活動報告をする三浦清氏
シンポジウム
人智を集めて未来を拓こう
■日時
2011年6月25日13:00-17:00
■プログラム
@講演
東日本復興のために何をすべきか
衆議院農林水産委員会委員長
山田正彦 氏
A活動報告
混沌から復旧、その過程で起きていること 連合岩手副事務局長 三浦 清 氏
BTalk & Talk
参加者による話し合い
コーデイネータ 奥井禮喜
■カンパ金
当日の参加費268,500円は全額、岩手県内で複数のボランティア受け入れベースキャンプを運営する連合岩手にカンパさせていただきました。
カンパ報告記事はこちらでどうぞ。
宮古ペースキャンプはJR蟇目駅のすぐそば
運休が多いままの山田線(7/8)
宮古湾の津波に洗われたアパート
田老の魚市場の鉄骨も津波のひと撫でこの姿
宮古市鍬ケ崎小学校から宮古湾を臨む。
広報みやこ139平成23年6月1日号
(写真特集 津波)より
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2011.7.4現在の同地区
連合ボランティアはこの週、鍬ケ崎地区の側溝泥だし作業に注力していた。
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2011年3月11日に発生した東日本大震災に対して連合(日本労働組合総連合・古賀伸明会長 組合員680万人)は、組織を挙げて取り組みを展開した。岩手・宮城・福島に支援拠点を設置し、地元自治体等と連携しながら震災救援ボランティアを組織して、8月19日現在の派遣者総数は5,156名、延べ人数は30,832名を被災地に送り込んだ。
ボランティアは連合の構成組織の組合員、役職員、地方連合会・連合本部の役職員で編成し、被災地の3県に確保したベースキャンプを拠点に一週間交替で活動を行う。
2011年6月25日、ライフビジョン学会のシンポジウム「人智を集めて未来を拓こう」ではこの顛末について、現地でボランティア受け入れの任にあたった連合岩手副事務局長、三浦清氏に報告いただいた。
なお、このシンポジウムの参加費全額は、連合岩手の救援活動にカンパさせていただいた。
行きたい人の熱意の受け皿、ボランティア・ライン このシンポジウムの参加費全額を、被災者支援にカンパいただいたことに、心から感謝いたします。
連合の震災救援ボランティアは6月13日現在、合計3,000名、延べ人数で19,000人超の組合員に参加していただいた。私の担当する岩手県宮古市のベースキャンプには6月25日現在で8,000名を超えている。
この会場にもボランティア参加いただいた方が多数いる。ありがとうございました。参加者名簿を見ると最高67歳の方もいたが、作業の軽減配慮などは一切なく、若い人と一緒に活動していただいた。
ボランティアに行きたい人はいっぱいいる。しかし思っても行けるものではない。仕事があるし、方法がわからない。
連合は3月の段階で、組合員ならばだれでも参加できるボランティア・ラインを構築した。東京から10時間、大型バスでボランティアを輸送し、現地には寝泊りの場所、風呂、食事を用意して、災害復旧活動に大量のボランティアを継続的に送り込む。
連合の組合員は手を挙げればボランティアに参加できる。そのラインをいち早く作ったことが被災地の皆さんの元気づけと、現地復旧のお役に立ったと思う。いま、働く仲間の助け合いの精神と組織活動のすばらしさに、満腔の敬意を表したい。
悲惨な情景を目の当たりにした人々 3月11日金曜日、M9.0の巨大地震が発生した。最大震度は宮城県栗原市の7強。私がいた盛岡で震度5強を数分間、それはかなり長い時間に感じられた。
その後も断続的に強い余震が続き、20分後にビルの外に出たときの盛岡市内は信号は止まり、車は大渋滞、パトカーも消防車も右往左往していた。本当にドラマの映像を実体験しているようだった。
それまで津波のことは頭になかったが、外に出て携帯のワンセグから飛び込んできたのは、真黒い大きな津波が船、車、すべて飲み込んで、宮古市役所の前の堤防を乗り越えて町に押し寄せてくる映像だった。最初はそれが本当に、同時に起きている映像なのかと思ったが、宮古市役所の裏には連合宮古地域協議会(地協)の事務所がある。そこには同僚の役員職員、2-3階には別の組織の職員がいた。当然のことながら、携帯電話もメールも返事がない。安否確認できないことが心に重くのしかかった。しかしそのころ、沿岸地域では大変な惨状が繰り広げられていた。
東日本大震災の大きな特徴は、沿岸部はすべて津波被害であったことだ。地震による倒壊被害は、仙台に近い一部の地域だけであった。
現地で津波にあった方々の悲惨な話を直接、何人もから聞いた。多くの方が海の逆側に車で逃げる、渋滞になる、反対車線を逆走する車、歩道に乗り入れて走って逃げる人たちを撥ねながら走る車もあったという。電信柱と電力柱の間によじ登りてっぺんにいて助かった人、ガソリンスタンドの最頂部に登って助かった人もいる。
津波はただの水ではない。海から大きな波が、海底のヘドロを掻き出して内陸に運ぶ。それは途中の土砂やヘドロ、壊れた建造物の塊だから、飲まれるとほとんど、顔が半分なくなったり、腕の肉がこそげたり。泥水を飲んだ人はすぐに吐かないと肺の中に菌が入って、助かっても悲惨な状況になる。
子供たちは一旦校庭に避難したが、大きな波が堤防を越えるのを見てさらに高台に避難した。しかし町から避難して来た人たちは避難所に指定されている学校に留まって、渦に巻かれて飲み込まれた。子供たちはそれを見ていた。
宮古や大船渡で実際に津波にあった方々の話は、内陸にいた者には計り知れない、本当に悲惨なものであった。
津波でライフラインが寸断され、内陸からの道路も通行止めになっていた。連合岩手は3月15日、物資の運搬も含めて緊急車両の許可を得て、初めて現地に入った。宮古地協にいた役職員との再会は「おぉ生きていたのか」。生きていたか死んだのかの言葉しかなかった。安否確認という言葉が軽く、恥ずかしく思うほどのものであった。
混沌の中のベースキャンプ探し 連合本部から連合岩手に、ボランティア受け入れ要請がきた。3月末から当面6月末までの3カ月、最大6カ月を想定して全国の組合員によるボランティアのベースキャンプ設置をというものである。
3月20日から受け入れ体制作りに動き出した。副事務局長の私は、ボランティアたちが寝泊まりする場所と食事と風呂、この三点セットの手ごたえをつかむまで帰ってくるなと言い渡されて、宮古市に向かった。
最初は宮古市内に近いところにある学校、公民館、体育館などの施設をあたったが、被災地に近いところはすべて避難所と遺体安置所になっていた。探す範囲を広げてやがて、中心部から15分の蟇目地区の道路沿いに、旧新里村のコミュニティセンターを見つけた。近くで畑仕事をする人に聞いたところ、鍵を持っているからと中を見せてくれた。建物は玄関から右側に、バレーボール・コート一面ぐらいのホール、ふすまで仕切れる和室は15畳と17.5畳の2室、水洗トイレ、蛇口6口の調理室。50-60名のベースキャンプとしての手ごたえを掴んだ。
使用するには宮古市災害対策本部の許可がいるというので市内に戻り、被災していた市庁舎の災害対策本部に行ったが責任者には会えない。行政機能が混乱する中で、管轄は市なのか、消防署なのかの話も行き違う。「名称が高齢者コミュニティセンターなので公民館だ」と何度説明しても、対応できないと断られた。行政の壁を感じながら最後は組織内議員のツテを頼って、対策本部の使用許可を得ることができた。
次は地域の理解が必要だ。蟇目地区の区長は日を改めて役員を集めてくれた。30人ぐらいの役員(おじいちゃんおばあちゃん)にまず、連合の組織を説明することが大変だった。いろいろな職場で働く組合員が、少しでも被災地の応援をしたいことやってくること、阪神淡路の地震、新潟の地震もボランティアで応援してきたこと、ここを借りられるのならば当面3ヶ月から6ヶ月、使いたいと申し入れた。
地域役員からは、被災地からお願いすべきを進んで来てくれる皆さんに、できる協力はしなければならない、しかし事件事故は起こさないでほしいと言われた。わかりました。
こうして宮古ベースキャンプの設置が決定し3月31日、第一次隊の受け入れが実現した。
労働の神聖を知るボランティア活動 ボランティアの朝はラジオ体操に始まり、作業班ごとに作業指示を受けて出発する。
作業の9割は泥だしで、はじめは個別家屋の、次は畑・田んぼの泥だしである。津波から間もない田んぼからは蛸も出てきた。最初は海の匂いだ、磯の匂いだと言っていたが、日が経つにつれてかなりの悪臭となり、今はおびただしいハエに悩まされている。
2ヵ月経った6月は個別の泥だしが一段落し、町内会単位の側溝泥だしが増えてきた。家の前の側溝だけ泥だしをしても隣から流れてくるので効果がない、とのわれわれの意見が組み入れられて、町内会単位の側溝泥だし500mとか、とんでもない作業量の依頼が入る。みなにはマイペースでとブレーキをかけながら、怪我のないことを優先して作業してもらっている。
宮古市中心部の泥だしはほとんど、連合ボランティアが行った。お褒めのはがきも、感謝の言葉もたくさんいただいた。作業を終えて帰るわれわれのバスの姿が見えなくなるまで、頭を下げてくれる老人もいた。特に70歳以上のお父さん、お母さんの感謝が多い。子供たちは東京、神奈川にいる、畑も田んぼもある、泥をかぶれば作付けはできない。そこにわれわれ比較的若い人間が30人も40人もやって来て、1-2日でヘドロをきれいにしてくれる。それを見て、うちもやってくれないかとの要望が増えていった。
私が感動したのは、初日の作業場でおじいちゃんおばあちゃんと一緒に作業をしたときのこと。おじいちゃんは最初はわれわれを見向きもしない。ボランティアが来たって何ができるんだという顔をして、黙々と自分の作業をしていた。おばあちゃんだけが「いい人たちに来ていただいてありがとう、ありがとう」と。しかし3日目には、おじいちゃんは再敬礼でお辞儀をしてくれる姿に変わった。ボランティアの一所懸命の姿がおじいちゃんの気持ちを変えたのだと思った。
側溝泥だしをしているとおばあちゃんがやってきて、「おら何もくれられネけど」、とふりかけを差し出したり(笑い)子供たちもわれわれの姿を見て、泥だしのスコップを持ち出したとか。ボランティアをする姿が人の気持ちを変えたり、心強くしたり、人に力を与えているのだと思った。
作業中日の休日にボランティアが三人、宮古市への道をてくてく歩いていたら、通り過ぎた車が連合の帽子を認めてわざわざ戻ってくれて、「連合のボランティアさんでしょ、どうぞ乗ってください」と車に乗せてくれた話もある。連合のボランティアは市民にしっかり認知されている。
ボランティア活動を通じて思うことがある。
普段している仕事はあまり成果、効果が実感できない、喜びのない労働とでもいえようか。一方ボランティア活動は与えられた仕事をこなし、数日かけてでも完了し、依頼された方から感謝される。これだけのことなのに、やりがいと充実感がある。
やりがいと充実感は本来、人間が仕事を行う上の原点だと思う。肉体を使って、辛くても汗を流して成果を出して感謝される。一連の労働によってすがすがしい気持ちになる。
人間の力はすばらしい。個人の能力には大差はない。人数がまとまって作業すれば、おじいちゃんおばあちゃんでは何年かかるか分からない畑の泥だしが、数日で完了する。
ボランティアたちは仕事の原点、やりがいを感じる作業をさせていただいている。最後はみんな「また来ます」とがっちり握手して、帰りのバスに乗り込んでいく。たぶん普段の仕事では感じられない充実感を味わっているのだと思う。
組織ボランティアの真骨頂 地域によってそれぞれの特徴があるが岩手県の場合、ボランティア活動の運営主体は自治体ではなく社会福祉協議会で、地元社協のスタッフと他県社協からの応援者で運営している。宮古社協は普段からのデイサービス、小口融資の窓口などの通常活動に加えて、災害ボランティア活動の運営も切り盛りしている。
社協は地域住民からのボランティアニーズの窓口となる。われわれボランティアは社協からの指示、要請によって活動する。活動範囲は車で1.5時間範囲である。
チラシを見た市民からのニーズをもとに、社協の担当者が現地に入り、何をどのように望んでいるのか、どのような道具がいるのかを事前調査し、必要なマンパワーを推定し、現場でボランティアを班編成して当日の作業を割り振る。さらにボランティアが作業する場所は地図で示されるが、地図だけではわからないので社協から案内人をつけるなど、社協の人手不足は深刻である。
そこでわれわれは、社協からは場所と人数だけもらい、それ以外の仕事をすべてこちらに引き受けることにした。
最初は道具もなかったので、3月31日の第1陣から3陣まではスコップ、一輪車などは全部、連合から持ち込んだ。毎日作業終了後の班長会議では、足りないもの、あったほうがいいもののリクエストばかりだったが、被災地だからあるものでやろうと、手探りのスタートだった。今は徐々に社協に準備されるようになり、われわれが持ち込むことはなくなっている。
宮古社協からは前日に作業指示が来る。われわれスタッフが作業を振り分けて班編成し、リーダーを決め、現場を確認して、道具の数を決め、道具を支給して引き上げまで、自己完結の作業日程を組む。夜は班長会議で作業や道具の改善、提案などなど、それは職場さながらの機能性であるが何よりも、寝食を共にする仲間ならではのチームワークの良さは特筆に値する。連合ボランティアは組織的に統制が取れているからと、「ファンキーモンキーベイビー」のコンサートで物資販売受付、警備、駐車場管理などをまかされたこともあった。
今では社協から作業指示だけもらえば、すべてこちらでやっている。連合側スタッフは作業の事前準備が増えて大変ではあるが、これによって、社協には一切負担をかけない、自立型のボランティア活動を展開することができている。
「8月中には仮設住宅入居」という政府の計画に併せて、避難所からの引っ越し作業もパラパラ入る。われわれも知り合いなどから軽トラを借用して対応したが、仮設住宅に行かない方々もいる。仮設にはエアコンもテレビもそろっているが、食事は全部自力となる。半壊の家で住む人にも支援物資は配られない。その一方で、配られない物資はいっぱい残っている。中には食べられなくなる食品もある。
配る手がないのならわれわれ連合ボランティアが、離れた集落にも届けると申し出たのだが、「災害救助法」は支援物資の配給を避難所にいる人を対象としていて、もらった物資を配るのは法律違反なのだという。せっかくの支援も法律が支障になって届けられない、その不合理を忠実に守っている人もいる。
まだまだ国もやることがある。
働く場、雇用の場をぜひ作って 今後の取り組みについて宮古社協は、冬入り前の10月までが勝負だと想定している。7−9月は学生ボランティアが増えるだろう。全国の社協はボランティアを募集しているが、正直なところ個人参加は、今日はいいけど明日はダメとか、今日は昼までだとか、頭数も作業の統率もとれない。土日に単発で、大型バスでドンと入るボランティアの方々もあるが、社協としては統率が取れる団体ボランティアが非常に助かるという。連合は4ヵ月の長期間、土日連休関係なく、宮古市の社協に常に50人を常に送り続けている。
こうして宮古は、おかげでがれきも大分片付いた。連合岩手は7月末で三か所のキャンプを一旦撤収する。8月以降は、岩手では一番被害の大きく、まだ片付いていない陸前高田や大船渡など、県南沿岸部にエネルギーを集中させる。
田老地区は新堤防・旧堤防、自慢の堤防がだめになり、町が全部津波に飲み込まれた。建っている家を数えるほうが早いほどのがれきの山だったが、今では宅地の瓦礫は取り除かれている。宮古市の市場近くの鍬ケ崎小学校の付近もかなり片付いて、宅地の基礎が見えている。今はまだ、浸水した住宅地をどうするかの判断が決まっていないので基礎のまま置かれているが、国が山を拓いて代替地を用意すれば、基礎も含めて更地になるだろう。
復興は、お金と政府の対応の大事さは言うまでもない。その一方で現地からすれば、働く場所の確保が一番だ。
自分の働いたお金で自分の将来を切り開いていかなければ、本当の復興にはならない。現地の人たちが将来展望を見いだすためにはやはり、自らの働いたお金で生活し、家を建て、車を買う、この道筋をつけなければ難しいと思っている。
先日、流されたイカ・サンマの魚介類加工工場の泥だしをした。社長は、従業員に失業保険をもらうために再雇用を約束して解雇したので、私はもう一度、この工場を再建したいと言っている。
ならば工場を国の金で建てて費用を貸し出して、資金繰りを助けるなどの方策はできないものか。政府が直接、金を差し上げることはできなければ貸し出しでもよい、間接的に入れながらも直接のそれのような効果がなければ、働く場の再建の展望は開けない。働く場、雇用の場をぜひ作ってほしい。これが現地のわれわれの希望だ。
われわれは連合組合員の組合費から費用を捻出し、少しでも被災地のためになればとの思いだけで活動してきた。これは人間の共助の原点だと思う。
労働組合はともすれば、自分の給料や労働条件のための活動と思いがちだが、自分の労働条件向上の枠を大きく超えて、共助という観点の、本来の助け合いの活動を行っていると感じている。
文責編集部
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