応じて公平に配分している。そして決して私腹を肥やさない。また一般庶民からは決して略奪はせず、時には物資を支給している。このような人物・人柄にこそ、人はついていくのである。
宋江は決して率先垂範型のリーダーではない。大組織のリーダーは率先垂範すればよいというものではない。宋江のリーダーシップは、有能なデュレクターの能力をいかんなく発揮させる「プロデューサー」的である。英雄豪傑という派手さはないが、宋江のリーダーシップは現代の企業社会において大いに参考にすべき点があると思う。
水滸伝はあまたの英雄が活躍する小説であるが、宋江本人はさほどの活躍はしないという、不思議な小説でもある。
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女の毒とセクシアリティ
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紅楼夢と金瓶梅から
片山洋子 人生設計セミナー講師
儒教社会は女に厄介な決まりが多かった。例えば「夫以外の男を見たら物陰に隠れるのが女のたしなみ」だという。「孟子」では、母は娘が嫁入りするときは、「夫の家に行くのだから、慎み深く、夫の言いつけに逆らってはならぬ」と教える。また駄目な男をけなすのに、「素直で言いつけを聞くだけを正しい徳とするのは、婦女子の生き方である。自分の利益のために諸侯にこびへつらう公孫衍らの生き方は、婦女子の生き方である」と。ケッ、何も女を引き合いに出さなくたって。
それにしても「結婚」は女にとって生活の手段であった。紅楼夢では「上流の婦女は嫁す他に食う術はなし」と美少女に嘆かせ、美人尼は「来世で男に生まれ変わってこられたらこれより結構なことはない。お嬢様方が一旦お嫁に行かれたが最後、一生涯人の言いなりになってどうしようもない。」ある女中など、主人が死ねば誰かの妾か、小者にめあわされるという先行きを嫌って自殺までしてしまう。
「ろうそくのように立ち、柳のようにお辞儀をする」これは美女の形容である。ろうそくのようにゆらゆらするのは、纏足で不安定だからちゃんと立てないのである。「平民の女は自分で歩く。金持ちや大官の婦人たちは手を執って導く。足は全部、多かれ少なかれ奇形。また、親のしつけが足りなかったり注意が足りなかったりして足が自然のままの満足な形をしている者は、本物の足の下に作り物の足を嵌めているが、それはあまりに小さくて歩けはしないので、召使たちにすがって歩く。」とゴンチャロフ「日本渡航記」(香港、嘉永六年、)にある。おかげで事故や天災では、女の犠牲者が多かったとか。
紅楼夢が純愛、清純な乙女たちの物語としたら、性や淫を武器にするたくましいお姐さんたちの話が金瓶梅である。彼女たちは儒教の禁則を巧みに縫って、「男から身を隠し」ながら「風月」や「あだし心」に身を任す。主人公の一人、藩金蓮は夫を殺して金持ちの西門慶に乗り換える。夫が生きているうちに夫の資産を西門慶に差し出して、夫が死んだら輿入れする李瓶児もいる。清純派の紅楼夢にも、男色や女傑は登場する。ここでは性は生活の糧でなく、快楽の道具である。
死に方の変り種では「淫死」がある。プレイボーイの西門慶は淫乱度が増す藩金蓮の要求に応えきれず、金蓮に淫薬を盛られてついには淫死する。あるいは女傑・王熙鳳は自分に懸想する若い独身男を妖艶姿でたぶらかし、この男も多量の精を洩らして淫死する。
「古今の女子は淫という言葉を侵すことはなりませんが、情という言葉にも染んではならぬ。善に福あり、淫に禍あり。」と紅楼夢は書く。現代女性の耳にはきっと、届くことはないであろうが。
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諸葛亮孔明の後継者育成
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三国志から
矢野眞一郎 セールスマン教育講師
三国志とは羅貫中の作による、蜀・呉・魏の三国鼎立の時代を描く物語。蜀の皇帝・劉備玄徳が諸葛亮孔明を軍師としてスカウトするときの「三顧の礼」は有名な話である。
劉備玄徳は自らの死を前に孔明に、部下の馬謖の能力について聞いた。孔明「まず当世の英才と存じまするが。」劉備「いや、そうではない。わしの見るところ、あの男は、言葉が内実をこえておる。大任は背負えまい。よくよく心するよう。」このやり取りが後の「泣いて馬謖を斬る」の伏線である。
馬謖は議論風発、人並み優れた見識をもち、当世の英才と認めていた。孔明は南征軍の幕僚の中に加えて街亭(糧道の要地)の守りを任せるが、馬謖は見事失敗。水も食事もなくなり陣中は混乱して統制が取れなくなり、街亭を敵に奪われてしまう。その責任を問うて孔明は泣く泣く馬謖を斬る。
この泣いた理由について孔明は説明する。「馬謖のために泣いたのではない。先帝は臨終の折、馬謖を重く用いてはならぬと言った。わたしは自分の不明を深く悔やみ、先帝のご明察が思い出されてならぬ。泣き悲しんだのはこの故である。」と。人を見る目は劉備の方が上であったのである。
しかし孔明にも成功したヘッドハンティングがある。孔明の計略を見破った魏の大将・姜維を降参させ、自分の知恵を引き継ぐ将軍に育て上げる。自分の天命がつきたことを知った孔明は姜維を呼び、「わしがこれまでに極めた限りは書物にしておいた。大将たちを見渡したところ、ほかに人がない。将軍、そこもとに授けよう。」と軍略の書物を託す。
姜維は孔明の後を継いで29年間、蜀の8倍の軍事勢力がある魏を相手に戦った。しかしその主人である劉禅のリーダーシップは不出来なばかりか、姜維の箴言に耳をかさず巫女の言うこと聞き、宦官を近づけ酒食にふけり、国政を顧みなかった。賢人は次第に朝廷を去りつまらぬ輩ばかりがはびこった。
国や組織を発展させるには、やはりトップが誰であるかが重要である。孔明はあくまで参謀であり、劉備の死後、後主劉禅を後見してよく頑張ったが、暗愚な後主劉禅によって蜀は滅亡してしまった。
人材育成には時間が必要である。孔明が生きた時代は、戦国時代であり即戦力が求められる。孔明に人材育成はできなかったが、姜維という優秀な人材をヘッドハンティングし、自分の後を託した。姜維は孔明の思いや期待に応え、孔明の死後蜀が滅亡するまでの29年間をよく頑張ったと私は思う。能力のある者を見いだして重く用いることがとても大切である。
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中国古典の楽しみ (抜粋)
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奥井禮喜 人事・労働問題コンサルタント
○ 雄渾な中国小説
中国文学は程度の差はあるが、いずれも歴史・政治・文学の三要素が絡み合い、いわゆる私小説的軟弱さが感じられない。小説のできた時代背景を重ねて読むと、真綿で首を絞めるように人々が政治体制の首根っ子を絞めようとしているようでもある。「没法子」(メイファツ)、表面的には手の打ちようがない、仕方がないと首をすくめているのだが、断念したのではない。「隙あらば、今に見ておれ」という本心が隠されている。人々が悲鳴を上げたときには巨大な力を発揮してのける。日本人とは様子が違う。
「金瓶梅」や「紅楼夢」は読み方によれば封建社会に跪かされている女性の雄叫びでもある。中国女性は逞しい。紅迷現象には女性読者の強い共感があったればこそである。
「三国志演義」や「水滸伝」が悲憤慷慨物だとすれば清代の三篇は明らかに時代の在り方を批判している。そして儒教の牢固とした社会的精神をぽつりぽつりと批判しているようでもある。中国は数千年に渡って、王朝が腐敗堕落すれば革命が起こる。新王朝が起こればまたまた庶民的期待とは異なったお化けのような権力が徘徊する。中国の庶民はこの歴史の中で逞しく生きてきた。
○ 中国的リアリズム
人間関係には論理と情理が必要だ。しかし論理と情理を兼ね備えた人格が容易にできるものでもない。デカルトは「われ思う、ゆえにわれ在り」と言った。林語堂はこれをひっくり返して「われ在り、ゆえにわれ思う」と喝破した。それを思うと中国人はまことにリアリズム的なのではないか。
彼らに幻想はない。現実は受容するしかないが、重たい現実に耐えられなければ押し潰される。そこで彼らはユーモアをもって処世術とする。現実を笑い飛ばし、笑いながら月が満ちるのを待つ。ユーモレストは大局観を持つのである。その日常的態度は生活を愉しむ技術であろう。中国料理のこだわりは胃袋がそうさせるのではなくて、中国的精神が生活を愉しもうとするゆえなのではなかろうか。
昔一人の処士が言った。「贓官よりも清官のほうが煩わしい」。贓官すなわち汚職官吏である。清官は原理主義になりやすく他者の意見を拝聴しない。だから汚職官吏のほうがましだという。正しい論理ではない。悪漢はやはり悪漢であるのだから。しかし、この言葉に示された現実主義は強烈である。そして、悪漢より具合のよろしくない清官が登場するという極めてシニカルなユーモアを示してもいるのである。
「邯鄲の夢」(李泌)という小説がある。進士試験に落第して失意の青年・盧生が拝借した枕をして眠ると、どんどん立身出世して栄華を極める。目覚めてみればまだ黄粱が炊けていなかったという有名な物語で、一般的には人生なんてそんなものだよ、栄枯盛衰の儚さの喩えとして使われている。
しかし、そうであればすでに生きる意味などまったくない。これでは虚無である。そういうことであれば、いったい科挙制度が数千年に渡って営々と継続するであろうか。むしろ、あらゆる行為は虚無の上に構築される。そして人生は短い、だからこそ科挙に合格するのしないのとあたふたしているような人生・社会でよろしいのか、と叫んでいるのではあるまいか。ことさら食(生)を大切にする中国人の人生観の下地は半端ではない。彼らの儚さはゆく春の儚さなのである。
中国はやはり文の国である。歴代帝王が先史を継続して遺してきた伝統は現代中国の庶民の中に脈々と息づいている。それこそが歴史の知恵というものである。ほんの100年前からの歴史すら半端に水に流すような日本人はもって瞠目すべしである。中国を尚文の国といい、日本を尚武の国という。しかし文学の精神世界においては、中国は雄々しく、日本は軟弱である。
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