2009/08
価値観転換の時代をどう生きるかライフビジョン学会




 
 コーディネーター
奥井禮喜 (有)ライフビジョン代表

三菱電機労組中執を経て1986年より現職。日本初の人生設計セミナー開発、著書「労働組合が倒産する」で人事・労働界の注目を浴びて、人と組織の元気を開発する講演、研修、コンサルテーション活動展開中。FAXとe-mailによる週刊RO通信(無料)発行。[著書] 『労働組合が倒産する』『元気の思想』他
































水野和夫 氏   
三菱UFJ証券(株)チーフエコノミスト

1980年八千代証券株式会社入社、1981年国際証券(現三菱UFJ証券)調査部配属、現在に至るまで経済調査部でマクロ分析。2000年執行役員・チーフエコノミスト、2005年現職に。[著書] 『所得バブル崩壊』ビジネス社『100年デフレ』日本経済新聞社『虚構の景気回復』中央公論新社2007年『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』日本経済新聞出版社























新妻健治 氏    
イオングループ労働組合連合会・会長

1957年生まれ。80年岩手大学農学部卒。同年ジャスコ株式会社入社(現イオン株)、89年全ジャスコ労働組合(現イオンリテール労働組合)・政策部長、95年・同書記長、9年・同事業広報担当リーダー、00年中央執行委員長、07年・現職







木暮 弘 氏    
UIゼンセン同盟流通部会 副事務局長

1958年生まれ、群馬県出身。1981年4月潟jチイ入社(現潟}イカル)、1982年9月ニチイ労働組合春日部支部書記長、1987年10月ニチイ労働組合中央執行委員、1994年9月UIゼンセン同盟流通部会執行委員、1998年9月マイカルユニオン中央書記長、2002年9月UIゼンセン同盟中央執行委員、マイカルユニオン中央執行委員長、2008年9月より現職に







  金井弘之 氏
フジテック株式会社東京本社 支配人(兼)総務本部副本部長

1970年ソニー株式会社入社、勤労部 労務課 勤務。以来、一貫して人事労務分野に従事。労使交渉、工場立ち上げ、子会社設立、子会社社長、事業再構築など人事労務分野の一連の経験を積む。2006年ソニー株式会社人事部門の長を経て、株式会社ワールドに転出。労政部長として勤務。組合問題に注力。2008年フジテック株式会社入社 現在に至る。



























































 2009年06月13日(土)ライフビジョン学会主催による総会学習会「価値観転換の時代をどう生きるか」が行われました。第一部・水野和夫氏による基調講演「グローバル経済の本質を解く」(7月15日号掲載)に続いて第二部はパネルディスカッション「新しい時代の生き方、暮らしを見直す」。経営の、暮らしや生き方の、社会運動の各視点からパネルディスカッションを展開しました。
経済問題を歴史的検証に 奥井 私が最初に水野和夫さんとお会いしたとき、現在の経済問題を歴史的検証にかけて語られたことが非常にうれしかった。なぜ歴史的検証にこだわるのか。ランケ(歴史学者 独)は「世界史概観」で、『進歩とは人間精神の働きである』というが、日本人ぐらい歴史を考えない国民は少ない。進歩は歴史のふるいにかけないと見えてこない。
 第一部の水野さんの基調講演「グローバル経済の本質を解く」(7/15号参照)で押さえておくべきはまず、先進国の経済は1974年が頂点であったこと。また、世界人口の15%程度がずっと、豊かさを享受してきたという指摘である。
 1984年に国民の中流意識が90%になった。80年代に入ってエズラ・ボーゲルの「Japan  as No1」が話題になったが、勤め人は豊かさ・ゆとりが感じられないと言っていた。まさにあのとき、明治以来「追いつけ追い越せ」でやってきた日本が分岐点にあったのだが、その意識が十分でなかった。
 1973年石油ショックは1971年ニクソンショックの後、アメリカが金ドル交換停止をして以来の、自国に都合のよい通貨調整をしたことに対して、産油国がそのバランスを取ったものだったが、それが十分に理解されていなかった。
 先のバブルが弾けたことにより、日本では年収200万円以下の人が増えるなど所得格差、資産格差が拡大している。水野さんは今回の処理が欧米で終るのに5年以上必要、と言っている。
 ここで考えたいのは、――近代以後とは無限の彼方にあるテロス(目的、完成 ギリシャ語)に向かって驀進した、異常な時期である――という指摘である。ルネサンスや宗教改革を勉強すると、この言葉の意味がのしかかってくる。日本人にそういう体験がないことの意味は重い。
 我々はこの国に生まれて60年、敗戦後の景色しか知らない、上り坂の経済をこんなものだと思って生きている。これを何らかの歴史的検証にかけなければ、いまの状態が当たり前なのか、異なったものなのか、判断を見誤る。1974年が頂点であるということを、私は重たく感じている。
 世界は近代資本主義以来の危機で、ゼロ成長時代を迎える、中産階級のみなさんは崩壊する(笑い)とも指摘いただいた。そこでこれから、ゼロ成長を前提に話を進めたい。
 6月13日の日経新聞社説は「底割れ懸念が後退した」などと書いている。金融システムは目下「小康状態」と言っているが水野さん、果たして問題解決したのでしょうか。
 水野 日銀・白川総裁がニューヨークで、「偽りの景気回復」が、日本では失われた10年の間に何回もあったと言っている。まさに今年2月を底にして生産輸出が回復し、その動きが今年中ぐらいは続く可能性がある。これは日本が経験した「偽りの景気回復」になる可能性がある。
 金融システムの立場から言うと、いままでアメリカの家計は少なく見ても4兆ドルから多くて7兆ドルの借金を抱えている。毎年1兆ドル単位で返さなければならないのに、半年でまだ2000−3000億ドルぐらいしか返していない。このペースでは家計はこれからさらに、返せない借金が増えていく可能性がある。日本も最初は7兆円と言っていた不良債権が、最後には100兆円まで増えていった。
 「偽りの景気回復」が起きているときには金融システムは小康状態になり、「偽りの景気回復」がとだえるとまた金融システムが悪化する。「小康状態」はその通りだが、解決はほとんど進んでいないと思います。
 奥井 もうひとつお尋ねしたいのだが、NHKが「マネー資本主義、暴走はなぜ止められなかったか」という番組を放映した。この問題意識はどうなんでしょうか。
 水野 なぜ止められなかったか。私はホワイトハウスをウォール街に“乗っ取られた”と思うので、止める意思がなかったのではないかと思う。彼らは止める必要も全くなかった。
 バブルというものは極限までいかないと、三合目なのか九合目なのか分からない。だから“乗っ取られた”グリーンスパン議長も、「バブルは弾けてみるまで分からないし、弾けたらさっさと消火活動すればよいのだ」と。極大化して後始末は公的資金で、というやり方だ。一旦バブルを作ってしまったら、私も対処手段はそれしかないのだと思います。


ゼロ成長への、現場の構え方

 奥井 日本の第一次産業は293万人、労働力人口の4.6%、第二次は1787万人で28.3%、第三次は66.1%で4175万人。いまや流通・サービスが労働力人口の主流である。今日のパネリストの木暮弘さんは流通の産業別組織、新妻健治さんは日本で一番大きなスーパー。金井弘之さんはソニーからワールド、いまはフジテックの人事で、それぞれ活躍されている。まず三者の感想をお願いします。
 新妻 最初のバブルがはじけた当時は「賃金崩壊」といわれていた。これから所得が上がらない時代が来る、どうやって労働組合の組織運営、活動をやろうかと思っていた。
 水野先生は「パラダイムが転換したのだから、これまでの延長では不具合が起こる」という。以来、経済に対する基本認識を改めて、社会のシステムがどう変わるかより根本の、価値観の転換をどうするかを考えた。
 米社会学者・チクセントミハイ「楽しみの社会学」には、――これまでの外発的報酬(金銭、権力、名誉など)に価値をおいて暮らしていくと、個人は不安や不満、自分に対して疎外感を持つ。それを内発的報酬(心のうちから湧き上がるようなもの)に置きかえることで自信、満足、連帯の気持ちが増加する――という。資本主義が外発的報酬の体系だとしたら、これからは人間の内発的な価値を大事にする社会や組織が構築されることで、パラダイム転換に耐えられるのではないかと思っている。
 すると小売り、消費はどうなるのか。お客様の満足は一旦充足されるとさらに上を求めるもので、このままでは資源が枯渇して限界を迎える。だから「お互いさま」の内発的報酬の商売として、小売りは存在し続けられるのではないかと考える。私は自分の組織の中で、社会の問題を解決する運動を展開しようと考えています。
 木暮 私の率直な気持では経済と組合活動が日常的に一つにならない。職場で起きていることの原因が経済の構造にあるとは思うのだが、目の前で起きている組合員の苦情とグローバル経済危機とがつながらないジレンマに悩む。
 産別労組の私の仕事の一つは、流通の産業政策を作ることである。労働力の6割が第三次産業で、モノを作っていない。日本はこれまで加工、製造で発展してきたことを考えると、6割の就労者の産業政策を、いままでの路線の延長でやろうとしたのではだめだろう。
 流通サービス産業の“ゼロ成長”は悲観していない。人は何らかの形で生きていくし物は食べる、サービスはどこかで受けるのだから、そのバランスをどうとるのか。それが今後の方向になるだろうと考えて勉強している。
 流通関係者の中では「顧客満足」は誰も否定しない、いい言葉だ。しかしそれは各社個別にはあっても、流通小売り、サービス産業全体で考える「顧客満足」とは何か。それは右肩上がりの前提で考えるかどうかで、大きく変わると思います。
 金井 私はいまから20年前、アメリカへ短期留学した。ベルリンの壁が壊れ、社会主義国が資本主義に変わった時代だった。それまでは社会主義と資本主義の対立があって、両者のパラダイムの中でものを考えた。しかしそれがなくなって全部資本主義になって、どんどん自由化、金融化して、たった20年の間に大きくスウィングして、弾ねちゃった。一旦、完全に自由にして、その先に崩壊した。次はいったいどこへ行くのかと、その時思った。
 水野さんの基調講演は、長い時間の構想だ。日々の労働の中で社員と泣いたり笑ったりする側から言うと、マクロの問題はあるとしても、その中で我々は経営を実践していかなくてはならない。
 資本主義がゼロ成長しかないといわれても、人間の知恵は無限だからいくらでも発展できると信じている。その根拠は、たとえば1000%のインフレが起こっているブラジルに行く機会があった。何のことはない、1000%のインフレでも飢え死にする人はいない。マーケットでは毎日、社員が朝付けた正札を昼に取り変えている、それだけの話だ。我々は毎日働いて寝て、食って生きている。そういうことを踏まえた、もっと身近なマクロの経済学が出てくるだろう、出してほしいと感じています。


われわれは騙されていたかも

 会場から質問 水野さんに伺います。サブプライム問題は、我々は騙されていたという印象を持つ。誰が悪いのか、何をすれば起きなかったのか。また、我々労働者が対抗すべきこと、やるべきことは何かあったのか。単組や単産で対応できる問題でもないように思うのだが、できることは何だったのでしょうか。
 水野 誰が悪いのか、それはバブルを意図的に起こした金融資本、具体的にはウォール街、そのバックにいる人たちだと思う。歴代の財務長官はほとんどが、アメリカの投資銀行出身者だ。起こした人は確信犯だろうと思う。公的資金が入るのも想定通り。その意味では公的資金を入れるぐらいに大きくしなければならない。半端なバブルでは公的資本は入らないから、資本を持っている人は失敗する。
 対抗手段は難しいが、選挙のときどういう政権を選択するかにかかっている。いまの経済政策は成長すれば何とかなるという“上げ潮派”だが、その前から「構造改革なくして成長なし」という、成長を前提の政権が支持されている。成長できないのに成長させようとする政策は必ずバブルに結びつく。いままでの政権に構造改革を期待し、300議席渡したのは、騙されたほうが悪かった(笑い)と言っては実も蓋もないので、信じないようにしなければいけませんね。
 奥井 ネズミ講と言い切るのは品がないかもしれないが、相対取引でない状態で証券化し、また証券化すれば、その中身は誰もわからない。買わされた時点から皆、ババをつかまされた可能性がある。証券会社のエコノミストである水野さんが、こんなのでよいのかと分析して我々に出してくださるのに、日本の経済学者のサボタージュは怪しからんと思っている。
 水野さんにもう一つ解説してほしいのだが、いまの不況克服策は、インフレ期待の政策ばかりである。1973年に石油ショックがあり、日本は赤字国債を出してサポートした、それが次のバブルにつながった。いまやっていることは、新しいバブルの温床を作っているのではないか。
 水野 その通りだと思います。これだけ金が有り余っている。そこで日本も含めて世界中の国がゼロ金利政策を含めてインフレ的な政策、それから財政出動=カネの量を増やす政策をとっている。
 そもそも80年代以降バブルが起きるようになったのは、財・サービス市場でインフレが起きなくなったから、金融資本市場で資産インフレ=バブルが起きるようになった。インフレ政策をとればとるほど、次の資産バブルを作り出す。それはごく少数の人のための政策、ということになる。もしかしたらウォール街だけでなく、永田町も乗っ取られているかもしれない。


技術革新は無限に続く期待

 奥井 世界全体でゼロ成長も想定するとすると、それはどんな状態をいうのか。さらにゼロ成長時代に流通はどう乗り越えるのかをお聞きしたい。
 水野 成長経済というのは貯蓄額や内部留保だけでは足りないので外部から増資や銀行借り入れをして、新規の投資をする。ゼロ成長下では、貯蓄額や内部留保がそのまま更新投資になる。
 日本はもう、そんなに外部資金調達はいらないほど循環的な経済になりつつある。たとえば高速道路を延長するのが“純投資”で、7000kmぐらいできれば後は補修工事、これが“更新投資”。ゼロ成長の意味は貯蓄額はすべて更新投資に回る、というイメージである。
 日本は1975年の段階で、世帯の数と住宅戸数が逆転している。絶対的な戸数は足りているので、あとは既存の家をどう住みよくするかにあり、それは更新投資になる。身の回りにはたくさんの自動車と、家族の数よりたくさんのテレビがあるのではないか。右目と左目で違うテレビを見るわけではないし(笑い)。ゼロ成長でもそんなに問題はないと思う。
 分配の問題では、この30年間に拡大した格差を是正しなければならない。本当は30年前が、ケインズやアダム・スミスが言っている社会が実現するよい分配であった。これから失われた30年を取り戻していくということでしょう。
 奥井 18世紀の前半に、生産面における固定資本財の範囲が著しく拡大した。その当時、ヨーロッパの商人経済はピークに達していた。資金の利用を拡大することと交易を成長させるために、マーケットを開拓し輸出品を作る。これが19世紀に猛烈に伸びた。単純に産業革命と比較すると、いまは世界で100兆ドルと言われる金融資産に投資機会をどう作るかが勝負だろう。
 そこで科学技術という面で見たら、次の投資対象になりそうなものは何でしょう。
 水野 制約条件の一つが環境だろうから、グリーン革命を進めないとBRICsの近代化もとん挫する。もうひとつは富が中東に移らないようにするアメリカの攻防もあるだろう。
 第一次第二次産業革命の、たとえば電気洗濯機のような時間を解放するようなものにはならない。電気自動車は加速がすごいといわれていますが、もう人間の運転技術が追いつかない。それはBRICsが豊かになるためには必要でも、先進国はもう…。あとは空を飛ぶとか、自分がファックスの中に入って移動するとか。(笑い)
 奥井 すでに1980年代、電機製品はこれから何を売ったらいいのかという話をしていた。壁掛けテレビなどはもう開発されていた。いまは携帯テレビのようにどうでもいい機能をどんどん出しているが、テレビ技術としては新しいものは何もない。技術革新は、70年代で止まっている。
 ゼロ成長を描きながら、何か意見をどうぞ。
 新妻 当面の飯は海外から稼がなければと考えている。中国も内需に転換していくしBRICsも成長していくから、そこに我々が培った日本の技術や、健全な内需を喚起するような流通業が持ち込まれるのは必然だろう。
 しかし後発の近代資本主義の国には、より早く鮮明に近代資本主義特有の問題が発生するという転倒性があるとすれば、そこに日本が知恵を貸しながらその問題の解決に貢献する、という方法がある。
 さらに消費の質的転換も必要だ。他者との差異性、優位性を競うような際限のない消費や、酒席のカラオケのような、仕事と家庭の憂さのはけ口としての消費は質的に転換して、心から満足に思える内発的消費に転換すべきだ。こうして純投資は多分、人への投資となり、生きている人の精神性は高まっていくことを選択すべきだ。
 分配の構造では、私の組織にも非正規、短時間短期雇用を多数抱えている。これまで正規社員が短時間、短期雇用契約の従業員を踏み台にしてきた経過を見れば、分かち合いの分配構造を作らなければならない。組合の分配の考え方も転換しなければならないと考えます。
 木暮 商売として売り上げが伸びない時に何を考えるか。流通はいままでは仕入れた物を売る、客に一方的に渡すだけだったが、ゴミや環境問題のことを考えると、回収も流通業の社会的存在意義になる。
 これまで、流通という商売は何も規制がないから、俗に「戸板一枚」あれば誰でも参入できてしまう。いまの流通はオーバーストアで競争して、勝った企業もへとへと、その隣にまた新しい勢力が出てくるという、外食も含めてこの繰り返しで、働く人に明るい日は来ない。ゼロ成長というならある程度の参入制限をかけて、客に販売し、渡したものには店側に回収責任を負わせるという社会ルールが必要だろう。それをビジネスベースに乗せないと、完全循環型社会はないだろう。
 私の田舎では田んぼや畑が遊んでいる。田んぼは耕さないとダメになる。休耕田をただで借りて、自分の土地の30倍の耕作をしていても、人を雇ったのでは採算が合わないという。その一方でコメが余るなど、農業では立ち行かない構造になっている。食べ物は自然に循環するものだから大事にして、生産と流通をマッチさせれば、小売業はゼロ成長でもやっていけるのではないかと考えます。
 金井 ゼロ成長は大いに結構だと思いますが、ゼロでもなんでも利益を上げなければならないのは“強欲”な会社のほうでして(笑い)。
 流通では下取りセールが話題だが、あれは個人レベルの更新投資を促進していることになる。会社は回転を上げる、回転の期間をどんどん短くすれば、更新投資の中で利益は上がるだろう。
 ところで技術開発は無限にある。たとえばエレベータはいままでゴトゴドガタガタ音がした、いつの間にかギアレスになり、そのためにはモーターのトルクを大きくする技術が生まれ、それはインジウムという材料を開発して永久磁石を作り、磁束密度を高めたので、小さなモーターで静かな音で動くようになった。大規模な投資はないが原材料の開発から小さな技術まで、改善の技術の積み重ねで小さな差がついて、フジテックのエレベータは三菱のより少し静かですね、といわれるようになる。(笑い)
 知恵はどんな環境でも、いくらでも生まれる。資本主義があって利潤論理を認めている限り、それは止まらないと思います。


内発にもとずく消費志向を

 奥井 いまの三人は売る立場の話であったが、消費の立場での発想があってもよい。労働組合は生活者の立場でありながら、場合によっては人事部以上に、売る立場で発言するような傾向がある。ゼロ成長という天佑はそのいびつなものの考え方をリセットできるチャンスだと思います。
 新妻 はけ口としての消費ではなく内発的な労働や学び、遊びや暮らしをすれば、消費は健全になると思う。その前提で流通サービスという立場で社会の問題を解決しようとしたとき、どんな働き方があるのか。金井さんは、人間の知恵は無限だという、知恵は自分の内発の発揮だ。
 本来人間が生きていく行為すべてが労働であるとすれば、過剰消費のための過剰労働はやめて健全な消費の原点に戻ることである。われわれは大きく考えて小さく働くことを、店の中でやっていくしかないと考えます。
 奥井 人間は経済から見ると生産者と消費者に分けられるが、生き物として考えると、生きていることは消費である、消費するために生産せざるを得ない。人間はそういう宿命にある。働く方々の「人生としての消費」はどうでしよう。
 新妻 資本主義経済に身を置かなければならない自分たちが、どういうポジションを築けるか。
 やはり経済的価値は常に相対的なものだから、築いたものは築いた瞬間に無くなって、より上位を求めるという無限のスパイラルを描く。働く人はそこに心理的な負担を感じて過剰労働に身を投じ、それを正当化し、それが生きることだと諦めているのではないかと思います。
 奥井 岩波文庫は千円あればかなり勉強になるし、読む時間もかなり必要だ。そういうものに価値を感じないでカラオケに金を投ずる。定年後は家でじっとしていると体が弱るからと、妻は夫を外に追い出すが、これではものを考えられない。サラリーマンが生涯かけて建てた家になぜいられないのか、なぜうろうろ歩きまわらねばならないのか、まさに内発がない。ゼロ成長は金を使わなくても楽しめるという見識があれば結構なことですが。
 木暮 モノで満足ならば小売業はもっと売れているはずだが、それはだいぶ前に終わっている。モノはたくさんあるがうまく使えないでいる。
 職場ではいま、会話が少ない。インターネット知識で自分は何でも知っているという錯覚にはまっている。自分で興味を持って動くとか、テーマを深掘りするような時間の消費の仕方は足りない。本を読んだり、本当に知りたいことを追いかける、「知るを楽しむ」という雰囲気が職場では受け入れられていない。私的生活を豊かにする刺激を受ける機会が少ない。
 その一方の仕事では、成果主義・能力主義などと大きな刺激を受けすぎている。それがために憂さを払う居酒屋・カラオケ、そして病気になって儲かるのは医者ぐらい。そういう消費は変えなければならない。金がなければそれなりの知恵は必ず出るから、ちょうど良いチャンスでもあります。
 産別労働組合の立場では資本と労働、経営の分配について、ゼロ成長下であれば横ならびは許されても、労働者に対しては右肩下がりの分配の構造は、修正しなければならないと考えます。
 金井 人生は死ぬまで消費し続ける。最初は時間が無限にあると思っているが、気がつくと残り時間のほうが少ない。読みたい本をあと何冊読めるのか、それも満足に消費できないではないかと考えれば、内発的には消費しなければならないものはいっぱいある。
 もうひとつ、知的好奇心を刺激して夢の世界を遊びながら、本当に自分が知りたいことを知るために消費する。知的好奇心も資本だ。皆が知識を蓄積しないで発散・消費するのではもったいない。もう少し時間を厳しく意識したほうがよいと思います。
 奥井 1982年西武百貨店のコピー「おいしい生活」は、自分のいい人生を送っていますか、を問うていた。スーパーで働く人が、自分が売っている自社の製品でおいしい生活をしているのだろうかという視点がいるのではないか。供給側の立場だけで考えるものではない。また、仲間内でコミュニケーションが悪いのに、客とのコミュニケーションがうまくいっているというのなら金に頭を下げているだけで、それはたぶん顧客満足度ではない。日本的スーパー流・顧客満足度を追いかけてはどうでしょう。
 水野 食品は賞味期限切れで捨てるほうが多い。年間で食べる量より多く廃棄しているとなると、そのシステム自体が限界だと思う。地球が有限だというときに、日本だけが消費の無駄をずっと続けて来ている。
 いまの日本は日本の無駄なシステムを解決しながら、一人当たりGDPが3000ドルの国の人たちが1万ドルから15000ドルになっていく、豊かになっていくのを手助けする立場にある。国内の分配と同時に国境を越えた分配を考えなければいけない。やはり国家単位では限界が来ていて解決できなくなってきている。それを日本が考えていくことだ。
 現在は「近代日本の転倒性」といって、日本で起きたことが欧米で起きるようになっているが、いずれ中国やインドの転倒性といわれるようになって、これだけ早い高度成長に伴って爆発してくると、中国やインドで近代化の矛盾が噴出するだろう。その時日本がお手本を示すようにしておかないと、中国内の上げ潮派が3万ドルになったがもっと上を、とか、BRICsは6万ドルを目指す、とかになりかねない。日本の貢献は大きなチャンスとなります。


課題は日本の文化論

 奥井 私は日本文化に懐疑心を持っている。自慢できる文化とはパチンコ、カラオケ、いまアニメ。売れはしているが、それはサブ・サブ・サブカルチャーであり、尊敬される日本人、あの国のカルチャーが良いねと言われるのとは次元が違う気がする。イオンは国内で出店したのでは国内の零細企業はつぶれる一方だから、どんどん海外に出てほしい。外国と仲良くし、儲け、ゲインは日本に送ってもらうことを期待している。文化問題は大事です。
 木暮 私は田舎育ち、村育ちなので、農業はそれ自体がすごくいい、日本の文化だと思う。狩猟型でなく共同体型、欧米の契約社会型の文化でなく、村の生活が日本の文化のような気がします。
 金井 近代化の文明は欧米に追い付け追い越せでやってきたから、他国に自慢できる文化は何もないだろう。むしろ文化的に納得したいのは、外国に行くと、教会に行って正しい生活を送りましたと報告しないと生活の規範が守れないが、われわれの生活には宗教意識はそんなにないにもかかわらずお盆のように、生活様式の中に溶け込んでいる。その中で先祖に手を合わせている。生活の中に規範が溶け込んでいて、われわれの生活の中で具体的に表れている。
 イスラム教の人が新幹線でカメラをなくしたが、それが落し物として届けられていたと驚いていた。教会にも行かないでどうして倫理的なことが守れるのか理解できない、と。われわれは何か共通の理念のようなものがあれば、消費文明に毒されないで、もっと落ち着いたクオリティライフができるのではないかと思います。
 水野 日本が近代化で成功してくる過程の、私が小さいころはアメリカテレビの「名犬ラッシー」と「コンバット」に騙された。(笑い)アメリカの生活は素晴らしいものだ、アメリカの兵隊は強い、と思ってきた。近代化を終えたいま、日本に来るアジアの人たちが、ちびまる子の中国語放送を見て、日本にあこがれてきたと言う。大学の先生が直接、留学生から聞いた話だ。別の本でも、ハナワ君の家はお父さんがどこにいるかわからないが、まる子ちゃんちにはちゃぶ台をひっくり返すお父さんがいる、そのほうがアジアの人たちの共感を得るという。日本は気がつかなくても、アジアの中にジャパンクールは存在している。しかしそれはいずれ転倒性の壁にぶち当たる。
 課題は、脱近代化の文化を日本が持っているかどうか。それがあれば、ジャパンクールのトレンドは確固たるものになるのだろう。
 それを感じるのは村上春樹さんがイスラエルのエルサレム賞(文学賞)受賞式で、――どちらが正義かでなく弱いものに味方する――と、イスラエルのガザ攻撃を批判したが、相手側の大統領がいる前であれだけのことをよく言った。アメリカやヨーロッパの人にはああいう発想はないのだろうから、ちょっと希望が持てます。
 奥井 ゼロ成長下で実質賃金を上げる方法は、労働時間を短くすることで、それは同時に消費の時間が増える、勉強する時間が増えることでもある。
 明治時代の国語辞書「言海」には「おのれ」、「お前」、「世間」、「浮世」はあるが、「自我」とか「個性」の言葉は載っていない。「社会」もない。いま一般的に使っているこれらの言葉は戦後の言葉だ。
 英国留学をした夏目漱石は1914年、「現代日本の開化」という講演の中で、西洋の開花は内発的だが、日本のは外発、外のまねである。それは目に見えるモノに関してまねしたのであり、深い思考から湧いてきたものではないと指摘して、自分の個性・自我を大切にして生きよ。それは国民主義であり、世界主義につながるものであってほしい、と言っている。同じ年の「中身と形式」という講演では、日本人は中身を知ろうとしないで軽佻浮薄に、形式だけを知りたがる、としている。100年前の話とは思えない。
 日本人には宗教もないのに倫理道徳をどう教えるのか、という外国人の質問に答えて書かれた新渡戸「武士道」を、竹越与三郎は、それは義理人情である、儒教道徳も身内の小さな道徳にとどまっていると言っている。日本人がこれから海外に出ていくとき、尊敬される日本人とは何か、日本人論、日本人と文化の勉強が必要だ。
 フランスの思想家であり学者であるジャック・アタリは「5つの波」を提唱している。
 @米国一国支配が崩れた。しかしながら水、エネルギー、借金があるからアメリカは保護主義になる。
 A世界は多極化する。G20は失敗する。中国が言う「超主権準備通貨」はアメリカの財政赤字と関係するだろう。日本も、中央銀行が倒れないなどと思ったのでは大間違いだ。
 B超帝国、マーケットを前提として国を離脱する力が強くなる。それはたとえばエンターティメントや保険業などが、金融をバックにして飛び回る金融帝国、資本帝国の概念である。。
 C世界中が紛争になる。国連はノマッド=遊牧民の定住策を進めているが、アタリさんは世界を飛び回るハイクラスの超ノマッド(1%ぐらい)、下層ノマッド、一番多いのがバーチャルノマッド(テレビや新聞でわかった気になっている層)と3つに分けている。
 D超民主主義。宗教革命からルネッサンスなど、歴史は個人が集団化して革命をおこしてきた。その個人主義が行き詰まり、この先はパイの奪い合いになるのだから、利他、博愛、企業の非営利性の拡大、グローバル政府論が出てほしい。
 これらはアタリさん流の歴史解釈から出た希望とも予言ともいえる考え方だ。
 日本人の文化論も含めて、せっかくのゼロ成長でもあるので、先進国と途上国、貧困国の間のギャップがリセットされつつある関係が、今度の事態ではないかと読んでいます。


個の生き残りから種の保存へ

 奥井 最後に皆さんに一言ずつお願いします。
 新妻 私は、自分がこうありたい、これが自分が生きていることだと思えた瞬間、相手も共感し、相手のその思いも尊重する、互いに阻害しない関係が生まれるものだと思っている。その価値転換が広がりをもって、超民主主義時代の哲学になるのではないか。
 我々は労働組合だから職場、働く仲間のいまの課題を確かめながら、実践を積み重ねていく。学習と思索は大事なキーワードだと思います。
 木暮 アタリ氏はマイクロ・ファイナンスをしながら、貧困の人に事業のチャンスを与えている。日本的に言うと、日本の可能性は「和を持って貴し」「情けは人のためならず」、これをやっていれば、これからもやっていける気がします。
 金井 パラダイムが変わったので、行きつくところは自分しかない、独立自尊、誰も頼れない。国も個人も自分で考えよ、クリエイティブに生きろ、これに尽きる。
 日本は追い付け追い越せの呪縛を脱出できるか。それは仮に安全保障を独自でやる、と考えた途端、追い付け追い越せはテーマにもならないし、結局、世界戦略を考えなければならないし、国家と社会のビジョンを考えなければならないし、実現する方法を考えなければならない。結局国も個人も、いまとなっては、独立自尊で行くしかないのではないかと思う。
 水野 5つの波はまさにそうだと思う。
 最後の「超民主主義」について、一国単位では限界が来ている。EUには二つの議会があり、そのひとつは選挙で選ばれていない人たちが国の利害から離れて政策決定している。そんな実験をアジアでもしなければいけない、アジア共同体である。それをしないと、一国単位では解決できない問題がこれから出てくると思う。
 日本でも、水資源が足りなくなると利根川も多摩川も、東京都だけの水ではない、水の管理も県単位では対応できない。道州制ぐらいの大きさにすれば、それらは考えられるようになる。県単位、国単位の問題も、政治の単位がグローバル化に合わなくなっている。民主主義も、国境の中の単位だけで行う前提のものは合わなくなっていると思う。やはり価値観を変えなければならないでしょう。
 奥井 霊長類研究の今西錦司さんが「超個体=スーパーオイキア」と言っている。たとえば古代国家が誕生して以来、国家の基本はいままで、あまり変わっていない。しかし今回起こっている金融帝国は、従来の国家を超えている。
 超個体的個体である国家を超える、超個体的個体システムが金融帝国として出現するのならば、その運営の価値観は利他的か利己的かは大問題だ。地球資源は枯渇するのだからパイの奪い合いになり、世界はもっと危険な方向に進んでいくと言える。
 EUは経済ブロック圏としてだけでなく、カントのいう永久平和論に近付いている。ずっと戦争ばかりしてきた国々が、あそこまで通貨統合をした歴史はいままでない。すごい知恵だ。日本人はその知恵に及ばないことを知らなければならない。
 ルネッサンスや宗教改革をもう一度勉強してほしい。カトリックの枠のコントロールの中で知的葛藤を繰り返し、神と自分の関係を創りだしてきたのが、われわれがお世話になっている哲学や科学技術である。日本人は無神論の人が多いが、宗教を持っている世界の人たちは少なくとも日本人よりは、ものを考えることにタフだと思う。皆さんはこれから海外に出ていくだろうから、そんな人たちに出会う機会があるだろう。
 ゼロ成長は、いままでの関係をリセットして、自分の考える生き方をしようとするものである。
 オズワルド・シュペングラー「観念の歴史は絶えずその工程を歩んでいる。けれども精神の歴史は新たに始まる。」科学技術などは残るが、個体である人間は100年ぐらいで死んでいく。いまだにソクラテスやプラトン、マルクスを凌駕するものが出ないのは、個体のほうが伸びていないことである。しかし彼らの思想は残っている。
 今度の「利他」も、超個体的個体としては国家をベースに考えてきたことだが、人類のモノの考え方が「個の生き残り」より「種の保存」レベルに上がるかどうか。いまその岐路に佇んでいると思います。







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