2007/10
働き方を考えるV 労働の人間化ライフビジョン学会



 






 Quality of Life(生活の質)、Quality of Working Life(労働の人間化)は1980年代に大きな話題となった。ILOは長期活動計画にQWLを取り上げ、生活の質を改善し、労働を苦役ではなく、働く方々の主体的活動の場となる条件を創造しようと、さまざまな論議が展開された。
 ユニオンアカデミーが連続集会で取り組んできた課題「働き方」は、まさにQOL・QWLと基盤を一つにしたものである。
 2007年09月18日(火)に行われた働き方の研究集会第三弾では、奥井禮喜が問題提起を行った。




講演を受けたグループミーティングでは、職場の現状を元に活発な意見交換が行われた。




働き方の研究集会 第三弾
生活の質・労働の人間化から考える




 資本と労働の生成と対立


 人間が働く意味はなにか。最初は食うためであろう。動物は明日に残すための行動をしない。人間もそうして始まったが、農耕が始まり食料を自分で作るようになると、備蓄するようになる。やがて腕力の優れた者が力を蓄え権力を握る、階層ができてくる。
 キリスト教が発生すると、「人はパンのために働くにあらず、パンのために生きるにあらず」と説いた。宗教的精神には現世的価値観(=金や権力)への対抗力、アンチ・テーゼが必要であるから、カトリックでは、金が汚いものだと言い続けた。
 中世(13世紀�
世紀)になり教会が大きくなると、教会の費用が嵩み、教会自身が食うためのビジネスを始めるようになった。例えばベルギービールやドイツビールは修道僧が作って、教会に泊まる旅人に売ったことに始まる。
 教会は、働くことは神の意に適うことである、仕事は天職Belfだから、天職を全うして教会に金を納めよ、それこそが神意に適うと方向転換した。ここに世俗と宗教が並存する状態ができ上がった。
 法皇ジュリアスU世は、教会費用を稼ぎ出すために免罪符を発行した。これで罪が許されるとしたが、免罪符を作ったのは人間で、罪を許せるのは神だけである。1517年、マルチン・ルターは「人間は神の代理人に過ぎない」と、教会の免罪符にNOを突き付けて、「宗教改革」が始まる。
 宗教改革の見方の一つは、中世が精神的に行き詰まって、ルネッサンスの精神復興を引き出し、やがて産業革命の引き金を引いた、と読むもの。もう一つは、キリスト教がかつての原始的で素直な宗教から変質して起きた。とするものである。
 こうして、アダムとイブが神にそむいてエデンの園を追われその贖罪のために人間は働く、としていたものが、働くことは神意にかなうことだ、と変わる。
 ルターの新教派=プロテスタントはここから起こる。彼らはカトリックより一層、神意に適うように労働するのだとの思いが強い。アメリカに渡って建国したプロテスタントたちは、まさしくマックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に著されたように、俗世の金儲けと信仰を結託させたのである。
 産業革命でそれまでの手工業が大規模労働へと、労働の組織化が進んだ。例えばイギリスの織物業が最新鋭の機械を導入すると、手工業者が立ち行かなくなる。手工業で働く人たちは機械のおかげで食えなくなったと、19世紀「機械打ちこわし運動」を起こす。当時のイギリス労働者の生活状況はエンゲルスの「イギリスにおける労働者階級」に詳しい。これは細井和喜蔵「女工哀史」の英国版だが、より歴史が良くわかる面白い本である。
 産業革命を経て資本主義が生成され、ここに初めて「資本と労働の対立」が発生する。
 賃労働における資本と労働の対立は、例えば100円の商品の中の40円が労賃、40円が原材料費、10円が減価償却費、10円が利益とする。この構造の中で利益を上げようとすればコスト(労賃と材料費)を下げるしかない。これは資本主義制度がある限り、いくら経営側の物分りが良くても消えない構造になっている。
 さらなる特徴は、大規模工場になって技術が発展するに従い、労働が細分化・専門化されたことである。昔の職場では一人の人が多様な仕事ができたが、今は仕事の範囲が狭くなった。専門化については古い話で言えば2000年前の中国には、美食家貴族に雇われている、餃子の皮専門のコックがいた。これでは仕事の面白さは削がれる。百貨店のエレベータガール、工場のコンベア作業に典型的なように、仕事の専門化、細分化は現代的な問題である。
 労働はこうした変化を経て今日に至る。


 働くことは他者の有益


 「働く」とは、他人に有益な行動をするのである。
 人間の行動はエネルギーを消耗する。エントロピーの第二法則では、あらゆる活動はエネルギーを使い廃棄物を増やす、しかもそれは不可逆性をもつ。(エントロピーの第一法則ではエネルギーはどこまで行っても不変であるが現実は第二法則が支配している)かくして経済活動が活発になればなるほどゴミがたまる。
 人間の行動は自分自身のエネルギーの消耗であるから、人間はエネルギーの消耗を減らそうとして科学技術を発達させた。たとえば乗り物を発明し、自分のエネルギー消耗を少なくして快適さを増大させてきた。人間は無駄なエネルギーを使わないように行動する。
 これを煎じ詰めると、労働時間は短いほうが良いことになる。労働時間短縮とはエネルギーの消耗を少なくするの謂である。
 一方、わざわざエネルギーの消耗を好む面もある。釣れもしないのに釣りに行く。エネルギーの無駄なのに本人はうれしくて仕方ない。これは何か。
 仕事ではできるだけエネルギーの無駄を無くそうとするのだが、こちらは人間が愉快になるためにエネルギーを投入する。釣りは自分の人生充実のためにエネルギーを消耗させる。ゴルフのプロも、最初はゴルフが好きで始めたのだろうが、プロになると金がもらえるからゴルフをするのか、本人の快適・愉快の追求なのか。ここでは余暇と仕事がゴチャゴチャになる。(ついでながら野球で松井が凄い、イチローが凄いというが、野球というゲームが認知されていなければ、あの能力は何の価値も持たない。)
 エネルギーの消耗は少ないほうが良い、一方では楽しむためにエネルギーを消耗する、しかし好きなことだけでは早晩食えなくなる。逆に働くことだけを追求したら、疲労で死んでしまう。そこでmaximum=最大を追いかけるのでなく、optimum=適正を探らねばならない。
 それを理論化したのがQOL(Quality of Life)と、QWL(Quality of Working Life)の考え方である。1980年代にずいぶんはやった言葉である。


 QOLとQWL


 QOLは生活の質を改善向上させ、人生の充実を大事にしようとする。最近のワークライフバランスの考え方はここに根ざしている。仕事が専門化細分化される中で長時間労働を余儀なくされ、家族との時間も十分に取れないから、日々の暮らし方、生活の仕方などにおいて人間性を回復する、というキーワードが必要になってくる。人間性回復論とQOLは同じ意味を持つ。
 一方、QWLは労働の人間化=Humanization of workを進める。
 昔の生産技術の発想は仕事に人間を合わせるものであった。今は人間中心に仕事を考える、人間に合わせて仕事を変えていく。有名なところではボルボがコンベア作業の退屈さを止めるために、プラモデルを組み立てるように一人にいろいろな作業をさせた例がある。QWLは今でもILOの長期行動計画の柱になっている。しかし日本の労組ではたなざらしになっている。
 QWLの内容は、仕事自体を働く人にふさわしく改善していく。これは働くことを単に銭儲けだけでなく、働くことの意味を再構築せよと言っているのである。
 QWLを満たすべき条件には、以下のものがある。
  @ 物理的作業環境の整備
  A 公平な報酬
  B 疾病失業からの保護
  C 個別労使関係における労使対等
  D 社会生活上労働者の人権保護
 この中で特に強調したいのは、「個別的労使関係」である。
 組合と会社の関係は「団体的労使関係」である。一人の労働者と一人の上司は「個別的労使関係」で、日常的な苦情は当事者同士で解決するべきである。個別でできないことを労使で解決するのが「団体的労使関係」なのである。
 団体的労使関係が目指すところは、個別的労使関係を対等にすることにある。例えば労組役員が職場に経営に対する意見を聞きに行くと、組合員は自分が言ったことがバレるのではないかと意見を言い渋る。しかしもし個別的労使関係が対等ならば、執行部が職場に問題はないかと聞きに行かなくても、彼は直接上司との間で、職場の問題を日常的に解決できる。そこでも解決できない問題を組合が取り上げて、労使で協議する。
 残念ながら、個別関係における労使対等にはまだ距離がある。個別的労使関係は今後の組合活動における大事なカテゴリーである。これらQWLの条件が満たされたとき、「労働の満足」となる。
 もう一つ、個人の側の「労働の満足」とは以下のものがあげられる。
  @ 能力開発・挑戦できる
  A 継続的学習
  B 知識判断力発揮
  C 相互支援と社会的承認
  D 製品の社会的意義
  E careerへの道 
 日本の場合、これらは経営の中で取り上げられていることだが、まだまだ本気で推進されているとはいい難い。


 geniusジーニアスの追求


 労働の人間化を一人ひとりの段階に落とすと、人生の充実を考えなければならない。
 戦後の組合運動は飢餓賃金、貧乏モデルでやってきた。今は賃上げでは組合員は燃えないので、次は何を持ってくるか。それを仮に、「愉快モデル」とする。
       昔は            これからは
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     貧乏モデル     →→→   愉快モデル
  豊かさとはモノ・金である →→→  時間こそ豊かさ
    勤労第一主義     →→→  人生第一主義
 ―――――――――――――――――――――――――――r
 愉快モデルの時間・人生第一の考えは、組織でなく個人が考えることである。それには、「人間を駆り立てるものは何か」を考える必要がある。例えばパチンコでもカラオケでも、「好きだ」というエキスに当たったら、それが人間を駆り立てるエキスである。それを組合が提起すれば、みなの愉快度が高まる、元気が出る。
 不満が解消しても満足は持続しない。かつて追いかけてきたお金や家や車などの不満を解決しても、それは満足とは違い、不満の解消でしかない。人生を駆り立てるものは何かを考えなければならない。
 満足している状態とは、その人の元気な状態だ。元気とは「衒気」=見栄、相対元気ではなくgeniusジーニアス(天才、才能、特質)である。
 それは百人百様、それぞれが才能であり、それぞれが個性である。自分が自分のジーニアスを発揮しているときに元気が出ている。普通に会社に往復するだけの、日々同じことの繰り返しでは元気は出ない。やはりsomething=いかに生きるべきか、に行き着く。
 75−76年、「モノから心へ」という言葉が出てきた。80年代、「豊かさゆとりが感じられない」と皆が言うようになり、清貧の思想、心の豊かさなどと言い出した。次にバブルに入り、はじけ、会社だけが昔の「貧乏モデル」に戻った。
 ワークライフバランスは、イギリス首相のブレアが育児休職を取って有名になった。1970年代まで労働組合の勉強会では、「人生とは何か」「いかに生きるか」というような課題を労働学校と称して皆で勉強していた。しかし当時の労働四団体のリーダーたちからは、そのような高邁、切実な労働者の生き方論に基づく運動が提起されなかった。いわゆる「賃上げ・物取り主義」が主流であった。その運動の未熟さが悔やまれる。プラグマチズムな運動はいまもまだ続いている。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 
経営労働評論家、日本労働ペンクラブ会員
OnLineJournalライフビジョン発行人




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