2008/08
明治憲法と民主主義編集部


























































 戦争と平和を考える季節真っ只中の8月9日土曜日、ライフビジョン学会主催の憲法学習会を開催した。第二回目は「明治憲法と主権在民」と題し、ライフビジョン学会顧問の奥井禮喜によるレクチャーが行われた。
 おりしも国立公文書館所蔵・東条英機元首相の手記が公表された。戦争を主導した主人公は――天皇を大義としアジアの平和のために戦ったのに、国政指導者および国民の無気魂は夢想もしなかった――と無責任な弁を弄した。
 なぜ戦争を止められなかったのか、国民はなぜ引きずられたのか。この戦争の芽を1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法に遡って考えた。



尊王思想は政治的スローガン

 明治という時代は海の向こうからやってきた。諸外国は交易を求めて次々と、時の政権に開国を迫った。しかし徳川300年の統治は緩み、諸外国への対応力を欠いていたことから、反幕府勢力はそれまで表舞台から追いやっていた天皇を国の顔として引き出した。
 天皇制の歴史とは、天皇の政治的利用の歴史である。とりわけ、明治維新における尊王思想は、幕府に対する政治的アンチテーゼであり、政治的スローガンであった。それは現在より遥かに保守的であったはずの明治の論客たちがすでに明確に指摘している。
 しかし、明治新体制を構築するためには、権力の大鉈が振るえる国家主義(個人の自由や利益を無視しても国家を至上の存在と考える主義)が便利である。そこで権力者たちは、尊王思想があたかも日本人の必然的なテーゼであるかのごとく推進した。
 それを演出したのが伊藤博文である。劣勢日本が諸外国と対等の条約を結ぶためには近代憲法制定が必要である。そこで伊藤らは欧州を巡って情報の収集と研鑽に努めた。
 英仏流近代憲法は本来、天賦人権論(生まれながらにして有する→生命・自由・平等)、権力に対する抵抗権、個人としての人間尊重の立場を明確にしている。それは長かった封建制度、さらに全体主義国家に対して、絶対的に、これらを否定するものであった。
 しかし維新政府はかつての下級武士中心に動かしている。政治体制安定と、列強に追いつくためには、民主的な論議など経ないで「万邦対峙・富国強兵」路線をひたすら走りたい。そこで初めての大日本帝国憲法には、欽定憲法(君主の単独の意思で制定される)であるプロシアの憲法を模倣することにした。
 欧州では、Sir.R.フィルマー(英 1604〜1647)が、天賦人権論の全面的否定をして君権神授説を主張した。いわく、
 ――子供は親に服従する。親の権利の起源を辿れば神が創造したアダムである。神はアダムに彼の子孫を支配する絶対的権力を与え、それを族父(氏族の長)、さらに国王が受け継いだとする。これは、神話の正当化であり、典型的な呪術的世界観の産物である。――r
 これを全面的に叩いたのがJ.ロック(英 1632〜1704)である。
 ――アダムは神からそんな権力を与えられていないし、さらにその相続人たちも権利を持たず、まして誰が正統な相続人であるかを決定する法もない。相続に値する長子権を持つのは誰かなどももちろん不明である。ゆえに、世界のあらゆる政府はただ強力・暴力のみの産物に過ぎない。人間はただ優勝劣敗の動物的法則によって共同生活してきたのである――と、君権神授説を全面的に否定した。まさしく論理によって民主主義革命の扉が開けられていた。
 にもかかわらず伊藤らは、大日本帝国憲法の構想に当たって、理論的に論破されていたはずの君権神授説を登場させた。


大日本帝国憲法

 「憲法義解」は明治憲法の、いわゆる解説書である。井上毅(1843〜1895 旧熊本藩士・文相・枢密顧問官)が書いたものだとされるが、伊藤博文(1841〜1909 旧長州藩・首相・枢密院議長・貴族院議長、ハルピンで韓国人安重根に暗殺さる)が著者となっている。明治憲法制作にはこの二人が中心であるから、つまりは憲法制作者による解説である。
 そこでこの日の大日本帝国憲法のレクチャーは、「憲法義解」を中心に進められた。
 大日本帝国憲法(明治22・2・11発布、明治23・11・29施行)の目次は以下の通りである。
    告文
    憲法発布勅語  
第1章 天皇 (第1条〜第17条)
第2章 臣民権利義務 (第18条〜第32条)
第3章 帝国議会 (第33条〜第54条)
第4章 国務大臣及枢密顧問 (第55条〜第56条)
第5章 司法 (第57条〜第61条)
第6章 会計 (第62条〜第72条)
第7章 補則 (第73条〜第76条)
 【告文、「こうもん」「つげぶみ」】ではまず、天照大神に始まる天皇歴代の祖先の正当な継承者である自分が先祖の遺訓を明らかにし、臣民翼賛の道を広め、国の礎を固め、民生の慶福を増進すると、天皇が神に告げ奉る。
 【勅語】は、天皇の意思表示の言葉。

 「憲法義解」は告文、勅諭、帝国憲法上諭(君主が臣下にさとす言葉)を次のように解説する。
 ――我が国君民の分義は既に肇造(創造)の時に定まる。中世縷々変乱を経、政綱其の統一を弛べしに(ゆるんだが)、大命維新、天運隆興し、聖詔を煥発して立憲の洪猷(大計画)を宣べたまひ、上元首(国家の代表権を持つ者)の大権(天皇の統治権)を総べ(管轄し)、下股肱(手足となって働く家臣)の力を展べ(発展させ)、大臣の輔弼(天皇の政治を助けること)と議会の翼賛(力を添えて助けること)とに依り、機関各々其の所を得て、而して臣民の権利及び義務を明にし、益々其の幸福を進むることを期せむとす。此れ皆祖宗の遺業に依り、其の源を疏(箇条書きにして陳述する)して其の流を通ずる者なり。――r
 天皇は最初から天皇であった。中世にはいろいろあったが、天運が隆興して復権し、憲法を作ることにした。天皇はすべての権力を持ち、その責任は大臣が負い、臣民の権利と義務を明らかにして、皆の幸福を進めるものである。これは皆天照大神に始まる天皇の祖先のおかげであるから、憲法を箇条書きにして世間に流布するものである。


第1章 天皇

 【第1章 天皇】では最初に、国家統治権は天照大神の子孫が引き継ぐこと、と書く。典型的な君権神授説である。
 天皇は万世一系、男子に伝えられること(第1-2条)では、神話と歴史を混同し、家父長主義をうたう。
 天皇は神聖だから、法律は天皇を責問する力はない。(第3条)天皇は神様、国教の体現者。法律は人間界を律するのである。
 天皇は元首にして統治権を総攬(一手に掌握)する(第4条)。西洋式三権分立はもってのほかのことだと、フランス革命とその思想を毛嫌いした。
 立法は天皇の大権で、議会はこれを協賛する。(第5条)内閣の起草、議会の提案は天皇の裁可で初めて法律となるとし、(法律は上下の約束とする)ルソーの社会契約論は主権統一の大義を誤るのでよろしくないと、民主主義を否定する。
 議会の協賛を経ても天皇が裁可しなければ法律とはならない。(第6条)議会は形だけのもので、その開会閉会すべては憲法が定めるのではなく、天皇の大権である。(第7条)三権分立は形式でしかなく、天皇絶対主義、名ばかり近代憲法。
 天皇の勅令を以て法律に代ふることを許すは、緊急時機の為に除外例を示すなり。(第8条)「緊急勅令制定権」は、議会の事後承諾を必要とするが法律に代わるべき勅令であり、事実上の行政権による立法である。
 その他、法律の変更も、行政組織の職権も、大臣の任免罷免も、みんな至尊(この上なく尊い人)の大命から出ないものはない。ただし特例として、裁判所および会計監査院の構成は法律によってこれを定め、裁判官の罷免は裁判による(第9-10条)、と定めた。
 さらに天皇は陸海軍を統帥し、その編成も予算も決める。(第11条)天皇の軍隊と言われる所以である。国務大臣の輔弼責任事項ではあるが、これらは法令によらず、内規という形式で統帥事項にした。これが後に軍部の跳梁跋扈、統帥権独立の元になる。
 天皇は議会の参賛がなくても、宣戦布告もできるし講和も締結できる。(第13条)その理由は、君主は外国に対して国家を代表するのだから、主権の統一が必要だし、和戦条約のことは敏速な対応が必要だから、と。議会の干渉によらず、天皇自身が、大臣の輔翼(補佐)によって外交を行うことができるのである。
 絶対不可侵の天皇の摂政は、憲法の手の届かない皇室典範で決められる。(第17条)国民が「憲法ハッピ」とちょうちん行列して祝ったという大日本帝国憲法は、天皇の権力を強めて政治的利用を画したものであった。
 

第2章 臣民権利義務

 この憲法によって国民は、「臣民」と呼ばれるようになった。臣民とは君主に従属するものとしての国民のことである。維新までは士人と平民に分割され公権・私権ともに平民にはなかったが、維新の後、――士族の殊権を廃し、日本臣民たる者始めて平等に其の権利を有し其の義務を盡すことを得せしめたり。――r
 そこで日本臣民は、――文武官に登任し及其の他の公務に就くは門閥に拘らず。維新の後陋習(卑しい習わし)を一洗して門閥の幣を除き、爵位の等級は一も就官の平等たるに妨ぐることなし。(第19条)身分によって差別は無しとしたが、現実には民間からの登用は多くはなかった。
 第20条では兵役の義務を、第21条では納税の義務を課し、第22条では住居移転の自由を有すとした。
 特に兵役については明治4年武士の常職を解き、一般人に兵役を課し、戦時には17歳より40歳迄を召集するとした。
 ――上古以来我が臣民は事あるに當て其の身家の私を犠牲にし本國を防護するを以て丈夫の事とし、忠義の精神は栄誉の感情と倶に人々祖先以来の遺伝に根因し、心肝に浸漸して以て一般の風気を結成したり。――r
 その忠武の教育の事例として、大伴佐伯宿禰の「海行かば、みづく屍、山行かば草むす屍、王のへ(辺)にこそ死なめ、のど(閑・和)には死なじ」を挙げる。忠義の精神は遺伝であり、国のために死ぬことは美学とされた。
 第23条は日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ。
 その説明に憲法義解は、人身の自由を保明するが、――彼の佛國の権利宣告(人権宣言)に謂へる所の天賦の自由は他人の自由に妨げざる限り、一の制限を受けざるの説は妄想の空論ために過ぎず――と天賦人権論を否定する。
 その他裁判を受ける権利、許可なく住所に侵入されて捜索されない権利、信書の秘密、所有権を侵害されないこと、信教の自由、言論著作印行集会および結社の自由(第24-29条)などなどがあるがこれらは羊頭狗肉、臣民の権利がその後の暗黒時代にどのように蹂躙されたかは、多くの人の知るところである。
 特に信教の自由について憲法義解は
 ――内部に於ける信教の自由は完全にして一の制限を受けず。而して外部に於ける礼拝・布教の自由は法律規則に対し必要なる制限を受けざるべからず。及臣民一般の義務に服従せざるべからず――r
と、心の中では自由だが見えるところでは臣民のポーズを要求し、実質的に神道を国教化した。
 もともと明治政府は明治6年まで切支丹禁制の高札を立てていた。国際的抗議が重なり、同2月国内的にはすでに知れ渡っているから掲示の必要なしとして撤去、国際的には信教の自由の体裁を装っていた。結局黙認。さらに宗門人別制の仏教宗派強制の陋習と寺院僧侶の特権は除去された。明治元年神仏分離令→廃仏毀釈へと続く。


神がかり翼賛体制

 読み進むにつれて、かの憲法の性質が、
 @お上(天皇)一人に全政治権力を集中していること、
 Aその由来が極めて強引な君権神授説に依拠していること、
 B大日本帝国憲法こそ、権力者によって国民に押し付けられた憲法であること、を改めて痛感させられる。これが後の、極端な「日本精神」なるものの土壌である。
 尊王思想は権力者による政治的スローガンに過ぎなかった。明治維新によって、せっかく封建社会的無知蒙昧を脱したはずだったにもかかわらず、呪術的思想時代へと逆流させた。国民は呪術師の手による集団催眠で神話を信じ、考えることを停止した。
 日清戦争(1894〜1895)・日露戦争(1904〜1905)を経て明治30年代には、天皇崇拝が牢固としたものになった。厳密に分析すれば、いずれの戦争も相手国にすれば局地戦に過ぎなかった。とりわけ日露戦争は勝利と呼べるようなものではなかった。最悪は、わが国民に傲慢と自信過剰が蔓延してしまったことである。(ついでながら、外交には、常に強腰を要求する性癖が当時から始まっている。これは要注意である。)
 日清日露の戦争勝利で、政治権力が推進している国の針路は正しいという思い込みと、一等国意識の傲慢が固まった。それゆえ大正時代にせっかく台頭した民主政治の思想が、結局は新しい価値を創造するまでに到達せず、1945.8.15の敗戦まで突っ走ったのである。
 為政者らは15年戦争の推進、国家翼賛体制を推進するのに具合の良い道具として、ますます神がかり的思想の喧伝に努めた。15年戦争はまさしく、大日本帝国憲法の帰結であったと言わざるをえない。基本的人権と平和の相関関係は、ここからも読み取ることができるであろう。


われわれが進めるのは民主主義革命である

 憲法自体もまた、歴史的に分析するべきであろう。概観すれば、明治時代には自由民権運動があり、大正時代には普通選挙権獲得運動をはじめ、さまざまの社会的運動が勃興した。その意味では、わが国においても民主主義的な思考・行動が見られるのは歴史的事実である。
 しかし、明治維新は封建社会打破を目的としたものではなかったし、日本国憲法(1947.5.3施行)は、欧米各国に見られるごとく、大衆の民主主義的覚醒によって獲得したものではなかった。
 戦後、神権天皇制は否定された。天皇は人間宣言し、国体は護持されなかった。主権在民の憲法になったことは、国体が変更されたことである。主権在民・基本的人権を徹底すれば、天皇世襲制の廃止、以って天皇制の廃止と進むのが合理的である。それこそが新憲法の精神に適合するからである。
 戦前体制と戦後体制を比較すれば、戦後とは戦前の革命的存在である。戦後は日本国憲法を通して(戦前に対する)革命を日々推進しているのである。動と反動、革命と反革命は、常に時代を生きる大衆の思索・行動に依拠している。これを忘れないようにしたい。大日本帝国憲法を勉強するのは、懐古趣味によるのではない。再び同じ過誤を起こさぬように、日本人として成長の道を歩みたいがためである。
 日本国憲法の「憲法が保障する人権は人類の多年に渡る自由獲得の努力の成果であって(97条)」、「国民不断の努力によってこれを保持しなければならない(12条)」という言葉の意味は深いのである。
 とりわけ、日本国憲法は国民の民主的意識が高まって獲得したものではなかったことは、われわれが今後も慎重に考え続けなければならない客観的事実である。

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 「職場でもう少しものを言えるようになれと私は言っているが、それが日本人が民主的に育っていくことだと思っている。職場で言いたいことが言えない、そんなことでは話にならない。」
 奥井禮喜の話を請けてこの日の進行役であるライフビジョン学会S理事は、「民主主義を実践するには個々人の教養がなければ到達しない。それをどう学習していくかは難しいが、理事会で相談して企画したい」と、この日の勉強会を終了した。







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