2008/06
だから人生設計が必要だ奥井禮喜









「日常生活の批判」解題
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選択・決断・行動
 「いかに生きるべきか」を考えない人がいるだろうか。反論があるかもしれない。「忙しい、面倒くさい、いつまでもそんな書生論をやってられるか、事実日々生きているではないか」。然り、われわれは生きている。そして「いかに生きるべきか」を問いかけずとも、何かに迷い、選択し、決断し、行動しているに違いない。昼食を、蕎麦にするか、牛丼にするかで迷うほどだ。しかし侮ってはいけない。最後の昼食!になる可能性もある。

時代的騒音
 また別の人は「糞面白くも無い時代だ」と吐き捨てる。なるほど、日々耳にする情報はろくでもないものばかりである。よほど意識的に排除しない限り、情報社会からは逃れられない。それにしても直接関係がある情報が、いったいどの程度あるだろうか。自分と無関係の人が首相になって、無関係なことを得々喋りまくり、忽然と首相の座を放り出し、また無関係な他の人が首相になり、またまた無関係なお喋りが果てしなく続く。雑音・騒音・轟音がなければどんなに穏やかに暮らせるだろうか。

Passenger
 たしかに、どこかにもっといい時代が存在するのかもしれない。そこで、人々はたまたまの旅行に出かける。とはいえ、旅先にも浄土やParaiso(天国)はない。なぜ旅行であるか。物理的に存在するもの以外に、状況と関わらなくてもいいからだろう。大概は物見遊山である。旅人とは本来落ち着かない、居心地の悪いものだが、奇妙にもPassenger(通過者)たるから心安らぐ。これはまさしくParadox(逆説)だ。かくして気晴らし・手慰みの最高の遊びが旅である。ただし状況と関係を持たぬPassengerとは透明人間に他ならない。
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 結論を言おう。「これは私の人生なのだ」、そして「私の時代なのだ」と考えられること。それなくして、「いかに生きるべきか」という自問自答は発生しない。つまり、現状、人々の生活と意識においては、「個・状況→行動」の連環が何らかの事情で断絶しているのではあるまいか。かくして、あえて「日常生活の批判」を試みようという次第である。


言葉の価値が低下している
現代社会は巨大システム
 現代社会は複雑かつ巨大なシステムを形成している。その恩恵なしに現代人は生きられない。同時に、それが決定的に脆いものだということを忘れてはならない。いわば20万点にも及ぶ部品から構成される人工衛星が、たった1つのピンに不具合があるだけで失敗作になるのと等しい。人々はスーパーで安心して食品を購入するが、その安心が何らかの事情で揺らぐ状態を想像してみればよい。(たとえば、食品に毒物を入れたというようなrumorが飛ぶとすれば。)

自立自助がありうるか
 「自立自助」という言葉が多発される。このくらい言語明快にして意味不明の言葉もまた珍しい。そもそも他者の手助け・関与抜きに生活できる人が、今の世の中に何人おられるであろうか。勤め人社会において、大企業社長は位階冠を究めているのであるが、その仕事たるやほとんど自分1人では何もできない。他者の手助けを必要とする意味においては、社内でもっとも手が掛る人である。

共同思想はどこへ行ったか
 自給自足のできる人は極めて少ない。他人様に迷惑かけぬと言う人は多いが、日々の食事ひとつ考えてみても、他者の手の掛らぬものはほとんどない。人間が社会を形成するようになって以来、人間の歴史は「相互扶助」抜きには考えられない。にもかかわらず「1人は万人のために、万人は1人のために」という共同思想が現在はほとんど忘れられている。まことに罰当たりな思想状態にあると言わざるをえない。

値切りコミュニケーション
 古書店にて文庫本を求める。なんと定価の2倍以上1,000円も高い。絶版中なので店主は強気だ。関西風「高いですねえ」と嘆いてみせるが、知らん振り。「負かりませんか?」と遠慮がちに水を向けるが返事も無い。取り付く島がない。関西であれば、義理でもやりとりが展開されるが、神田では歯牙にもかけぬ。古書は自由価格である。値切り交渉ができない古書店は人間関係無視の非知的商店である。よって出入りを差し止める。

人とモノの関係のみ
 大規模店やコンビニなどがどんどん進出して、街の商店が加速度的に消えている。県庁所在地ですらJR駅前商店街が「駅前シャッター街」と言われる。大規模店の資本力・商品調達力と比較すれば、街の商店の脆弱さは当然だが、果たしてそれだけが原因であろうか。スーパー、コンビニなどは商品豊富で安いが、消費者との関係は商品のみである。昔の商店は陳列に頼らず、客と対話しつつ商品を1つひとつ説明して販売した。訪問販売も多かった。今や人と人の関係がモノと人との関係だけになっているのではあるまいか。

官僚批判と言葉の軽さ
 政治家が「官僚に勝手なことをさせない」「公務員改革だ」と吼えれば、大向こうは拍手する。単純である。明治時代に政友会と民政党という二大政党が作られた。前者は伊藤博文、後者は桂太郎といういずれも維新の絶対者が作った。政党はいわば彼らの私兵、政党自体が官僚的役割を持っていた。当時、圧倒的多数の庶民は主体的・客観的に無関係であった。維新後から昭和の敗戦まで、政党は政府権力とつながっているものしか活動ができなかった。

お上意識のDNA
 戦後民主主義は棚から牡丹餅的である。ために封建社会的「お上」意識なるものが、営々と命脈を維持しているのではあるまいか。戦後吉田内閣時代から官僚の政界進出が増えた。戦前戦後を貫いて、官僚が政府与党と密接につながって政治を展開したのは自明の理である。いったい政治家(とくに政府与党において)に官僚を叩きまくる力があるかどうか。実に疑わしい。いわばお神輿が、担いでいる人を叩くに等しいではないか。与党の公約は怪しい。このような公約濫発は言葉の価値の軽さを如実に示している。

映画のCut
 黒澤明監督作品「生きる」は日本映画史上に残る名作の1つである。映画は「Cut」の積み重ねである。「Cut」は1つの連続した場面であって、長いのもあるがだいたいは短い。観衆は連続して見るからほとんど「Cut」として意識しないが、映画とは場面の断続、細切れの総合体である。「生きる」の場合、志村喬演ずる役所の課長は決定的に精神的怠惰状態にあって、「ミイラ」と渾名されている。癌の宣告をうけ驚き「生きる」意味を問うて悩む。そして忽然、下町の小公園作りに突進開始する。お役所の縄張りをこじ開け、摩擦を起こしつつ、周囲がただ驚き呆然とするほどの変身を遂げる。

断絶の意義
 その忽然の、「Cut」と「Cut」の配置こそがこの映画の含蓄であって、かつ勝負である。観衆は画面の課長の周囲の連中とは異なって、まったく違和感がない。そうだそうだと共感しつつ見るのである。極論すれば、「Cut」と「Cut」の間、つまり描かれていない部分、「断絶」にこそ物語の山が隠れているのである。かつ、「描かれてないから、観衆は自分の意見だ」と強く思う。優れた映画の技術とはこれである。

テレビが駄目な理由
 一方、電気紙芝居Dramaは概して、筋書きの奇を衒うものが多く、観衆また筋書きのみを追って時間を過ごす。有名俳優、人気者を出してさえおけば何とか視聴率が取れるという電気紙芝居屋の怠惰的仕事感覚も無視できない。なおかつChannelが増え、放映時間が増える一方である。創作はますます中身空疎になる。どう見ても製作者たちの知性は停滞中だ。

現代人の精神的状況
 黒澤監督「生きる」は過日、テレビによって当世人気俳優を配置し同じ筋書きでRemakeされた。正真正銘の駄作であった。Contents(内容)を批判すれば、主人公が置かれている状況と主人公の精神的状況に関してほとんど見るべきものがなかった。社会的Dramaとは、「個(Person)」と「状況(Situation)」の絡み合いにこそ狙いがなければならぬ。現代人の人間疎外状況は50年前より遥かに進んでいる。製作者において、それが分かっていない。日常的駄作は視聴者の脳みそを日常的に頽廃化させる。


人間疎外について
 ヘーゲル(独 1770〜1831)によれば、人間疎外とは、「自己(らしくあること)を否定して自己にとってよそよそしい他者になることである」。

漱石の個人主義論
 かつて夏目漱石(1867〜1916)は「私の個人主義」(1914 学習院における講演)で、個人主義とは自分らしく生きることである。他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するべし。個人から国家へ、国家から世界へと開眼し、有益な人間たるべく努力しようと述べた。学習院での講演であるから、聴講生は当時も将来もEliteだと自他共に認めている人々である。

打算・功利主義
 当時、ようやく封建制度の桎梏が外れたばかりであって、まともに勉強しているのは人口の5%いるかいないか。長く「お上」を畏怖し抑圧されてきた民衆が一挙に開明的になる訳がない。英国留学で彼我の懸隔を嫌というほど認識した漱石は、まず個人主義(自我)の確立こそ大切だ、と説いたのである。しかし当時の日本はまさしく打算・功利主義が蔓延する社会的風潮であった。「個人主義」とは、それを助長するのではない。

則天去私
 すでに日清戦争(1894〜1895)・日露戦争(1904〜1905)に勝利して日本人の鼻息は荒い。浮ついている。個人が尊重されず国家主義に走るのは剣呑である。だから個と社会の連帯を説いたのである。晩年、漱石は「則天去私」を座右の銘とするに到る。小さな私を去って自然に生きる謂である。まさしく達観の域にある言葉である。

個と集団における人間疎外
 「則天去私」のような境地にはなかなか到達できない。しかも人間は孤立しては生きられない。必ず集団・社会の中で生きている。そこで、Personality=個は2つに分化せざるをえない。それは次の通りである。
 CP … Cultural Personality(集団文化)
 IP … Individual Personality(個性=Identity)

 凡人は日頃CPとIPの内なる統御に腐心せざるをえないのである。職場でBossと部下の関係において、BossはCPを代表する存在となる。もしBossが非合理的な意思表示をした場合、部下がすんなり意思表明できるのであれば問題はないが、概して沈黙を守るほうが多い。これがCPとIPにおける人間疎外である。ある人間の意思決定においては、CPとIPが日常不断に緊張関係を維持しているのである。これは避けられないし、避けてはならない。

労働における人間疎外
 仕事は「生活の糧」であるという。だから給料はがまん代だと割り切る方法もあるが、なにしろ40年、人生の1/2を働かなければならない人間であるから、すでに体験的に感得しているように、「生活の糧」論だけでは到底元気が持たない。仕事に価値を見出せず、職場の人間関係が打算・功利主義になってしまったら、職場と仕事はまさしく砂を噛むようなものであろう。

仕事は経済・個性・連帯が不可欠
 仕事は価値を創造する。今日のように厳しい職場状況において、仕事の負担感はますます増大している。がまん代論の弱いところは、たとえば、仕事を通して「個性発揮」している(と思える)とか、「社会的有益な役目」を果たしている(と思える)のでなければ、仕事が極めて非人間的な存在として人生の妨害物になるかもしれないことである。

労働における人間疎外
 仕事は人生において大きな課題である。実際日常生活においては、仕事が最大課題であり、「生活の糧」を獲得するのが安直ではないからだ。さらに仕事は「生活の糧」獲得が目的なのだから、糧獲得の暁にはそれを活用して愉快になるに足る生活(=人生)感覚を確立していなければならない。ところが、巷間指摘されるようにWork Life Balanceがぐにゃぐにゃである。その結果「生活の糧」獲得が人生目的になっている。労働が生存のためだけの手段に過ぎず、人間がIndividual Personalityを確立できないのであれば、人間自身が手段になってしまう。これが労働における人間疎外である。

Communicationがよろしくない
 最近Communicationがよろしいという話はほとんど聞かない。人間の学名の1つはHomo loquens(話す人)である。今日に到る文化文明の基礎は、人間の会話能力にありといっても過言ではないのだから、Communicationがよろしくないというのは深刻な問題状況である。

Communicationの誤解
 ただし「Communicationがよい=人間関係がよい」と短絡してはいけない。なぜなら人間関係がよい状態は概して人同士の付き合いが円滑に運んでいると思われやすいからである。本質はこうである。同じ人間はいないから、人間同士が接触する、つまりCommunicationとは初歩的には摩擦・葛藤を招きやすいのである。皮肉な表現だが、人間関係をよくするのが目的であれば、できるだけ人間同士が付き合わないほうがよろしい。摩擦・葛藤が発生しないからである。職場のBossと部下の関係において、表面的にはまったく波風が立っていないからとて、両者間にCommunicationが成立しているとは限らない。断絶状態はTroubleの起こる気遣いがないに過ぎないのである。

Communicationがない=人間疎外
 Communicationがよろしくないというが、正しくはCommunicationがないのである。元々日本人は自分を表現するのが不得手である。また概して協調性が尊重される。Cultural Personalityにおいて、控え目な行動が評価されやすいのである。Homo loquensたる人間が積極的なCommunicationを取れないのであれば、ことは相当深刻な人間疎外状態にあると見なければならない。

Mental healthの時代
 元首相の精神状態が取り沙汰された時期があった。職場においても日頃、Mental healthが話題になる。対策として直ちに外部専門家たるCounselorに委託する。これはいささか単純である。もちろん、それが無用だと言うのではないが、問題解決にはなるとは限らない。むしろ、場合によっては、ますます「Mentalになりそうな人」を増やすかもしれない。くれぐれも要注意である。

幸福・正常
 そもそもCounselingとは、「同情を持つListenerの前で、Clientがお喋りして解凍(緊張解消)する」ことが目的である。Counselorは聞き上手ではあっても、臨床精神科医師ではない。Clientを(状況に)適応させ、幸福!にさせ、正常!にさせるのである。では、幸福、正常とは何か。それはClientの課題である。

組織事情にこそ注目せよ
 大部分のClientにおける異状!とは、状況不適応状態である。彼が思い違いなどしており、お喋りによってkatharsis(ギリシャ語 浄化)させてすむ程度であれば話は簡単である。しかし、状況(組織的)に真因があるならば、実はClientは正常であり、幸福を追求しようとしているのに、歪んだ状況に彼の精神を合致させるという「けったいな治療」をする次第になる。そればかりか、「角を矯めて牛を殺す」という言葉があるが、組織の異常がそのまま拡大していくのでは大問題である。

我疑う
 Counseling本来の目的は、「汝自身を知れ」というDelphiの神託に由来するのである。「テロをやっつける」という名目で、平然と無辜の民に向けてMissileをぶち込むような大統領がいる世界に生きている心優しい人が、それを肯定し、かつ共感して生きるのは難しい。デカルト(仏 1596〜1650)が言ったように、「我疑う、故に我思う。我思う、故に我在り」である。心を病む人が増えたという常識が事実であれば、事はCounselorごときに依頼してすむような問題ではないのである。

生きる
 現代社会で心に波風立てず「生きる」ことは容易ではない。われわれの前には2つの選択肢が存在している。1つは、Petのタマ・ポチのように、人間疎外的状況など無視して暮らす。もう1つは、現実社会におけるPet化を否定して生きるために善戦敢闘することである。人々が前者のようであるのならば、その虚無的・頽廃的状態に終止符を打つことを考えなければならない。

不安の作為
 厚生労働省が健康不安を煽りまくる。健康という個人生活に政治が介入するのは僭越である。異常である。そもそもMetabolic syndromeの大部分はAgeing(加齢)によるものである。なるほどAgeingによる人体の経年変化に着目したのは慧眼である。高齢社会であるから誰しも加齢する。かつ高齢者が増える。高齢期の不安は少なくない。脅かすには最大のお膳立てである。しかし、政府が不安を煽り、人心を統御するのは傲岸不遜である。

人生はおまけではない
 人々にとって健康と病気の概念くらいいい加減なものはない。人は概して健康だから健康を意識せず、多少の無茶もやる。病気になれば一念発起、心を入れ替えて健康的努力をする。日頃から健康的努力をすればもっとよいではないか。然り。しかし、それはSupplement(本来おまけの意味)常用者が増えるような事態ではない。不安からWalkingに精出すようなことではない。健康を考えることは、1人ひとりが人生を考えることから出発せねばならない。にもかかわらず、厚労省の脅迫によって、目先の!健康に人々がいかに右往左往されているか。

Uneasy leverage
 人生は、Start lineからDeath matchである。経済と健康問題がしばしば話題になるのは、比較的分かりやすいからである。単純である。人生の目的を経済と健康に絞り込めるものか。少し巨視的・歴史的に考えればよい。金が問題ではないから長時間・不払い労働、有給休暇低取得であり、賃上げにも本気にならない。寿命は世界に冠たる長寿国である。にもかかわらず、それらがUneasy leverage(不安な梃子作用)として使われるのは愚鈍である。――人間が独力でやらねばならぬ「心のTask(課業)」は、安全を感ずることではなく、苦痛や不当な恐怖を持たずに、不安全に耐えられることでなければならない。」(「正気の世界」E.フロム 1900〜1985)――r


日常生活の批判
自由の重み
 自由という言葉が嫌いな人は少ないだろうが、実はこいつは厄介な意義を持つ。制限だらけの状態においては、不満があっても制限自体を闘いの標的として意識できる。だから退屈などしないし、一所懸命の行動が持続する。ところが、制限が1つひとつ解消し、自由が増えるとそうはいかない。貧しかった時代は「生きるべきか、死ぬべきか」であったが、豊かな現代においては「A状態で生きるか、B、C、D----状態で生きるか」の選択に腐心せねばならぬ。そこに現代的不安が忍び込む隙間がある。

定型的生き方がラクだ
 概して人間は鋳型に嵌りやすい。政治家は国家・国民という言葉を濫用するが、国民はその数ほどいる。とすれば国家(に対する意識)は国民の数ほど存在することになる。そこで、超国家主義たちは国家の在り方をまず絶対的なものと規定して、その枠内で国民たろうとする。もし、絶対的国家観を確立してしまったら、その国における国民は単に名前が異なるだけで国家のPartsに過ぎなくなる。国家主義者たちがいかに威勢よく戦闘的言葉を駆使しようと、要するに彼らは自己を放棄した国家のPartsたる個体に過ぎないのである。それは自由な人間たる意識を放棄した軽薄な人生観の持ち主であり、かつ民主主義に反対するものである。

全体主義者は精神的弱者である
 ナチスの親衛隊員である収容所長が自分のお金でこっそり被収容者に薬を与えていた。ゲシュタポの高級官吏が毎晩家族に悲惨な状態を話して涙に暮れていた、などの話が残されている。これは異常な世界において、正常であろうとする命がけの努力である。正常であり続けることは口で言うほど簡単ではない。だから、全体主義者たちは結局自分の心を捨てて、ひたすらPartsとしての優秀性を競い合った。人間が、国家にせよ、組織にせよ、自分の心を捨てて関わるから全体主義が成立する。つまり全体主義者は精神的弱者に過ぎないのである。

柔らかな全体主義
 組織と個人の関係においては、Individual Personality(個人)とCultural Personality(集団文化)が緊張感をはらんで、摩擦・葛藤が日常的に発生する関係にある。もし個人がそれを避けようとすれば、個たることを排除するしかない。現代社会における官僚機構は、かつてのような硬直した全体主義の衣をまとってはいないが、いわば「柔らかい全体主義」となっている可能性が高い。

大衆の弱点
 Communicationがよろしくない、にもかかわらず職場は動いている。とすれば、問題は単なる人間関係の巧拙に止まらない。個が個として存在していれば、Communicationは必然的に強くなるはずだからである。オルテガ(西班 1883〜1955「大衆の叛逆」)の言葉を思い出してほしい。――大衆、すなわち自らを1個の平均的人間としみなして平然としている人間、自分が他人となんら変わることがない人間と気づけば慄然とするはずなのに、それどころかそこに快感すら感ずる人間。――r

人間疎外が深化している
 1960〜1970年代に人間疎外が話題になった当時と今を比較すると、それはだいぶ深化したようにみえる。個と外界との関係において、現代人は自分の内側にだけ強い興味を示し、外界を強く知覚しようとしていない。個人主義ではなく、孤立主義だという所以である。ここからは2つの視点を提供できる。――彼の内側世界とだけ接触し、客観的に行為に関連づけて外界を知覚できない人は狂気である。――外界を写真のように経験してはいるが、自己の内側、自分自身と接触できない人は疎外されている。――(フロム)

心が問題になる社会
 フロムの指摘は意義深い。前者こそ、Mental healthが話題になる事情であろう。後者は、すべての状況に対してPassengerとして生きようとしている姿が浮かんでくる。たとえば政治的無関心、Communication不全、そこから引き出されるのは「連帯」なく、「共生」とは無関係の孤立した姿である。

人間行動は状況の関数である
 結局、人間疎外とは、煎じ詰めれば「自己からの」「状況からの」疎外なのである。ところで、人間の行動は次の公式で表現できる。
  Behavior(行動)
  Person(個性)
  Situation(状況)
  Function(関数)とすれば、
 B=F(P,S)
 かくして、個人が状況にいかに働きかけるか、状況をいかに受け止めるか、状況をひたすら唯々諾々受容するだけでは元気喪失するのは必然である。

疎外が意識されない
 疎外が意識されている場合は少ない。むしろ疎外を意識している人は少数派である。疎外の渦中にあるのに、自分が成功していると思っている人は少なくない。多くの人々は、ひたすら現状の合理的処理にのみ尽力する。その大部分は自己の当面の利害得失に関心がある。その結果状況に埋没してしまいやすい。現実の合理的処理は大切だが、理想や展望を無視した行動ばかりやっていると、やがては抜き差しならぬ矛盾に嵌り込むのである。

孤立主義の罠
 われわれは状況において、極めて微小な存在である。単純に言えば「世の中は自分が思うようにはならない」のである。そこで人々は概して自分だけの世界に沈没しやすい。なぜなら、自分の世界を縮小すればするほど!「自分が自分のように見えてくる」からである。これが自己中毒、自分中心主義、以って孤立主義という所以である。漱石が「個人主義」を提唱し「自分らしさを求めよ、かつ、孤立せず、視野を国家へ、世界へ拡大せよ」と主張したように自分の殻に閉じこもるのは個人主義ではないのである。

いかに生きるべきか
 なぜ「いかに生きるべきか」などと面倒なことを考えねばならないか。いかなる時代であろうと、時代から超然とは生きられない。「これは私の時代なのだ」。その中で生きている私の人生である。「これは私の人生なのだ」と言わねばならない。それがないから、騒々しく経済不安を煽り、健康不安を煽る情勢において、元気喪失せざるをえない。「共生」という言葉は美しい。これはお題目ではない。同時代を生きる人々の行動原理でなければならない。そのために、「いかに生きるべきか」を各自が問わねばならないのである。

21組合研究会2007/11/13発表 生活論「日常生活の批判」より


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 
経営労働評論家、日本労働ペンクラブ会員
OnLineJournalライフビジョン発行人




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