2008/07
余暇から見たワーク・ライフ・バランスライフビジョン学会


 

日本余暇学会とライフビジョン学会によるジョイントシンポジウム


薗田碩哉
 
 実践女子短大教授、さんさん幼児園理事長。(財)日本レクリエーション協会を経て現職。研究テーマは余暇、遊び、レジャー・レクリエーションを巡る理論的、実践的な検討。特に遊びと教育、余暇生活設計、生涯学習、福祉文化、障害者のレクリエーションなどを追っている。まちづくりや生涯学習に関するワークショップやグループワークを通じて人間開発を目指す。

 日本の「ワーク・ライフ・バランス」は人間らしさの回復という発祥の目的を外れ、少子化、労働力不足、長時間労働…と仕事の話題ばかりです。
 人生のゴクラクは遊んで暮らすこと、余暇は人間らしさの証明です。生き方、暮らし方、人生の話が置き去りにされているようなので、2008年06月21日(土)新宿NSビル13階会議室で、日本余暇学会とライフビジョン学会がジョイントして、パズルの足りないピースを埋めるシンポジウム「ワーク・ライフ・バランスを検証する」を行いました。

    問題提起1  薗田碩哉/日本余暇学会会長
        余暇から見たワーク・ライフ・バランス
    問題提起2  奥井禮喜/ライフビジョン学会顧問
        人生設計から見たワーク・ライフ・バランス
    問題提起3  藤村博之/法政大学大学院教授
        人事管理から見たワーク・ライフ・バランス
    質疑と意見交換



問題提起1

余暇から見たワーク・ライフ・バランス薗田碩哉/日本余暇学会会長


 余暇学会というと、いかにものどかな趣味の学会で、あまりまともに受け取ってもらえないようだが、私たちは余暇を日本の社会と生活の土台にきちっと位置づけたいと思っている。
 日本では余暇学は評価されているとは言いがたいが、外国、特に欧米にはどこの国にもあるし、アメリカには多くの大学に「余暇学科」がある。余暇学の話題は社会、経済、教育、哲学まで多彩である。


余暇貧国ニッポン
 日本はいまだに、過労で年間400人が労災認定を受け、そのうち150人が過労死している。過労自殺も80人を越える。働き過ぎて死んじゃっているのだ。働き過ぎとは余暇がないことで、経済大国は余暇貧国。日本人は歯を食いしばって「月月火水木金金」、昔の慣習を引きずっている。余暇がなくて死んでしまうほど、なぜそこまで働くのか。二宮金次郎精神はしぶとく残っていて、労働に対して余暇というものを同等の位置に置く発想がない。
 若い人は当然、レジャー・余暇はすばらしいと思っているはずなのに、私が教える短大の18歳の女子学生に「余暇」について聞くと、ヒマ人、ごく潰し、遊び人など悪いイメージがある、余暇などないほうが良いという感覚で、余暇学の授業があることに疑問を提起してくる。私はそれを撲滅するために、忙しい。(笑い)
 どこに行っても不思議なのは講師紹介の口上で、「今日は忙しい中を東京からわざわざやって来られて…」と。忙しいと言えば誉め言葉になるというこの風潮は許しがたい。そもそも忙しければ来るはずがない、暇だから来てるのに、これでは余暇は浮かばれない。
 20世紀後半の日本社会には、余暇問題を前進させようという雰囲気があった。70年代に週日2日制、80年代には日本中をリゾート開発するという話だった。あの時も不思議だったのは、ろくに余暇もないのにどうしてリゾートが開発されるのか。あれは暇のある人が行く場所である。それを全国数十箇所も作って誰が行くのだろうと思ったが案の定、一つも成功したところがない。あれは単なるバブル期の地上げと、新しい仕事作りに過ぎず、バブルと共に吹っ飛んだ。
 余暇開発の風潮は80年代に勢いを得た。90年代初頭には私どもが仕掛けた「余暇開発士」がヒットして、忙しくなったこともあった。しかし不況の10年を経て21世紀になると余暇は退潮、余暇のシンクタンクであった元通産省の外郭団体・余暇開発センターも雲散霧消した。「レジャー白書」はいま、社会経済生産性本部の所轄になった。70年代からあった行政の中の余暇が消え、中央のも都道府県のも余暇窓口はきれいさっぱり消し飛んだ。今では中央省庁に余暇を考えるセクションはない。余暇が見えなくなってしまった。


仕事を抑制、シェアする発想
 一方で人口の2割が高齢者で、国民全体の余暇は確実に増加している。リタイアすれば生活時間のほとんどが自由時間で、人生の最後には誰にも膨大な余暇が約束されている。
 労働現場を見ると失業率は5%ぐらい、20人に一人が失業している。その一方で働き過ぎて死ぬ人がいる。これは明らかに理不尽だ。ヨーロッパでは仕事を失業者に配分するワークシェアリングを行い、例えばオランダでは失業率が一挙に下がり、経済も良くなった。ワーク・ライフ・バランスの見地からすれば子育て専念や、いろいろな働き方ができるようになった。
 日本でも2002年ごろ、ワークシェアリングが話題になったが、すぐ消えた。人件費抑制策にしか目がいかず、仕事を抑制し、皆でシェアし、一人一人の仕事と暮らしと余暇のバランスを取ろうという発想にいたらなかったのが、根付かなかった理由だろう。
 ワークシェアリングが消えたかと思ったら今度は、2005−6年ごろからかワーク・ライフ・バランスの検討が始まった。昨年暮れに憲章ができたので眺めてみると、これは果たして「憲章」なのか。
 書かれているのは「仕事と余暇の両立がしにくい現状」「働き方の二極化」「変わらない男女役割分担」「仕事と生活の相克と家族と地域・社会の変貌」、一方「多様な働き方」が模索され、「多様な選択肢を可能とする仕事と生活の調和の必要性」などと背景説明が続く。どうやらこれが憲章の本文らしいが「白書」みたいだ。
 さらに「仕事と家庭の調和が実現した社会」「健康で豊かな社会」「多様な働き方のできる社会」を作りましょう、目指しましょう…、これは憲章ではない、政策プランにすぎない。
 最後に行動指針があり、企業や公共団体は生産性の向上、働き方の改革をしようと、まるでどこかの社長訓示。国は国民運動を通じた気運の醸成をするから国民一人一人も積極的役割を、というが、国民運動は国に言われてするのではない。国はその前に本気でやることがあるだろうと言いたい。地方公共団体に至っては地域によって違うから、それぞれの実情に応じて展開せよなどと、何もしない言い訳になっている。


労働に対する抵抗力として「余暇権」を
 「憲章」とは権利主張のことで、偉いやつに縛りを掛けるものである。マグナカルタははるか中世、王様が勝手なことをしないように約束させたものだ。児童憲章は、冒頭で「児童は人として尊ばれる」と子どもの権利を前においている。ところがこのワーク・ライフ・バランス憲章は、社会には問題があるから皆で努力をしましょう、国民はがんばりなさい、国もいくつかはやりましょう・・・こんなのは憲章ではないというのが、私の検証結果である。
 余暇学界風にいえば、少なくとも働くことと同等に重要な、「余暇権」を主張したい。
 国連は第二次大戦直後の世界人権宣言で、「余暇権」を打ち出している。人は労働の権利と同等に一定の余暇を保障される権利がある。その余暇がさまざまな形態で、その人の人生の充実に結びつくような、余暇教育を含めた諸条件を整備するべきだと言っている。
 国際的なレクリエーションとレジャーの運動体である国際レクリエーション協会(現在は世界レジャー協会)は、1970年にジュネーブで「レジャー憲章」を採択している。これは国連の人権宣言のなかの余暇条項を踏まえて、余暇を持つことをすべての勤労者に保障すること、余暇のあり方に国は介入してはいけないこと、いろいろな余暇を楽しむレジャー教育が保障されること、自治体や専門家はそれをサポートしなければならないこと、などをうたう。
 残念ながら日本の社会は、余暇を権利としてとらえることはない。「権」というとよそよそしいがライト(right)、レヒト(Recht)、ドロワ(droit)、ヨーロッパ語ではすべてもとは「右」、転じて正義、正当な、まっとうなという意味である。人権は人としての当たり前のものであり、余暇権とは余暇の当たり前、余暇のまっとうさのことである。余暇のまっとうさが日本にはまったく、国民の意識に定着していない。
 余暇とは、働かされ過ぎないための抵抗力だ。私たちは抵抗力がない、いくらでも余暇を侵される。これ以上は働かないという歯止めが余暇である。そもそもメーデーは1886年のシカゴで起きた一日8時間制を要求する運動の記念日だ。8時間以上は働かない、それ以降は他に渡すことのない自分の時間である。余暇を守って生活防衛する抵抗力として、余暇権は考えられる必要がある。ワーク・ライフ・バランス憲章にはせめて、余暇の抵抗力や、余暇の真っ当性を入れて欲しかった。


自由な時間は文化の母胎
 余暇とは余った、どうでもいい時間ではなく余らせる暇、目標としての時間である。余暇という自由な時間があるから私たちは個人を養い、家庭をつむぐことができる。自由な時間が文化の母胎になる。スポーツや演劇など、私たち自身の生活を豊かにしてくれるものは余暇から出発している。
 余暇は個人的なもの、趣味の問題だと考えられがちだが、社会のものでもある。自由な時間だから、仕事が結んでいる人間関係を解体して、自由な交わりを見つけられることが余暇の大事なところだ。
 余暇があるからさまざまな責務から解放された、自由な人格として自分を回復できる。そこから自由なつながりを作り上げ、社会を改造、改革できる。そういうものとして余暇をとらえ直すことを余暇学会は主張したい。
 では何をなすべきか。私たちはしっかり休みましょうということだ。ワーク・ライフ・バランス憲章の数値目標では有給休暇消化率について、現在の46%を10年後に完全取得としている。10年後とはのんびりした話だが、休みは人に簡単に渡してはいけないもの、一種の貞操のように、簡単に人から侵されてはいけないものなのだから完全取得は当然だ。
 私たちは残念ながら「本当の休み」を知らない。本当の休みとは1ヶ月ぐらいつながったもので、これが「尾頭付きの余暇」だ。日本人の余暇は切り身にすぎない、余暇の断片しか味わったことがないのである。一ヶ月連続して休んで、労働の従属物でない、自分の人生の味わいを体得できる、尾頭付きの余暇をわれわれは追求すべきである。そのために組合はレイバーでなくレジャーユニオンになることが、いまの状況の中では意味があるのではないか。働く方向でなく休む方向を、働かないことの意味を主張する組合であって欲しい。
 余暇学会は昨年来、江戸を見直している。日本人はそもそも過労死するような人間ではなかった。働きすぎには明治以来の近代化の悪いところが出たが、江戸文化はなかなかの余暇文化である。もう一度、ちょんまげを乗せてもいいから、日本人の原点回復に力を入れたい。
 私の結論は、ワーク・ライフ・バランス憲章は憲章にあらず。
 私たちの憲章を改めて作り直すことが両学会の課題である。







On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |