問題提起「この15年でサラリーマンはどう変わったのか」のサマリー。
こちらは本誌8月号で紹介します。
岡村正信(おかむらまさのぶ)
マスコミに働くサラリーマン
コーディネーター 奥井禮喜
有)ライフビジョン代表r
金井弘之(かないひろゆき)
労政畑を耕して40年、メーカー人事担当者
越河六郎(こすごうろくろう)
松蔭大学経営文化学部教授 教育学博士
労働科学研究所主管研究員
「労働と健康の調和」
越河六郎・藤井亀/著
(財)労働科学研究所出版部
交代勤務者の拘束外時間の特性
図は、勤務間隔の長さだけではなく、その「時刻布置」により、睡眠のとり方が大きく異なることを示しています。
三交代勤務制をとっている職場(男性)の、日勤(Shift 1)、夕勤(Shift 2)、深夜勤(Shift 3)、それぞれの勤務間隔とその中で構成された睡眠時間(就床から起床までの時間)の割合をあらわしています。
【各プロットについて】
夕勤(Shift 2)では、夜は遅く帰り、翌日は昼前後まで寝る形の睡眠構成となっている。
深夜勤(Shift 3)では、午前中に帰るが昼近くまで起きており、たいていは昼食を食べて就床する。その日夕方までの睡眠時間は短めになる。
薗田碩哉(そのだせきや)
実践女子短大生活福祉学科教授
日本余暇学会会長
9月8日 日本余暇学会研究大会
詳細は本誌LifeVisionSociety
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サラリーマン・続ルネッサンスの時代
―みんな 電池切れとるンとちゃうか?―
2007年6月9日(土)、国立オリンピック記念青少年総合センターにおいてライフビジョン学会15周年イベント「サラリーマン・続ルネッサンスの時代 ―みんな 電池切れとるンとちゃうか?―」が行われました。
バブル崩壊の入り口1993年9月6日、『ライフビジョン学会』が産声を上げました。設立総会の記念パネルは「サラリーマン・ネオルネッサンス」の時代。その後なんでもありの15年を経ていま、働く人の何がどう変わったのか。サラリーマンの勉強会組織ならではの視点で検証するイベントです。今号と次号に分けて、示唆に富む内容を報告します。
まずライフビジョン学会顧問の奥井禮喜による問題提起「この15年でサラリーマンはどう変わったのか」。こちらは8月号で紹介しますが、左掲のサマリーに基づく講演を受けて、ライフビジョン学会会員論客によるパネルが繰り広げられました。
ライフビジョン学会主催勉強会は毎度、笑い声と会場参加者の忌憚なき発言が盛りだくさんなのですが、この日もまた、参加者の電池は切れていないことが証明される結果となりました。コーディネーターは(有)ライフビジョン代表・奥井禮喜。
***** 商品を介在して社会を作る、の心得 *****
岡村正信(おかむらまさのぶ)
マスコミに働くサラリーマン
二つの論点を言いたい。
まず平均で考える発想はやめよう、ということです。心の時代とは個別の時代のことであり、電池切れとは究極、死ぬということである。平均寿命も一人一人全部違う、老後の必要資金も言われる数字と実際はぜんぜん違うと思います。
たとえばいまは長寿で、最近では新藤兼人がN新聞「私の履歴書」の中で、「また映画を作りたい、だけど最近目が悪くてちょっと元気がなくなった」と、90歳にもなって言っている。そうかと思うと若い人が自殺する。そのように個別で全部違うのだから、いつ死んでもよいという覚悟がいる。
「いい人」というのも早く死ぬ。僕の仕事はセクハラ防止、コンプライアンスなどで、いろいろな揉め事の相談が来る。社内でも人柄の「いい人」となっているので、僕は自分を警戒している。(笑い)Y火災・G社長は戦争に行って修羅をくぐった人で、私の履歴書のなかで、「戦争ではいいやつから先に死ぬ」と言っていた。翻って会社はどうか。仕事ができて人柄のよい人から中心から外れていく。G社長はその中で社長になって行くのだけど。(笑い)
私の先輩でもいいなと思う先輩は早く死んでいる。だから平均の発想はアカンのではないか。
もうひとつの論点は、何で世の中が電池切れになっているか、です。
要因のひとつにCS=消費者満足の行き過ぎがあるのではないでしょうか。現代の消費者はお客様、神様です。マルクスが言うところの「商品を貨幣に転化する」には、命がけのジャンプをする。とにかく売れなければ意味がない、だから売る側から見ると消費者は王様、神様。そこで王様にサービスする労働が増えている、これはまさしく奴隷です。
われわれは消費者であり労働者という二面性を持っています。働くサラリーマンながらお店では威張って買い物する。金を払えばなんでもできるようになっている。それが行き過ぎてとんでもないクレーマーも出ている。それをうまく、恨まれないようにコンプライアンスを、となる。
常に王様でいられる金持ちはいいのだが、われわれが消費者としてサービスを受ける快感、お金の威力を行使する相手は同じ仲間のサラリーマンです。顧客があまりにも強くなってギャップとストレスが大きくなっているのではないでしょうか。
提案したいのは、同じ仲間なのだということ。お金を媒介して自分はサービスを受け、別のところでは奴隷になる。もうすこし相手に対して敬う心、サラリーマン同士が働く場で、仲間で一緒にやっていることを意識する必要がある。消費者は威張りすぎるな。同じサラリーマン同士、敬意を持って、あまり言い過ぎない。それが回りまわって、自分が奴隷から解放されるのではないかと。
50歳過ぎると宗教的な言葉への関心も高くなるのですが、奈良・薬師寺の管長が、感謝の心、思いやりの心、敬う心、許す心と言う。個人的には待つ心、譲る心を追加して実践したい。商品を介在してわれわれの社会を作るとき、そういう心を大事にしたい。金を持っているからと、そんなに威張らなくていいでしょう、と言いたい。
■◆■ コーディネーター 奥井禮喜
有)ライフビジョン代表 たぶんサラリーマンは、平均思考ではないほうがよいとは言っている。個性的に生きたい、群れるのはいやだというのが一般の建前だと聞く。にもかかわらず実際は平均思考になるのはなぜでしょう。
岡村 まずN新聞を読まないことだね。(笑い)
ワーク・ライフで言うと、会社離れは相当進んでいるしライフもかなり個性的になっているから、徐々にはそのようになっているのではないか。
CSでは「演技」しているところもある。心から思っている人もいるが、演技によってストレスがたまる人もいるでしょう。
奥井 コンプライアンスでは、環境関係のリーダーになった人から、「それをガンガンにやると、(自分のポジションが)危ない。しかしその仕事にこだわる限り、会社の活動の足を引っ張ることになるので中途半端な気分でウジウジしている」という声が届いた。問題は消費者ではなく、社長が本気で考えていないのにCSRやコンプライアンスの建前を言うところに原因があるのではないでしょうか。
60年代後半に公害問題が大きくなったとき、総評議長・太田薫がインタビューで、化学工場などで働く人は耳に穴が開くのは当たり前だと思っていた、と答えて顰蹙買ったことがあった。企業人は公害問題で会社側にあって、市民と敵対するのかという論が出る時代だった。渦中にあった僕らはそこで、危険な職場は自分たちも害するのだから、この職場を良くすることが市民の期待に応える環境改善である、という論を立てた。今のCSRは皆のところに浸透しなくて、看板だけの気がしますね。
岡村 それはそうですね。
***** 会社の価値、理念を機軸に *****
金井弘之(かないひろゆき)
労政畑を耕して40年、メーカー人事担当者
日本の人事管理はこの15年、これまで大事にしてきた価値観が消えてしまいました。
人事勤労側面で言えば、会社には雇用の責任があるとずっと思ってきました。雇用責任とは採用し、教育し、配置、処遇し、一人前に仕事ができるようにし、自立するまで見守っていること。万一、何かで辞めるようなことがあれば、会社を去る際の作法もあった。これは明文の規定があるのではなく、会社に培われた価値観によるものであった。
会社とは労働契約を結ぶだけの存在ではなく、それを超えるサムシングがあるのだ、それが価値観であり、我々の時代はその価値観を信じてきた。
だから、社員は何かを成し遂げるために集まった仲間であり、ただの他人ではない。だから仕事を成し遂げていくことを通じて、仲間への信頼感ができてきて、所謂「職場」が作られてきた。
別な言い方をすれば、企業にも企業エートス(ethos)、規範意識があった。こういうものの総体が時代の精神を作っていたと思う。個別企業の中でも、社会でも、せねばならない事と、すべきではないことが明確であったと思う。
それがグローバリズムの時代になり、バブルがはじけ、経済が不調になって、市場主義などが出てきて、市場主義全盛の時代になってしまった。市場主義など…全てを市場に任せろ、そうすれば上手くいくと言うのだから、弱肉強食で…はっきりいえば「帝国主義」でしょう(笑い)。彼らは植民地という言葉を使わないだけだ。日本市場をこじ開けて、営利のチャンスを虎視眈々と狙っている。
グローバリズムの中で日本的経営手法だけでは太刀打ちできないので、アメリカ的経営手法を一斉に取り入れた。その中心が管理会計の手法で、全てを金で換算するやり方だ。確かに儲からなければ会社はつぶれてしまうのでそれも必要だが、それしか考えないことが問題なのです。その結果、現場で何が起こっているかを認識しない管理屋サン全盛の時代になってしまったと言える。その結果、企業のエートス、企業の中での規範意識を壊してしまった。短期的に儲けなければ、事業部と現場は評価されないからだ。
だから、会社が立ち直り、儲かるようになればまだ平穏だが、業績が回復しなければ、社員の規範意識を壊してしまったのだから、表面的にはともかく、内面的には混乱しか残らない。現場には様々な応用問題があり、日々発生している。こういう問題に向き合って、解決していくためには何故、何故と問い詰めていくしかない。どうすべきかと言う最終判断は、会社の価値理念と自分自身との緊張関係と仲間への信頼感によるしかない。
最近ではこういう内面的なことが極めて弱くなり、現場の問題解決力は大幅に落ちている。そればかりか、いろいろな不祥事さえ発生している。それは述べてきたような事情と無関係とは言えないだろう。これが電池切れという現象ではないだろうか。
そんなカオスの中でも、大事なコアを壊していない企業があります。
新日鉄は22年もずっとリストラをし続けている。当時8万人、いま1万人で売上は倍ぐらい出している。人々を外に出すときも「作法」を守っている。成果主義も導入しているが、できなかったら賃金を下げるという使い方ではなく、上司と部下がコミットして一緒にやっていこうという育成の意味で使っている。
トヨタは終身雇用制度維持を理由に企業の格付けを下げられたとき、何が悪いかと居直って元に戻させた。三菱商事は年功序列を公言し、自分たちのよって立つ価値観を変えていない。これらの会社の社員は皆元気だが、会社が元気だから社員が元気なのでなく、もともと社員が元気でその結果、会社が元気になる。それは、会社は常に変化し続けなければならないが、会社の価値理念という軸がぶれないからだと思う。
だから、彼らを見ると、サラリーマンとして武装できている。語学はもとより専門性は高く、グローバルに展開するために勉強している。また、ITでも高度に武装している。
結局、いくら会社で環境を整えても、やるのは個人だから、個人個人の内発性がないと続かない。内発性は会社と仲間への信頼の証だ。
最後に、彼らはハードワーキング・メンだと言うことだ。これらの会社の皆さんは本当に良く働く。
しかし、世の中は紹介したような立派な会社ばかりではない。
企業理念や規範意識のはっきりしない会社などはいくらでもある。だから、すべてを会社のせいにするわけには行かない。
どんなに環境がミゼラブルでも、サラリーマンとして必要なことは、まず生き残ることだ、生き残らなければ何もできない。そのためには決してあきらめないことだ、あきらめないとは、やることがあるからあきらめられないのだ。
個人個人の内面を探せば、あきらめきれないことは誰でもあるでしょう。
それを明確に意識すれば、それがエンジンになり、自働き(トヨタの言葉・人に言われるのでなく自分で問題意識と目的を持って働くこと)になるでしょう。
そうすれば「電池切れ」などにならず、彼らのようにサラリーマンとして、武装ができるのではないでしょうか。だから、まず生き残ることが必要なのです。いまはそれしかできないのではないでしょうか。
■◆■
奥井 私は落ちこぼれですが、今の話はすごく分かります。が、今の話で非リートの人も全部行けとなると、「おまえらがんばれ」「がんばり方が足りない」となる。
「あきらめない」というぐらいにはみんながんばっている、多分、角が立たないようにやっている。僕らの時代は上が「がんばれ」と言ったら「そんなことできない」と逆らったが、いまはハイと言って知らん顔(笑い)、どんどん蛸壺に入っていく。僕らは喧嘩して仲良くなったが、いまはそういうのがない。
どこに行っても「コミュニケーションがうまくいかない」と聞きます。多くの場合、人間関係を円滑にすることがコミュニケーションだと思っているが、間違いだ。コミュニケーションとは摩擦葛藤である。異なるAとBが接したら摩擦と葛藤が起きる。しかし皆は摩擦葛藤を起こしたくない、起こさないことが良いコミュニケーションだと思っているから、「コミュニケーションなどしないほうがコミュニケーションがよい」という処世術になる。
金井さんの人事に関する発言に私はすごく共感するのだが、それを根付かせるために、人事が現場に入らなければならない。それが勝負なのではないでしょうか。
金井 そう、行かないね、みんな現場に。現場とツーカーで話ができなければ人事なんてやっている意味がないのだけどね。
奥井 かつての三菱電機の人事管理は進んでいたから、トヨタの人事管理は遅いねと言っていた。トヨタはしかしブレない。いま、戦後人事管理の王道を歩いているのはトヨタだ。たとえば人減らしするとき、トヨタは優秀な人を職場から外す。優秀な1−2位を外すことによって権限委譲を起こさせるから、3位以降の人が伸びる。普通の会社は仕事の量が減らない中で「役立たず」から取り除くから、仕事の質の平均は下がる。
金井 それは伝統的考えなのだが、皆それを知らないんですね。
奥井 先端技術職場では常に発明発見を続けている。それができるのは1−2位の人が常に新しいことに挑戦しているからだ。つまり1−2位が抜けて3−4位に出番が回る。経済が停滞しているときは金を使わずじっとしているだけだから、生き残るために下を叩くだけ。これがバブル崩壊以降の日本の組織事情だったのではないか。社会的に評価されつつ価値ある仕事に挑戦する経営者はしんどいが、上の人から挑戦してもらいたい。金が儲かればよいというところだけに限定して経営を考えていただきたくない。
昔炭鉱に入る人はカナリヤを連れて入った、ガスなどの危険をカナリヤで察知した。いま心の病気の人は組織のカナリヤだ。人事部はそれを考えないですぐカウンセラー、専門医だと言うが、組織的な問題はないかと考えるべきではないでしょうかね。
***** 勤務間隔時間を大事にしましょう *****
越河六郎(こすごうろくろう)
松蔭大学経営文化学部教授 教育学博士
労働科学研究所主管研究員
わたしどもは、歴史的に「働いて生きる」という社会的システムをつくって生活してきました。労働衛生研究の立場からすると、いきおい、「働くこと」を中心に「生活」を考えるということになります。
もちろん、働くだけが生活ではありません。労働は生活の一部分です。時間的にみると、労働以外の時間、たとえば、休息・睡眠の時間、趣味・娯楽の時間など、また、家族の世話といった時間も大事です。つまり、1日24時間の過ごし方全体がどんな構成になっているか、「調和」が保たれているかが問題なのです。
今日は、労働時間に関連する話題を取り上げてみたいと思います。
少し話がとびますが、このところ、日本の1年間の自殺者は3万名を超えているという報告を聞いております。そのうち、現に働いている人たちの自殺は8千名以上とか。これは交通事故死に匹敵する数です。交通事故については、関係の学会等で、大きく取り上げますが、「自殺」となると、案外、静かに扱われている。なんとも不思議な気がしますが、大方、鬱症状があった、といった「病気」のせいにされているからかもしれません。
労災認定されたケース(自殺)の「理由」を新聞等の記事で読むと、“休みも取らず、長時間勤務が続いていた。過労から鬱症状をきたし、自殺に至った”、が大体の決まり文句のようです。本当の理由など分からないというほかありません。
自殺者の数にしても、知り合いのドクターに、もっと多いのではないですかと質問したら、否定せず頷くだけです。思慮のかけらもないアンケートなどで、鬱症状があるとかないとか、「異常者」を発見したとかしないとか、と、皆でやいやいやっている。自分もその一人かもしれませんが、予防の視点をとる私は(専門の医師でもないので)少なくとも、「うつ症状の95%は治せます」といった「暴言」は吐きません。
暴言というとそれ自体ボーゲンになりますが、これは、ある学会の研究集会で聞いた、わが国有数の研究者の発言なのであります。ちょっと昔まで使われていた「神経症」なども含めての「話」なんでしょうが、しかし、同じ話題提供者は「再発」という言葉も使っておられました。私ども、毎年のように風邪をひきますが、去年の風邪が今年も「再発した」とは言いませんね(?)。
私は、「予防の視点をとる」などとイキがっていますが、その予防もまた並大抵の事柄ではないことも知っています。“原因のわからない精神的疾病をどうして予防するのかね”と、精神科医に諭された話など、細かい「予防論」に関しては別の機会にゆずります。
労働時間の話にもどりましょう。
「労度時間は1日8時間」と法律で規定されていることは周知のことですが、このほかに「時間外勤務」とか「サービス残業」とかがあって、どうもあいまいです。
しばらく前のことですが、労組では「時短」運動が盛んでした。その実態調査を依頼され、結果をまとめたところ、確かに残業時間が多すぎる。それで、健康の面からある限度を提案したら、「手当て」が少なくなるから困るといった声があり、閉口したことがあります。「賃金」が絡むので難しい問題と感じました。組合員の意識がどうのこうのだけではすまされない、ということを。
最近は、手当てもつかない「サービス残業」があたりまえのようです。時間管理の難しさが増幅しております。私は、「サービス残業時間」をすべて否定するつもりはありません。職務の性格が、時代とともに変化して、「勤務時間」内だけで仕事が片付くものではなくなっているからです。
たとえば、システム設計などの仕事では、通勤途中でも、家でくつろいでいる時でも、アイデアが生まれることがあるそうですが、こういったことは他にもよくあることでしょう。違いは何か。勤務時間外でも「仕事」が続いているわけですが、「拘束時間」ではなく、自分の都合で、時間を使うことができるという点です。
ただし、ノルマが課されて納期がある場合は、仕事の時間を自由に設定できる、出勤しなくてもよいといった勤務設定でも、「成果」がはっきりするまで、すべての時間が「拘束」されることを無視できないと思います。それなら、自営業の場合はどうか、など、とめどなくなりますが、ここでは、勤務者で、時間管理を受ける立場の人たちの労働時間(サービス残業など)を考えようとしておりますので、そこに絞って問題点をはっきりさせてみたいと思います。
時間外勤務が、サービス残業が無制限になされているとしたとき、時間的に、その人の生活全般での調和が保たれているか、健康を損ねる状態になっていないかあたりが「良し悪し」を判断するインデックスになろうかと思います。この指標作りが「研究者」の役目と心得ておりますけれども、もっと大事なことは、「われわれは、働いて生活しているんだ」という原点にたって、ものを考えることだということです。
私は、そこで、発想を転換しました。
すなわち、労働時間の問題を、「勤務外の生活時間設定」からとらえようとしました。それが、つまるところ「勤務間隔時間」の問題だというわけであります。
勤務を終えて帰宅し、次の勤務までの「時間間隔」のことです。外国では、この勤務間隔時間は法的に規定されているところもあります。日本では、企業によっては一定の職種で勤務間隔を規定していますが、はっきりした法的概念までは至っていないようです(母性保護や年少労働者保護の観点での深夜勤禁止があったときは、その範囲でのインターバル規制となっていたようですが)。とにかく、「勤務間隔時間」が確立していれば、時間外勤務の問題はずいぶんと改善されるのではないでしょうか。
図を示しました。これは、勤務間隔の長さだけではなく、その「時刻布置」により、睡眠のとり方など、大きく異なることを見てもらいたかったためです。三交代勤務制をとっている職場(男性)の、日勤(Shift 1)、夕勤(Shift 2)、深夜勤(Shift 3)、それぞれの勤務間隔とその中で構成された睡眠時間(就床から起床までの時間)をあらわしております。
労働時間と勤務外時間(くつろぎや自分で自由に使える時間)との調和がうまく取れているかどうか。労働時間管理の基本ではないか。さきほどの「予防」論も、まさに、ここに存すると信じます。
データは「労働と健康の調和」越河六郎・藤井亀/著(財)労働科学研究所出版部より
******** ワーク・レジャーバランスも考えて ********
薗田碩哉(そのだせきや)
実践女子短大生活福祉学科教授、日本余暇学会会長
自由な時間の話をしたい。電池は同じカセットに入れっぱなしでは切れる。時々外さなければ腐ってしまう。腐った電池は捨てるしかない。(笑い)切れ掛かった電池は暖めると持ちがよい。日本の勤労者から見るともう少し、余暇を生活の大きな課題と考えてほしい。
大学で余暇を張っている私みたいな研究者は、日本で3人しかいない。欧米ではレジャーカウンセリングがあるし、レクは尊敬されていて学会がある。日本では余暇は何ソレ?と、どうでもよい感じだ。
夏には一ヶ月のバカンス、電池を一生持たせるために誰でも保養する。電池は充電できない、切れると腐る、ごみにもできない。電池をいたわることをもう少し考えよう。
サラリーマンの有給休暇は、日本は半分ぐらいしか取られていない。付与日数が少ないのにその半分しか取られていない。外国では100%に決まっているから、取得率などのデータもない。フランスでは有給休暇を放棄すると健康保険の給付が受けられない。有給休暇=バカンスは健全な家庭生活のために必要なものだ。それを勝手に放棄する人が病気になっても面倒を見ない。
日本は明治以来の近代化、軍部、人間は精神力ダという時代を経て戦後になった。高度成長以来働いてきたが、働く以外のもうひとつの世界を見るべきだ。
生産性向上の配分を欧州は労働時間に回したが、日本はその配分をひたすら金を稼ぐことに注いだ。そろそろ、バブル以降大不況時代に話題になったオランダのワークシェアではないが、仕事を分け合うと同時に余暇の確立をしたい。日本では仕事の方から考えるのだが、余暇の方からも考えて、余暇の請求権をはっきり打ち出してほしい。
余暇は人間の権利、自由の時間を持つからこそ人間なのである。そうでなければ奴隷、動物である。われわれは自由時間の輝きをどこかでしっかり体験したい。
自由時間の輝きは、幼児期には体験している。私は幼稚園を経営しているが、子供たちは自分の時間に困るようなことはない。一人一人違った遊びをして、平均的な行動はしない。一人一人の遊びはみな違っているところをみると、自分の自由時間を自分でアレンジする術は神様から埋め込まれている。
残念ながらそれが伸ばされないで、大人になって大したレジャーをしていない。レジャー費80兆円のうち30兆円をパチンコに使っている。(笑い)過日学生と、余暇実習でパチンコ屋に行った。教材費千円で5分しか持たない。
その点競輪は一所懸命考えている。普段は何も考えていないようなのに、人はあんなに考えるものなのだ。(笑い)考えるということは決断することであり、決断は生きがい、喜びである。介護予防に良いかもしれない。(笑い)
しかしパチンコ競輪しかレジャーがないのはさびしい。レイバー・ユニオンがあるのだからレジャー・ユニオンがあっても良い。面白いレジャーは創り出せる。ワーク・レジャーバランスも考えてもらいたいというのが、マイナーな余暇研究者の主張である。
日本の教育は充電の仕組みを教えていない。うちの幼稚園ではみな元気なのに、私の短大に来る年頃にはほとんど電池切れ(笑い)放電している。授業など何も考えていない。あんたナニがしたいの?と言っても問題意識がない。それでいて25歳で結婚願望とか書く。(笑い)
なぜあんなに問題意識がないのか。問題意識を注入するのが教育であり、それが充電だ。地域社会の中で学びを考えたり、学校はよほど教育を考えないと、電池はアウトになってしまう。
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