2007/02
定年と自由の関係研究会ライフビジョン学会



やってみましょう
【定年後の24時間】


あなたは定年後はどのように過ごすのでしょうか。そのごく普通の一日を設計してみましょう。但し、
@仕事は無いものとします。
A現在のあなたの力量で設計してください。
B生理的な行動をする時間も記入してください。


このゲームは(有)ライフビジョン奥井禮喜が1976年、三菱電機労組在任中に開発したものです。記入の感想は本文をお読みください。





































































































定年から自由へ

        
































 人口の9%を占める団塊の世代が定年を迎える。定年とは定められた年齢に達して雇用関係を終了することである。会社から社会に大量の人口が移動することにより、少なからぬ変化も予想される。
 ライフビジョン学会では2006年7月、パネル討論「定年とは何か」を行った。(本2006年7月号参照)その中でアピールされたのは、「定年後の自由が満足につながらない」ということであった。そこで「定年と自由の関係」をさらに深めようと2007年1月27日土曜日、ライフビジョン学会主催による「定年と自由の関係研究会」を開催した。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「定年後の24時間」ゲームの示唆 
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 多くのサラリーマンは定年イコール自由、好きなことができると考えている。現役時代にも自由はあるはずだが、「決められた時間、決められた役割に没頭して自由を考える暇もない」と思っている。
 現役時代には自由時間がないというサラリーマンが定年になって、今度はやることがないとボヤく。同じ時間を違って感じさせる「定年」とはいったい何か、さらに定年者の内面にはどんなさざ波が生じているのだろうか。
 「定年と自由の関係」研究会ではまず、人生設計セミナー定番の「定年後の24時間」ゲームで、仕事のない一日をシミュレーションした。このゲームは(有)ライフビジョン奥井禮喜が1976年、三菱電機労組在任中に作ったもので、今ではライフプランセミナーでは不可欠のツールである。
 参加者は「定年後の24時間」に、こんな「したいこと」を書き込んだ。
 パソコン、ギター練習、囲碁、家の修理、植木の水遣り…したいことが決まっている。
 資格取得の勉強、スポーツクラブ、投資の勉強、ボランティア…目的がありそうだ。
 くつろぎ、団欒、外出、家内と過ごす、妻との会話、読書6時間…オィオィ。
 休憩、自由時間、翌日の計画、昼寝、飲酒…することが無いんだね。
 仕事時間を除くと一日はずいぶん長いから、皆さん「時間潰し」に苦労する。ある程度は埋まるが3時間分ぐらいは埋まらない。「寝る」時間を長く取るのも、動機に不純なものがありそうだ。雨でも降ればたちまち困る。まだ相続していない「妻の実家の広い畑で農業」などと期待する。潰すとか埋めるとか、出てくる動詞が後ろ向きになりがちでもある。
 参加者の発言を編集してみると…。
 【一人じゃ間が持たない】。人と会うことがない。自分ひとりでやることばかり。人と触れ合うところにいたい。誰かを求めて外出したい。
 職場ではコミュニケーションを阻害するとしてインターネットやメールの評判が悪いが、「定年後は外のつながりをインターネットで」と【パソコン】に向かう時間は長く取る。それを聞いた体験者は「インターネットで社会とのつながり維持は無理だね」と答える。
 【犬の散歩】はこのゲームの隠れた主役である。「犬の散歩。以前は面倒だと思っていたのに、やっぱり飼ってみようかな。」犬にでも遊んでもらわなければすることがない。「犬を連れて行ける元気なうちはいいが、元気がなくなったら猫のほうがいいかな。」「今から引っ張られていて先週、転んで腰を打っちゃった。犬の体力もいずれ衰えてくれるだろうけど。」
 【お金】があればスポーツジムもゴルフも行き放題。しかし現実は「区民プールでスイミング、来週は青梅マラソンに出るゾ。」「趣味は歩くこと、絵を描くこと、図書館通い。」お金がなくてもやりたいことは工夫次第。
 「今でも日曜日に、障害を持った子供と一緒に遊ぶ活動をしている。これは続けられるだろう。」「お世話になる前にお世話をしてみたい気もある」一方で、仕事で介護事業の責任者をしている人が、「大変だよ。私は介護を【ボランティア】でやろうとは思わない。仕事で金をもらえるからできるのかと思う。」などと言うとちょっとひるむ。
 【趣味】囲碁将棋の場合、愛好者が減っているからちょうど良い相手を探すのに苦労するとか。碁会所に行けば金がかかる、インターネットなら安上が
り。だからパソコンの前に座り込む。別の人は、スポーツクラブには同じ趣味の人が集まるから、クラブを通じて呑みに行ったり、今度マラソンに出ようかとかなどと新しい付き合いが育つこともある、と。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ サラリーマンの特性は何か 
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 発言の中から、サラリーマンの特徴を示すものを集めてみると…。
 防災の観点から考えると【地域社会】との濃密な関係が大事だ、と誰かが言う。とは言うものの隣近所とは挨拶以上・友達未満の間柄。趣味も遊びも近所づきあいも、そこそこ同じぐらいのレベルでないと、ラリーは続かないものである。サラリーマンの日常は地域からあまりにも離れている。
 地域に溶け込む難しさのひとつに【職住分離】がある。田舎では仕事域と生活域が一緒だが、都会では人的・物理的環境が昼と夜とで分離している。生産と消費も同様、本来一人の人間に表裏一体で存在するものが、「雇用される労働」によって引き裂かれている。
 サラリーマンにつきものの転勤もまた人間関係をリセットする。単身赴任はときに、家族関係をリセットさせることもある。
 日常生活に【テーマ】があれば、時間は息を吹き返す。「大学の講義を受けたり自分が講師をする。その準備が要るし勉強になる。」「安い旅行をしたい、そのための語学、場所の研究などが必要だ。」「シルクロードに行こうとすればそのための資料調べなど、1週間から10日は集中してのめりこむ。」
 「○○をしようとすれば時間がない、何をやろうか?と思うとダラダラ、記憶にも残らない時間を過ごすことになる。」
 ところで「したい○○」は内発・能動的なものか、外発・受動的なものなのか。普段自分の口をついて出てくる言葉は「○○をしよう」と「○○しなければ」、どちらが多いのだろう。
 時間の主役は【主体性】である。「定年後の24時間」ゲームは主体性の不在ぶりをあぶりだす。雇われて働く働き方はときとして、自分が自分の主役であることを放棄させる。労働はどんどん細分化し、個人から工夫や判断、裁量や自己決定権が消えていく。経営は最大効率をあげる方法をマニュアル化し、働く人はルールを守ることを優先して、職場はじわじわ官僚化・ロボット化が進む。
 「時間を与えられて設計する難しさを痛感した。仕事ではあれやれこれやれといわれてしゃくに触るが、そのほうが楽だと気が付いた。」という感想は、そのことを意味して余りある。
 【企業の人事制度】は生産性と人間性をバランスさせるのが仕事だが、秤の針は効率の側に振れがちだ。時の大臣は人間を効率よく生産する機械、その生産物を大量に消費して経済に貢献する機械と見ている。
 男も女も生産の道具とされて、生きる喜びや楽しみを開発することなく人生を消耗している。労働時間や休日、賃金のあり方は生活の糧にとどまらず「社員でいる時間」以外の生き方や価値観をも規定する。定年後の時間意識はこれらの習慣の結果である。
 主体的な働き方、つまり主体的な時間の過ごし方・生き方をしているのか。問題は、現役時代の働き方にある。定年とはそれまでの日常から自分の主体性を取り戻す「レボリューション」なのではなかろうか。
 【時間】についての気づきも貴重である。「時間は平等にある。自分だけが忙しかったり暇なわけではない。」もちろんそれは、現役とOBの間も同じである。
 自分の存在が希薄な【現役時間】と自分の存在を突きつけられる【OB時間】。両者にはアイデンティティの強弱がある。子供たちなら猛然と反発する「自分の時間が誰かに支配される」ことを、大人は安易に受け入れる。
 確固たる自分の意思は、あるようで無い。ありもしないものを「あるある」といわれて簡単に受け入れる。物事がそんなに単純でないことは知っているのに、簡単に儲かる、痩せる結果を求めて、考えることより信じることを選ぶ。
 束縛されない「気まま」さは、素敵なようで心細い。生きるテーマを自覚しない自分自身は、糸の切れた風船みたいな不安がふわふわ漂う感じである。
 自由な時間とは人生そのものである。ホワイトカラー・エグゼンプション問題はだから、働く人の時間をすべて労働に吸い上げ人間の自由を狭めようとする意味において、前近代的である。にもかかわらず人々は、虚無から逃げるために自分の時間を売り渡す。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 自由時間への冒険 
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 定年は仕事の義務からの解放であるから、その本質は自由の獲得である。しかし、自由か非自由かについて規定するのは本人のアイデンティティである。
 ハンナ・アーレント(独・哲学者)はいわゆる仕事の質を「労働→仕事→活動」に3区分した。仕事が活動の方向にシフトすれば自由であり、労働へシフトすれば義務感が強くなる。果たして人々は、現役時代どんな質で働いていたのだろうか。その結果、定年によって「義務から自由になる」のであろうか、「自由から自由になる」のであろうか。
 サルトルは、自由は恐ろしいという。どんな人生を生きても良い自由は同時に、人を殺しても良いのである。自由とは何もないことであり、無を感じるのは不安だからである。猫や犬は退屈や不安を感じないだろう。
 自我、アイデンティティ、これは形成するものである。赤ん坊を食事だけで育てたのでは自我は育たない。自我を形成するとは動物であることを否定することである。子供のころは毎日違うことにぶつかる。大人になると変化を嫌い、昨日と同じことが気持ちよくなる。自我は死ぬまで形成するものであり、自我の形成とは死ぬまで自己否定を繰り返すことである。
 定年後のすることのない自由時間に、何をしたいのかがはっきりしていないまま「趣味でも持ちましょう」というのは反対である。せっかくの自由な人生を狭めてしまうことはない。
 趣味とは本来、趣、味わいのある人生のこと、歓喜を誘うものであるから、自分自身の趣味を育てる発想を持ちたい。囲碁もスポーツジムも、時間潰しの道具ではない。
 時間の埋められない「定年後の24時間」は大歓迎である。それは働く機械が人間的成長を遂げようとする、そのスタートに立ったことであるから。

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次回「定年後研究」は6月9日土曜日に開催する。
4月23日「担当者のための人生設計セミナー」参加者募集中。詳細はhttp://lifev.comイベントコーナーで。







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