人間とカラスの協働によるオブジェ
禁止の看板なんのその
警告無視は勲章
みるみる増えるめいわく駐輪
鳥葬▼禿鷹が部品を持ち去る
ふんがい
科学者の良心 勉強会に参加したKさんは現役時代、通信と放送の技術屋だった。科学技術は世の中を良くし、幸せの増幅に寄与すると思っていた。公害を出していた製品も、最初は世の中に貢献していたはずだ。しかし本当に、科学技術が世の中を幸せにするのか、最近疑問符が付いている…。
最近のテレビは省エネに悪い。昔のブラウン管が液晶になって節電になると思ったが、大型化とハイビジョン化のため、節電効果はほとんどない。流れる番組はくだらないし人間の可処分時間を減らすし、放送の技術は世の中をよくしているのだろうか。
通信もワルサする。金融危機に見るように、あっという間に地球規模で通信できるから、自分のお金を夜中にヨーロッパへ、アメリカへと動かすだけで、何もしないで儲かっちゃう。
「技術者はニュートラルであり、その使い方が悪いだけ」という意見は多い。しかし、核分裂から放射線廃棄物が出るのは必然である。細菌兵器や核兵器など根源的に悪いものを作ってしまう判断に、科学者・技術者自身がもっと責任を持つべきだろう、とKさん。
国の赤字国債残高は800兆円、これは将来への負の遺産である。CO2も将来に対する公害である。われわれがいま公害と呼んでいるものは、先人の負の遺産である。クリーンエネルギーとして原子力発電を進めようとしているが、刹那的にはCO2を減らせても放射性廃棄物が負の遺産となる。公害問題はもう少し時間軸を伸ばして、歴史的な視点で考えたいと、Kさんは考えている。
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2009年9月7日、民主党代表鳩山由紀夫氏は朝日新聞主催地球環境フォーラムで、温室効果ガス2020年25%削減(1990年比)を表明した。続いて9月22日国連気候変動ハイレベル会合において同内容を演説し世界の注目を集めた。
現代の公害はいわば人間生活そのものに付随して発生するのであって、エネルギーをふんだんに使う経済的繁栄自体が地球環境を破壊しつつある。目立つのは自動車排ガス、生活排水、産業廃棄物、ゴミなどである。世界的な拡がりでは酸性雨、温暖化、原生林破壊など、そのいずれもが見過ごせない大問題である。加害者と被害者、双方の当事者である私たちは、未来の命への責任を負っている。
11月21日土曜日、ライフビジョン学会の環境問題学習会「公害の歴史と環境の未来」は、ライフビジョン・奥井禮喜の問題提起に参加者の体験を交えて、この問題を考えた。
公害の認知 公害とは、私企業ならびに公企業の活動による地域住民のこうむる人為的災害で、この言葉はすでに明治10年代に「公益」の反対語として存在していた。足尾・別子・日立など銅山では亜硫酸ガス、鉱毒水被害などが発生していた。
大正期には、大阪市が大気汚染防止のために常時観測と規制をおこなっていたが、戦時体制へなだれ込む過程で中止された。敗戦後の対策では1950年東京都、1951年大阪府、1955年福岡県などの公害防止条例が先駆的である。
公害が広く認知されたのは1960〜1970年代からである。それまでは足尾銅山など被害が比較的局部に限定されたことから、多くの人たちの関心は、まだ向けられていなかった。
1960年代は@大気汚染(スモッグ→亜硫酸ガス)A重金属汚染(水銀・カドミウム・砒素)B化学物質汚染(PCB・DDT)などで、わが国は世界一の公害先進国であった。被害は人間の健康、地盤沈下、騒音、振動など多岐にわたっていた。
日本は敗戦後、石油化学や重工業など基幹産業を急速に発展させ、経済を高度成長させた。しかし巨大な設備投資の反面、公害防止対策は法制化が遅れ、企業による公害防止投資は1960年代後半で設備投資の2〜3%、1970年でも5.3%程度であった。
公害が騒がれ始めたころ、六価クロム等を作る工場では鼻の中に穴のあく鼻中隔穿孔という病気が起きていた。しかし、それが労働災害であり、改善されるべき問題だとは考えていなかった。
工場を誘致した地方の小都市では人口が増え、道路が広がりビルや住宅がどんどん建ち、山や川、海岸線は「開発」されて人工的な景色が増えた。当時の工場排水は川や海に流し、地下に吸い込ませ、水も土も空気までも、有害物質に汚染されていった。ある会社では、廃液はドラム缶に集めて野積み保管していたのだが、新工場を建てる時などみんなほっとしたという。工場用地にドラム缶を埋め立て処理できる。しかしドラム缶は土中で腐る、汚染は地中にばらまかれていつまでも残る。
東京では、築地の移設予定地が土壌汚染で問題になっている。都知事は土壌を入れ替えるとも言う。土壌の入れ替えは大きなビジネスである。かつて廃液処理は、処理技術がなかったのではなく金がかかるからやらなかった。それが日本の高度成長の裏面であった。
権力によるごまかしの歴史 1891年足尾銅山鉱毒被害では、農民の請願書を農商務大臣は取り上げず、銅山を経営する古河鉱山は補償一時金で握りつぶしを計った。国会議員を辞職して田中正造が天皇直訴したが、当局は田中を発狂者として処理した。資本家・政治家が結託して住民に傲慢暴圧し、古河市兵衛が巨万の富を築いた。谷中村滅亡史(荒畑寒村)は一度目を通したい秀逸な記録である。
企業城下町の事情もある。1961年八幡製鉄の煤塵降下は月平均64tもあったが、福岡県経営者協会は福岡県公害防止条例(1955)に対して反対声明を出し、これを擁護した。九州大学が大気汚染観測を開始すると、何者かによって、全観測機が一夜にして破壊された。協力要請に出向いた県職員に対して八幡幹部は、「製鉄所の煙が嫌な不心得者なら出て行ってもらいたい」と言い放った。
四大公害とは、@水俣病、A新潟水俣病(第二水俣病)、B富山県神通川流域のイタイイタイ病、C四日市公害、を指す。
水俣病は1953年、奇病が発生して熊本県水産課が工場廃水停止を決めたころから始まる。新日本窒素と日本化学工業会は政府に圧力をかけ、熊本県の介入を差止めた。
水俣の公害は有機水銀(水銀の毒性が生体に残る)を原因とする。水俣病は口の周りや手足のしびれが始まり、激しい痙攣や神経症状、胎児に影響したり死にいたることもある。昔のソーダ工場は水銀電解で苛性ソーダを作っていた。それは無機水銀(生体に残る度合いが低い)なのだが風評が立ち、漁民たちが、お前の会社も海に水銀を出しているだろうと、大量の魚を工場の前に投げ出して抗議したこともある。当時は無機水銀が有機化するという理論で、魚が売れなくなってしまい、その補償のために大手の化学工場はこぞって魚を買い上げていた。おかげで海では魚が入れ食いだったが、誰も釣らなくなっていた。
熊本大学は1958年、水俣病が有機水銀中毒であると断定して公表、1959年に厚生省食品衛生調査会がこれを認めると、厚生大臣は同調査会水俣部会を解散させてしまう。1960年新日本窒素は東京工業大学・清浦雷作教授のアミン説(たんぱく質腐敗により生ずるアミン中毒とする)を全国にばら撒いた。1962年熊大研究班がアセトアルデヒド排水から有機水銀排出を確認、翌年公表して新日本窒素の過失責任が学界で確定したにもかかわらず、政府と新日本窒素は有機水銀説を認めず、アセトアルデヒドの増産を継続した。政府が新日本窒素の公害責任を認めたのは1968年、不採算となったアセトアルデヒド製造中止後であった。
第二水俣病は1964年阿賀野川流域に発生した。1965年新潟大学医学部が水俣病発生を発表、1966年工場排水中の有機水銀と断定し、1967年厚生省食品調査会は昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド廃液が汚染の「基盤」と発表したが、昭和電工はこの発表に従わなかった。会社は横浜国大・北川徹三教授の農薬説(新潟地震で信濃川流域の倉庫が倒壊し農薬流出、日本海へ出て北上し阿賀野川へ流れたという説)で工場廃液説を否定したが、1971年の判決で原告全面勝訴となる。
イタイイタイ病は富山県神通川流域で発生したカドミウム中毒で、全身を激痛が走る。三井金属神岡鉱山の銅・亜鉛の採掘で放流された鉱滓による汚染であった。富山県神通川流域の医師・萩野茂次郎が原因は鉱毒とにらみ、1957年息子の萩野昇が富山県医学会で、原因は重金属鉱毒と発表すると、県は萩野医師への圧力をかける。1963年厚生省・文部省イタイイタイ病研究班はカドミウムのみが原因ではないと、「カドミウム+アルファー」説で栄養摂取が原因とする。1968年に患者が三井金属を提訴して、1972年に原告勝訴が確定した。
公害の研究者・宇井純は、明治時代の公害以来、大学の先生が市民側に立ったのはたった1件、足尾銅山の時の東大農学博士・古在由直が農民の立場に立った以外ない。第三者というのは加害者側に立つ。また、公害の起承転結は、因果関係を調査し、原因が判明するとその真偽をめぐって議論が起き、やがてうやむやになり、中和してしまうと指摘している。
四日市公害は戦後の重化学工業発展の産物であった。1955年から石油コンビナート建設が軌道に乗ると、沖合いで臭い魚が取れ始め、1959年には年間1億円近い損害が発生。1960年に三重県が対策推進本部設立し、石油関連の汚染と判明しても企業は対策を講じなかった。1960年にコンビナート隣接塩浜地区でゼンソク患者が増加、1961年三重県職員労組が四日市公害を報告。大学や厚生省、通産省などの調査で、工場の燃焼炉が大気汚染の原因と認定した。政府は煤塵基準を作成したが、その内容は企業に影響力を発揮できるものではなかった。1967年に原告9名がコンビナート6社を提訴し四日市裁判が開始、1972年原告が勝訴した。判決理由では亜硫酸ガス等汚染物排出について、国と自治体の地域開発責任を厳しく追及、ルーズな環境基準を批判した。
市民の学習なくして解決なし 環境汚染に対する人々の問題意識も低かった。山陰のパルプ工場がチップをそのまま海に流していた。中部の山あいの製紙会社が泡だらけの排水を川に流して汚い、臭かった。田子の浦は製紙会社がたくさんあり、ヘドロが処理できない量になっていた。それらの景色を見ても何も思わなかった。無知無関心と、これでご飯を食べていた事情からである。
島根県の江の川ではすでに昭和30年ごろ、川ガニがとれなくなっていた。原因は川の水の生活排水といわれていた。洗剤のリンが注目されたのは琵琶湖が最初である。自然分解されないプラスチックゴミも問題にされるようになった。生産者も消費者も、新しい消費材を歓迎したが捨てる時のことは考えていなかった。
仕事で長く中国に行っていたMさんは、10数年前までは昔の日本の風景をほうふつさせたが、ものが豊富になってきて、かつての日本と同じ道をたどっているという。
途上国では今でも、衛生面で問題を抱えている。上下水道が未整備で、人間のし尿が病原になる。井戸を掘る日本のボランティア活動もあるが、人口が増加すれば、自然浄化作用に期待できなくなる。
日本人には昔から、四周を海に囲まれて川の水が豊富なので、汚いものは水に流せばきれいになると思っていた。ヨーロッパでは川の水から各国を巡り、河口まで流れるのに3-4カ月かかるので、川にゴミを流すのは厳禁なのだという。日本で一番長い川でも、水源から海まで10日で流れ切るそうだ、というのはKさん。河川や山林へのゴミの不法投棄、ペットの糞尿放置はいまでも迷惑行為の上位に入る。目の前からなくなればそれできれいになったという発想は、現代日本でも健在なのである。しかし…。
先進的な活動もあった。1961年三島・沼津の市民運動は、学習活動によって環境を守った。
静岡県は三島・沼津・清水に石油コンビナートを誘致し、工場整備特別地域指定を行った。市民たちは景観・農業漁業の危機として立ち上がる。1964年5月、市民文化運動の伝統をもつ三島市民の運動が盛り上がり、石油コンビナート進出阻止三島市民大会で市長が誘致反対宣言を行う。沼津集会では「いのちを守る・生活を守る・愛鷹の緑を守る・駿河湾の青さを守る・世界一の柿田川の水を守る・霊峰富士をのぞむ澄みきった空を守る」と謳った。1964年9月16日、沼津市長が計画撤回表明、1964年9月24日、静岡県知事が建設不可能を表明した。
この運動の特徴は、農漁民・労働者・中小企業者・医師・自由業、町内会・自治会・婦人会・青年会・農協・漁協・加工業者組合・医師会・薬剤師会などを中心とし、工業高校の先生たちもバックアップした。学習会につぐ学習会も見事だった。数人から2,000人の学習会が毎晩どこかで、数百回も開催された。通産・黒川調査団による環境アセスメントで「公害のおそれまったくなし」と発表するが、松村調査団(国立遺伝学研究所松村清二博士ら)の独自調査による指摘に応答できず、市民運動は高揚した。
沼津の市民運動は陳情型ではなく市民運動、自治体運動であったこと、開発計画撤回にとどまらず共同体の文化にまで高めたことは、特筆に値する。現代人にこそ、学習活動が必要なのではなかろうか。
エゴ、隠ぺいと企業人 サラリーマンは、仕事で企業エゴや非社会的な行為にかかわってしまう。水俣を検証するTV番組などでは、よくないとわかっていながら企業人として言えなかったとか、正直にしゃべった医者がクビになったりしている。
ヒ素ミルク事件は、鮮度保持や腐敗防止のために添加された重合リン酸塩が、食品規格ほどに精製されない原料であった。Mモーターのリコール隠し、M自動車のタイヤ脱落事故、Fサッシの耐熱強度問題など、社内でそれらの仕事にかかわっている多くの人たちが、知らなかったとは思いにくい。組織の悪しき官僚化が進んでいる。
普通のサラリーマンが、作っていた商品がどうもおかしいとわかった時、どのように行動するか。組織の利益や個人の保身、自分が言わなくてもというような考え方から、不正の擁護に回ることはないだろうか。言わなければいけないのにだれも言わない、上が言わないのに下の者が言うことはない、というコミュニケーション状態ではないだろうか。最近の企業は株主の評価や内部告発を気にして、コンプライアンス重視を掲げているが、組織の中でちゃんとものが言える人間を作らなければ、同じ過ちを繰り返すことになる。
ところで内部告発をする人はなぜ、組合に職場の問題を持ち込まないのだろう。組合は信用できないのか、人事部にも言えないのか。組織内批判勢力である労働組合は、70年代より企業べったりになっているように見える。内部告発の発生は、組織内の自浄作用が機能していないことを示している。気が付いたら告発で社会的指弾を浴びるという構造にあるとしたら、これは組織の問題である。
環境の未来のための視点 公害の歴史的教訓は、一つには社会的認知は容易に進まないということである。基地問題に見るように、被害を受けている人には深刻だが、多くの人は自分のこととして考えようとしない。
行政は問題解決に迅速に動かない。権力と非権力の関係や、多くの国民による経済優先の価値観など、私たちの民度が問われているのが環境問題である。
経済活動とは、物質エネルギーを廃棄物化することである。日本人の食生活は「石油の缶詰」だと、60年代から言われている。兵器生産もエネルギーの無駄の典型で、使わなければ陳腐化して使えなくなるし、使えば人や物を破壊する。
結局人口こそが環境破壊の核心であろう。国連の試算によると地球人口はもうじき92億人になる。米国人並みの食生活をするとしたら、人口は28億が上限という試算もある。また、15年ぐらい後には人口の1/3が水不足になるという。かくして、地球全体を考えると、日本の少子化は歓迎要因なのである。
政府の排出ガス25%削減を、外交上不利益だという意見がある。しかし国家の利害を超えた全地球的課題である環境について、「昔ながらの外交」論で制約をかけてよいのだろうか。
これからは人間中心から生命中心へ、すべての命の共存・すみわけが必要である。経済の世界はこれまで優勝劣敗、弱肉強食が支配しているが、環境の時代には共存・すみわけ論が必要だ。
国連は2005年から「持続可能な開発のための教育」に取り組み、そのひとつに環境教育を取り上げている。グローバルとは金儲けのことだけではない。グローバルな地球に生きるとはどういうことかを考えるために、学習活動が必要だ。環境について私たちは、あまりにも見ず・知らず・考えず、学習をしていない。
ライフビジョン学会ではこれからも、環境の学習会を続けます。(文責編集部)
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