2012/06
たろうは元気ですライフビジョン学会




3.11、津波の一回目が来て戻った時の田老地区。高台の墓の前の家は流された。左手奥の球場はバックスタンドだけを残していた。























避難所の子供たちが
支援物資で組み立てたロケット。








































刺子のコースター
東京から支援に来た幼稚園の保護者の方が教えてくれた刺子。その後材料とデザインを送ってもらい、今では東京でも販売している。(ゆいとりの会)





綿入れちゃんちゃんこ
支援物資の着物の仕立て直し。津波で防寒着のなくなった高齢者に喜ばれた。
(ゆいとりの会)
























ライトアッププロジェクト
500本のソーラライトは、皆で通学路に設置しました。


東日本激甚災害被災地と非被災地を
つなぐシンポジウム

まだ何か、もっと何か


 5月26日(土)ライフビジョン学会シンポジウム「まだ何か、もっと何か」では田老元気なまちづくりプロジェクト実行委員会・松本篤子さんをお招きし、被災地のいまをお話しいただいた。
 会場には被災した松本さん所有のアパートを3日間かけて泥上げした5人のボランティアも駆け付けた。現地ではマスクとヘルメット姿で互いの顔もわからなかったが、この日初めて、両者は素顔の対面をはたした。連合(日本労働組合総連合会)は2011年3月31日から9月末までの半年間、述べ3万5千人の救援ボランティアを岩手、宮城、福島3県に送り込んだ。5人はその時のメンバーたちである。
 以下に松本さんの話を紹介したい。


なぜまた、田老なのだろう

 私は今日の朝6時に仮設住宅を出て、13時半ぐらいに会場に入りました。来るまでの新幹線車窓の景色には、なんでこんな内陸にまで、仮設住宅がたくさんあるのかと思いました。私の住む宮古市のほかの場所にもたくさんの仮設があるのですが、自分たちのことで目いっぱいで、外に出てみて改めてそれを知ることができました。
 私は嫁ぎ先と実家の両方を被災して、今は仮設住宅に入っています。被災して、一人ではどうしようもなかったので連合ボランティアの皆さんに3日間、泥上げ作業をしてもらいました。
 皆さんの前で話をするように依頼を受けた時には、何を話そうか考えました。たった14ヶ月前のことなのに日々いろんなことがありすぎて、思い出すと頭の中が満杯になります。
 なぜ田老なのだろう!過去に3回も大きな被害に遭っていたのになぜまた、なのだろう。
 あの日2時46分の地震から3時23分の津波までの37分間、どう動いたのだろう。すぐに戻るつもりだったから何も持たなかった。長男がなかなか帰ってこなかった。愛犬JBの存在に助けられました。津波で流した17年間のメモリーは、長女544g長男1996gの母子手帳。何よりの痛手です。
 避難当日、千人の被災者は田老総合事務所とお寺、田老北高校に分散しました。白いおにぎりを半分ずつ分けて一晩を過ごしました。水分確保のために自販機も壊しました。137名の中学生の引き取りを巡って、親たちと先生たちのバトルもありました。親たちは引き取りたい、中学校側は子供たちの安全がなければ返せないというものでした。
 翌日の田老には火事が起きていました。後ろからは火事がせまり前には水があって、私たちもダメかと思いました。道路は寸断されて使えないので、三陸鉄道の線路を道路がわりに、トンネルでは電灯もない真っ暗な中を歩いて、物資の輸送や移動を続けました。
 避難所では大人は力尽きて寝ている傍らで、子供たちは元気でした。支援物資でロケットを組み立てたり、トランプをしたり、時間は有り余っていました。
 4月後半、全員グリーンピア三陸に移動しました。ホテルと屋外施設を擁すグリーンピアでは、老人や障害者、小さな子どもたち300人をホテルに、それ以外の700人は屋外施設に移動しました。
 避難所での最初の一週間はカレー尽くしでした。レトルト、カップラーメン、ビーフシチュー。明日はコロッケが来るというので待っていたら、お笑い芸人のコロッケさんでした。みんな涙が出るほど笑って、感動的でした。あぁ笑ってもいいんだ、我慢しなくていいんだ。
 早く普通の生活に戻りたいのにそのきっかけがつかめないでいました。突っ張って頑張っていた自分が溶けていくようでした。田崎慎也、鳥羽一郎とその息子、渡辺謙、ジャイアンツOBの中畑清と篠塚…。みんな支援物資に群がりました。
 自衛隊の炊き出しは、避難所から仮設への最後の人たちが移動する6月末まで続きました。私たちのところには北海道の隊がきて、ご飯とおかずを配給してくれました。彼らが帰るときには皆沿道に出て見送りました。隊の人も私たちも、みんな泣いていました。
 私は6.11から仮設に入居しました。戸数405戸、住民約千人。
 仮設は1K6坪から3K12坪などいろいろあり、四人家族だと四畳半二間と台所の2K9坪です。被災前まで100坪から200坪の家に住んでいた私たちには、こんなに家族が密集する生活は経験のないものでした。家族がそろうと息苦しさを感じるので、子供たちが早く学校に行くように急かします。入口スロープを囲ってもう一部屋増設しました。天井が高いので、突っ張り棒で「にわかロフト」を作り、収納スペースを増やしました。
 仮設住宅での暮らしは、日々いろいろな支援団体がイベントを行ったり、支援員が入居者への外出を促す工夫をしています。毎朝掲示版を見に行くことが日課になっていて、それだけでも結構な手間になりつつあります。仮設住宅への支援を均等にすることも至難の業ですが、ましてや範囲の広い在宅被災地への支援の難しさはこれ以上だと思います。
 浜は動いているので、物干しと洗濯バサミを使って採れた魚やわかめなどで自家用乾物を作ります。山の中に水産物加工場ができたみたいです。ワカメ、昆布、たら、スルメ、椎茸、栃の実、栗…、田老は自然の恵み豊かなところです。


未来がないなら自分たちで作る
 私たちは仮設の中で何事もなく、救援の物資もいただいて、今の状況は生活には困っていません。だけども未来はありません。なぜなら、どこに住むかも決まっていないからです。
 行政は動けません、自分たちも動けない。ではどうするのかと聞いたとき、誰もが「無」になってしまう。これでは子供たちを、これからどう育てていくのか。
 それを考えたとき、何かしなくてはいけないと動くのは母さんの力です。父さんはただ稼ぎに行けばよいのです。(笑い)家のことは、男の方はほとんど考えないです。将来のことや、明日どうしよう、今夜何食べようと考えるのは、子供を持った母さんです。「母は強し」がそのまま出ています。
 手仕事「ゆいとりの会」はお母さんたち13名の集まりです。「ゆいとり」とは相互ほう助の精神で行う共同作業のこと。他にも小さなグループができています。支援物資で余ったジーパンや和服をリフォームして、小物を作って売っています。夜寝られないときはこの手仕事で気持ちを沈めながら、朝を迎えます。保育所の発表会用衣裳も作っています。これまでためてきた数十年分の衣裳が何もかも失くなってしまったからです。
 集まればそこに井戸端会議が始まります。女性特有の情報交換のやり方です。私は去年6月から10月まで、市内まで40分掛けてパートに出ていたのでその期間は情報収集する時間が無く、支援とは全く無縁だった気がします。
 いくつかの課題も見えてきました。
 仮設店舗には22店舗が入店していますが、閑散としています。販売のノウハウがいまひとつなのでサポートが必要です。
 インターネット販売は魅力的ですが、山奥ではネット事情が良くないので利用できません。
 仮設に住む高齢者の閉じこもりが心配です。居酒屋でもあれば家で一人飲みする年寄りを引き出せるでしょう。仮設は交通不便な場所にあるので、町まで飲みに行く人たちは代行車に6千円以上も払っています。その原資は義捐金です。もったいないと思いますが息抜きの場もなく、狭い仮設で家族がけんかしているのを見聞きすると、必要経費とも思えます。
 仮設に用意された共同スペース「談話室」は、常連さん以外が使いにくくなっています。空いている仮設を息抜きと情報交換の場にしようと、活用方法について集まりをもったのですが、老若男女それぞれの間に亀裂があり、話は進みませんでした。自治会は以前から崩壊していました。
 人口流出はもう起きています。私たちは残った人たちと魅力ある田老を作りたい。中にいる人たちが当たり前と思っていることが実は、他に秀でた個性なのだというような、地域の魅力を再確認したい。
 元気になる「次へのバネ」はやはり、人と人との関わりです。一人のパワーは知れています。私たちは6回の勉強会を開いて、人づくりに取り組んでいます。小さな集まりをたくさん持って、ブドウの房になればいいと思います。
 マスコミの恐さは身にしみました。まちづくり検討委員会を取材に来て、製作過程で彼等のストーリーに変えられて放映されました。


本当の復興とは
 難しいけれど本当の復興とは、被災地の最後の一人がほんの少しの一歩を踏み出した時だと思います。一人一人ができることからやる、たとえほんの小さなことでも次へのステップに繋がるのです。
 田老中学校のスクールゾーンにはまだ街灯もなく、夜になると生徒たちが怖いといいます。そこで自分たちで何かできないかと考えて、「ライトアッププロジェクト」を実現しました。500本のソーラライトを通学路に点灯しようというもので、農水省の支援事業(食と地域の絆づくりプロジェクト)の予算を引き出して、自分たちで設置しました。
 ライトを設置する日はちょうど雪が降って、なんでこんなに試練が続くのかと思うほど悪い天気でしたが、最後はちゃんと完成することができました。本当に小さなことですが、これが自分たちでできる、行政に頼らないで市民ができたことでした。
 支援いただいた皆さんに向けて子供たちが、中学校の前に「田老Thank you」と書いたパネルを立てかけました。夜になるとソーラで光ります。自衛隊の方たちには本当にお世話になりました。外国人も来ていただいたので英語のメッセージにしました。
 昔の田老は全部なくなりました。でも何もできない一人ひとりがいろいろな方の力を借りて、こういうことができるのだと実感できた一年間でした。
 災害を受けた自分たちは民主主義の本当の意味を体得しました。行政は動けない、自分たちが動かないと生きられないとき、どうするか。本当の民主主義とは小さな問題を誰かに頼らず、まずは自分たちでどうしたいかを膝を交えて話し合うことが重要なのだと学びました。
 今の日本人は未来に向かって何を望んでいるのでしょうか。
 行政、役所を地域のみんなで支えるようになって初めて、日本の社会は自立するのではないかと思います。


次なる元気のために
 今回の震災は日本の海岸全域に起こりうる天災です。人間は地球に生かされていることと、防浪堤はあくまでも万が一の時に避難する時間を確保するもので津波を防ぐものではないことを、これからの日本の担い手にしっかり理解してもらう、今はその大切な時期にあります。
 田老の中学生137名はその時、二手に散り散りになりました。一方は山側に、長男のいたもう一方はトンネルの向こう側まで探索に行っていました。瞬時の判断で助かりましたが校長が、今回のことで普段から防災時の話をしていた家庭には犠牲者がいないことが実証されたと話しています。
 何が起きるかわからない。原発が危険ならばどうするかとか、沿岸ならば海から2-3キロ離れたところまで津波が来るとか、こういう事態が起きたらどうするということを、大人より子供に植え付けておくべきだと感じました。
 自宅の跡地には百合が咲きました。ここで学習塾をしていました。もう何もない、空しさばかりです。でもここでお盆もやりました。
   泣かない泣かないもう泣かない!
    泣いたら津波がやってくる!
    笑おう笑おう笑っちゃおう!
    笑えば未来がやってくる! By Matsumoto
 ありがとうございました。



[カンパ御礼]

 今回のシンポジウム参加費142,000円は全額、田老元気なまちづくりプロジェクト実行委員会の活動にカンパさせていただきました。
 応援いただいた皆様、ありがとうございました。




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