2010/08
勤め人生活審議会・報告ライフビジョン学会


 

ライフビジョン学会
  2010フォーラム
     
勤め人生活審議会


 日時 2010年6月5日(土)
        13:00−17:00
 会場 国立オリンピック記念
        青少年総合センター
  主催 ライフビジョン学会
  コーディネータ 奥井禮喜














































【似非】
 平安時代には実態の浅薄・劣悪なのを侮りそしる気持ちを表す語。似てはいるが本物でないこと。まやかし。(広辞苑)

【リアル】
 実際に存在するさま。現実的、実在的。(広辞苑)

























































【communication】熱、動力、思想の伝達、感染、情報、交通(三省堂DAILY CONCISE)





















































































































































ライフビジョン学会2010フォーラム     
勤め人生活審議会 報告2/2
 平成20年の労働相談件数(厚生労働省労働局)は1,142,600件、そのうち労働基準法関係が四分の三、残りが解雇などの相談という。一体、働く人の暮らしと仕事はどうなっているのか。
 2010年6月5日、勤め人の皆さまが身近で起きている具体的な現象を持ち寄り、突き合わせて、問題の全体像を洗い出すことにした。題して「勤め人生活審議会」。まずは話の「呼び水」として、8名の「審議員」が身近な話題を提供した。(本誌7/1号「産業社会の似非を撃て」ご参照)
 これを受けて後段は、テーマを二つに絞ってグループミーティングを行った。
 テーマ1 勤め人生活における似非について。―― 企業社会における「似非」とは何か。なぜそうなったのだろうか。
 テーマ2 コミュニケーションが悪いのはなぜか。―― メールがあるから人間関係が悪くなったのではなく、人間関係が悪いからメールで済ますのではないか。本当の原因は何だろうか。

 今は、昔は、人事は、上司は…。当日の「審議員」総勢40名がグループに分かれて話し合った結果を以下に紹介したい。


勤め人生活における「似非」は何か
 「審議員」たちは、企業社会の中にある様々な「似非」を発掘した。
 ○ アリバイづくりのような「人事評価」。名前だけの成果主義制度や、残業の多さを成果として評価すること、など。
 ○ 「職責」でいえば、役職より下の仕事をしている管理職、エリートらしい仕事をしなくなっているエリート、そして文字通り、名ばかり管理職。
 ○ 形ばかりの「決済印」。気の乗らない決済は横向きに押印する。それでも形式を優先する。
 ○ 形式で縛るだけの「コンプライアンス」、実効のない「ワークライフバランス」、「フレックスタイム」者の9割が恒常的に残業、労働時間も裏ではずるずる。
 ○ 会社の「社会貢献」はせいぜい公園の掃除や寄付。景気の良い時だけのフィランソロピーも。
 ○ 「お客様第一」は営業戦略レベルの用語。顧客満足は提供する側の自己満足。
 ○ 「勤め人の偽物」もいる。自分のやっている仕事で社会での優位性や存在感が得られれば本物となろうが、仕事にも生活にも自前の目標がなく、ただ「いま」をごまかしている。
 ○ 「人間もどき」は相手との共感性や、相手のことを想像、理解する力を失っている。
 これらのうちいくつかは、その時々の流行によって定義のあいまいなまま
職場に取り込まれた。
 定義があいまいだから運用もまちまちになる。「成果主義なんて単に、給料が下がることがあるョというにすぎない制度変更」なのに、中間管理職は「成果を評価」することにずいぶん悩まされている、部下はシラケている、職場のチームワークも後退した。


なぜ「似非」がはびこったのか
 みんな何かから逃げているようだ。本来すべきことの核心に迫らないで、手近なところに“ツケ回し”してしのいでいる。その結果は、自分たちに返ってくる。
 たとえば価格競争。現場はこのサービスにはこれくらいというコストの根拠があるにもかかわらず、他社との競争で先に値段が決められる。値段は下げるわサービスは上げるわ、客は喜ぶかもしれないが、巡り巡って商品の供給源に圧力がかかる、支払うべき人件費を削るなど、働く人の犠牲が生まれる。最後にはILOが警告する「児童労働」のような、どこでどのように作られたかわからないようなものまで売ることになる。
 しかしこれは、個別企業の営業戦略会議では「負け組の言い訳」といわれるだろう。つらい話ではあるが、競争や営業戦略上の都合からそれを言うことができない。
 ところで「似非」の反対語は「リアル」。偽物とはリアリティの欠如。リアリティがないのは自己認識能力が低いから。
 職場に似非がはびこるのは、そこで働く人たちの自己認識能力が低いからである。各人が自立していないので、外からの圧力に抗せないまま不安、動揺、落胆から逃げ回って疲れている。
 それは「いかに生きるか」という本来の苦悩ではなく、表面ヅラだけ合わせて泳いでいるが故の苦しみである。自分が真にそう思ったからではなく、上からの方針に過剰適応しないと認められないからやむなく、というものである。
 こうして自分の行動が自分の気持ちからどんどん離れ、やがて実感=リアルがないまま浮遊してしまう。「組織のカナリヤ」たちはこれらの似非にいち早く気がつく。職場でメンタルに変調をきたす人は、むしろ健全なのかもしれない。
 産業の高度分業化は今のところ、人間としての基本的な力を弱める方向に機能している。それに対抗するには、人間としての基本的な力が必要だ。それは大学などで教えられるようなものではない、人間としてのあるべき姿、本当の人間教育ではなかろうか。 


現場のコミュニケーションの現状は
 コミュニケーションの現状はどんな様子なのか。
 「他人への思いやりが足りない」「仕事は丸投げするのにその後のチェックがない」「ITが仕事を細分化した」「配置換えも人間関係を切り離す」。そして昔と比べるとまず、職場での挨拶が減っている。
 「相談しても応えがない」「フォローがない」「自分一人で解決しようとする」。この繰り返しからコミュニケーションが少なくなる。
 「社内にタバコの空間もない」「職場では仕事の話しかできない」「忙しすぎて、会社は人を育てる時間も短くなっている」。今はトイレやタバコの時間まで管理される。元気を再生する時間も空間も無くなって、職場は消耗するためだけの場所になったのか?
 これらの対策として次のような意見も出された。
 オフの空間、オフタイムの付き合いを作ればよいのでは。朝礼夕礼、喫煙タイム、社内サークルやスポーツ、職場旅行、飲みュニケーション。仕事以外の互いの姿を知ることが、コミュニケーション復活の方法だ、と。皆さんの発言はコミュニケーション復活のために思いやり、優しさ、親身、人格者などと「情のやり取り」を期待しているようである。
 コミュニケーションが意味のやり取り、形には見えない意志の疎通、連絡だとしたら、「合理性が優先される」「情報伝達に優れている」と評されるITが、コミュニケーションの阻害要因とされるのは「濡れ衣」である。「メールは単なる伝言機械で、コミュニケーションツールなどではない。」「メールでは相手の機嫌はわからない。」メールにいくらハートマークをつけても、親和性は高まらない。


ケンカというコミュニケーション法
 「評価が気になり上司とケンカができない」「ケンカの後の握手ができない」「結束して戦えない」。社内では上司との喧嘩は評価に響くということになっている。しかし、本当か。
 製造現場のコミュニケーションは結構荒っぽい。バカヤロウの罵声もアレはああいうヤツだ、で済む。激しくぶつかり合うが、本質的には良い関係がある。
 ケンカは高度なコミュニケーションだから仲良しになるという体験談も出た。「私は入社2年目に上司と2時間の論争をした。本気でぶつかっていくところを相手も評価してくれた」「大声で上司とやりあって、出てけと怒鳴りあう。殴り合い寸前という雰囲気も少なくなかった」。以前の職場には珍しくない風景だ。それでも結構、仲が良かった。
 「利己的な者同士のケンカは、互いのことを考えないので物別れになる」「終わっても握手ができないようなケンカはだめだ」。仕事でのケンカは大いに結構、もっと上手にぶつかりあおう。

組織づくりの視点から――――――――――r
 ここまで出されたたくさんの証言や意見について、それぞれの分野に詳しい皆さんからコメントをいただいた。――――――r

評価は部下へのメッセージ
 人事労務の仕事に40年間携わってきた金井弘之さんは、人事管理の現状について次のように指摘した。
 なんで現場で戦わないのか疑問ですね。上司の人柄や労基法違反まがいの労働条件問題、それって職場で解決できるのではないのか。やはり黙っていないで戦わないといけない。元気がいいから戦うのでなく、戦ううちに元気になってくる。本気でケンカしなければ本当のコミュニケーションはできないのではないでしょうか。
 人事評価は上司から部下へのメッセージです。私はあなたをAにしますと言うのがメッセージです。しかし自己評価Aの人がCをつけられるとすごく落胆する。日本人は評価を気にしすぎるので、それを考慮してつける必要があるし、つけた以上、上司はCをつけた部下をBに引き上げる責任がある。もし引き上げられないとしたら、上司はその指導能力を問われるのが、われわれの人事評価のやり方でした。評価はただ「客観的につける」だけのものではありません。
 もう1つ。最近、上ばかり見ている上司=ナルシスティックな傾向の強い上司が増えている。ナルシストは自分への評価に執心するから常に、評価してくれる一番偉い人が何を欲しているかばかりを見ている。それこそ、命を懸けて権力者の意向と懸念を感じ取り、それに応えようとする。だからその人は、上司からは大変優秀な、仕事のできる部下に見えます。
 しかしナルシストの本質は、自己認識能力の低さと自己意識の肥大化と他人に対する共感性の欠如です。だからどんなに部下が尽くしても 部下をモノみたいに使い、部下が私のために働くのは当たり前だと考える。気に入らなければ人前で平気で怒鳴り、面罵する。また、部下の成功は自分のものだから全部とる。 
 ナルシストは、若いころはよく仕事ができるしよく目立つ。TOPの目に留まりやすい。確かに、1人で仕事をする若いうちは優秀であるが、デキるヤツだと引き上げられて人を使う立場になると、自分が特別な人間だと思っているから、部下との間で必ず問題を発生させる。TOPが任用を間違えて大きな組織の長に就けると、その組織はたちまち生産性が落ちてしまう。よくもって3年であり、基本的にはその組織を潰してしまう。従ってナルシスティックな傾向の強い「優秀」な人材の登用は、人事上の大問題なのです。
 経営者に人を見る目がない場合、人事の長が堕落していて、TOPの意向に逆らえない場合にはこの種の人物が重用されて、長く会社を悩ますことになる。内紛を抱えている会社の中をよく見ると、類似の人物が見え隠れするように思われます。
 いずれにせよ人事の自戒が必要です。

内発に基づく行動様式を
 大手流通労組で活動歴の長い新妻健治さん。
 僕らはそれ(ナルシスト上司)を「虚構の人」と呼んでいます。(笑い)
 飯を食って生きる、それが動物としての本質ですが、最近は自らの命を断とうとしたり相手を傷つけようとする人間がいます。この問題は根源から考えないと解決できないと思います。
 資本主義の成功要因は、人間の営みをバラバラにして市場に組み込んだことだとしたら、経済成長至上主義を修正しなければならないでしょう。資本主義はやめられないが、局面を変えなければならない。これまでは地位や名誉など、外発的な「似非」で動機づけて資本主義を成長させてきたが、人間は、自分が人から必要とされたいとする存在欲求や、内実を豊かにする自己実現を求めるものだとしたら、外発的動機づけから内発・内実に基づく行動様式に価値転換することです。
 自分の気持ちに聞いたとき、「本当はそうじゃないよね」という、気持ちを大事にすることから端を発し、リアリティを感じられるものを追求しなければならない。労働運動はそこから捉えなおすことです。いろいろな人といろいろな話をすることから、自分の考えが深まるので、話をすることはとても大事だと思います。

当事者になる人を増やせ
 産業別労働組合で活躍する木暮弘さん。
 勤め人のゴールはどこにあるのか、成功モデルは何か。いろいろあるはずなのに、これまでは一つの成功モデルにとらわれすぎたために、評価を非常に気にするようになりました。自分が何をしたいのか、どうしたいのか、若いころから自分なりの尺度を持ち、主張し、行動することが大事です。しかしいまの自分は、自分の意志の積み重ねのはずなのに、いつの間にか目標を失っている、会社の中で受け身になっている。
 その一つの現象が、自分のことなのに他人事のような表現や、お任せ主義です。選挙で投票してやったから何かしてヨ、金を払ったから何とかしてヨと、みんな「誰かがやってくれる」と思っています。
 ところでナルシストが豊かさゆえの不幸だとしたら、組合はいまのままの「労働条件維持向上」を続けていると、ナルシストがどんどん増えてしまうことになる。組合運動も豊かさの中身の見直しとダウンサイジングが必要かもしれません。
 当事者になる人をどれだけ作ることができるか。いま起きているすべての事象に「私」が関係している、と思うことができる人が増えれば、コミュニケーション状況も変わると思います。


自立人間のすすめ コーディネータ奥井禮喜  
 会社は分業や専門性を高めてもっと力を出してもらおうという組織でもありますが、本日の話からは皆が協力しようとか、一緒になってやろうという気風が聞こえませんでしたね。また出された問題はかかわっている人が現場で解決できる話も多いのに、自分で解決する力は、最近はどうなっているのでしょう。
 新しい言葉の登場には、その一つひとつを「本当か?」と確かめなければならない。皆さんがミーティングで発掘した「似非」の中には、その検証もないままに広まった、あるいは途中で意味が抜け落ちてしまったものが多い。
 そのひとつである成果主義は壮大なインチキでした。成果主義は従来からして革命的な路線変更なのだから、その意味と影響について十分に議論すべきであった。しかし制度導入に際して職場で本気の議論がされたとは、あまり聞かない。私が1960年代に体験した「賃金身分制度の近代化」はまさに画期的なものだったが、3年間の職場討議を続けました。
 明治維新で日本は外国からいろいろ採用したが、目に見えるものはともかく「上部構造」、つまりものの考え方、思想や哲学は不十分だった。明治の辞書「言海」には「自我」「個性」の言葉はない。これらは戦後になって広まった言葉で、もともと日本人にはなじみが薄い。自分のことが分かっていない、自己認識の低い者同士のコミュニケーションがうまくいかない淵源は、ここにもありそうです。
 日本の人事管理は、明治以降もなかなか成長しなかった。戦争中の職場に軍部が入ったこともあって、敗戦後はマイナスからの出発であった。いま人事管理が日本人の身につかないのは、日本人の民主主義思想=上部構造が借りものであることとも無関係ではない。輸入品の人事管理制度は民主主義のもとに作られた制度で、個人の自立や自我、個性や自己の確立が前提にある。しかし残念ながらこのいずれも、日本人は未発達です。
 それを高度成長時代までは、企業一家主義的な人事管理で補ってきたが、90年代から終身雇用・年功序列が全面否定された。成果主義導入、労働法の規制緩和と続いたが、「自立」度が弱い日本人には適応できないまま、職場からは本日のような問題指摘が上がっていると考えられます。 
 それは本日の課題である、「コミュニケーションがよくない」への対策案からも類推できる。コミュニケーションとはAとBが互いに主張しあい、相互が納得できるCという答えを導き出す「論理のやり取り」だが、日本人は「人間関係でうまくやること」という「情の交換」と理解する人が多いから、職場旅行、飲みュニケーションなどが解決策、と短絡しやすい。
 ライフビジョン学会は2003年に「今職場で何が起こっているのか」という連続勉強会を展開しました。あの時より今はもっと、元気がなくなっている。景気の問題でなく、組織作りが下手なのだと思います。
 組織を経営する要素であるパフォーマンス機能とメンテナンス機能のうち、「成果主義」は個人の自立を前提とするパフォーマンス機能追求の制度です。ところがメンテナンス機能のほうは無視してしまったから職場が忘れられた。これが今の混乱の原因といえるのではないでしょうか。
 発言の中に「人事の仕事が、人材育成から制度設計にシフトした」とありました。制度を作れば職場が動くと思う「制度主義」が強まっているが、人は制度では動かない。運用こそが本尊である。
 以前の人事部は「自己実現を目指そう」とか、「ライフワークを考えよう」と、個人の自立を説いたものだった。会社の仕事は、多くの人にはライフワークではない。ライフワークとはその人の生き方と直結していなければならない。これからの「勤め人生活」は、上部構造の学習抜きには改善できないでしょう。
 組織作りには「some thing」が必要です。次の勉強会はもう少しステップアップして、哲学を取り上げてみたいと思います。







On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |