2012/08
復興と再生のために市民ができることライフビジョン学会




東日本激甚災害被災地と
非被災地をつなぐシンポジウム

まだ何か、もっと何か
5月26日(土)ライフビジョン学会シンポジウム報告第三弾


シンポジウムプログラム
 13:00 開会

 13:05−13:35 問題提起1
  3.11から考え続けたこと
   松蔭大学生活心理学科 越河六郎氏
 13:35−14:05 問題提起2
  東北の再生と日本の再生
   (有)ライフビジョン 奥井禮喜氏
 14:05−14:45 岩手県宮古からの報告
  私の復旧事情
  田老元気なまちづくりプロジェクト
      実行委員会 松本篤子 氏
 14:15−16:45
  全員による Talk & Talk
  「何かしたい、何かしよう」











































































休憩時間に田老の物販を囲む





















































































   

 東日本大地震の衝撃は非被災地にいる人々に何を気づかせ、どんな行動を起こさせたのか。今月は6-7月号に引き続きライフビジョン学会シンポジウム(2012.5.26)報告第三弾、参加者による話し合いを紹介します。

 東日本復旧ボランティアで岩手県宮古に行ったことをきっかけに、グリーンピア三陸宮古(405戸、千人)の仮設住宅での「町おこしプロジェクト」の活動を知ることができました。被災した田老では皆で町おこしをしようという動きが起こっている一方で、全国の非被災地は従来通り!で何もしていない。東京では普段から近所との付き合いがあるわけではないが、たまたま人口が多いから物が売れて町おこしなど意識しない。もし田老でがんばっているような活動を全国で興せれば、文字通り「日本の再生」となるでしょう。
 そこでこの一年を振り返って、お互い何かできそうなことを探す話し合いをしてみましょう。(コーディネーター・奥井禮喜)

3.11以降を振り返る
◆ 呼びかけに応じて社労士の仕事を応援しました。
石山浩一さん(サラリーマンOB)
 昨年6月に1週間、宮古市で側溝の泥出しをしました。その後社会保険労務士として石巻に、未払い賃金のコンサルタントとして応援に行きました。
 これは被災して会社がなくなったり倒産したり、あるいは社長がいなくなって、賃金も退職金ももらえない従業員たちに対して国が費用を立て替える「賃金の支払の確保等に関する法律」の周知と、申請書類作りの応援でした。
 当初の申し込みは0でした。私が一週間の活動をしたあとを引き継いだ人から後日、7-8件の申請があったとのメールがきました。私が行った仕事は制度の説明文の発送準備と、求職のためにハローワークに来た人へその文書を郵送することでしたが、最終的な申請者は700人余になったそうです。
 石巻で被災した会社を訪ねて回りました。海辺の会社はほとんどが水産物加工です。会社を立て直したい、何かしたいという声は多いのですが、資金的にどこがバックアップするのでしょう。たとえばカンパの中から大口資金をまとめて無利子貸付や株式、ファンドや貸付金などで漁師さんに出資するとか、産業の復旧支援ができないものでしょうか。私が回った7社のうち4社は会社の再建に必死な熱意を感じました。あとの3社は会社の跡形もありませんでした。
 ほかにも宮城県若林区荒浜で、津波による塩害の田んぼに綿の種を蒔いて糸を作って復興を、という産別労組のプロジェクトにも申し込んでいます。自分にできることをやってみたいと思います。

◆ 高齢住民サポートを通じて地域の問題に気付きました。
篠田敏道さん(サラリーマンOB)
 民生委員の私は、震災のときは地域の一人暮らし高齢者を一軒一軒、「生きていますか」とドアを叩いて歩きました。半分ぐらいの家には押し売りなどを警戒してブザーが付いていませんでした。
 計画停電では二つの停電域にまたいでいたことから、停電になる時間帯がわからない。そこで高齢者宅全戸を訪ねて、「5時までに風呂に入って食事をして、寝てください」「なんで?」「高齢者が暗いところで転んだら大変だから」。わが町内会は330世帯、70歳以上が120人ぐらい、夫婦で70歳以上は30世帯います。
 災害の初動段階では市役所その他はあてにならないし、複数個所で同時発生する火災には消防車も来ないでしょう。何か起きた時にはまず自分たちで行動するしかないのです。そこで私は去年から、町内会の総会に出席するようにしました。会合では非常時にどうするのか、高齢者をどうするかと、機会があるたびに訴えています。町内会が原点ですが設置されていないところも多いし、設置されていても活動は低調です。
 ところで高齢者は何に困るのかが、65歳の『若い』私にはわからない。そこで私は個人情報保護法があることは知りながら、高齢者を訪ねてなぜ一人暮らしなのか、息子と仲は良いのか、病院には通っているのか、何の病気なのかと聞きまくる。よけいなおせっかいだが、何かあったときに助けるにはこれしかありません。
 民生委員には守秘義務が課せられています。保護対象者、つまりお年寄りに、自分のプライバシーをどこまで知られていいかを確認して、できるものはオープンにしないと町内会は活動できません。
 民生委員は物事を決める権限はありませんが、困ったことはありませんかと御用聞きすれば情報が入ります。個人の援助も行政のサポートも、ニーズをつかんで対応しなければなりません。
 個人情報保護法を盾に取って何もしないという風潮が、人間関係を阻害しているのではないかと思います。このことを皆でもっと考えなければならないでしょう。

◆ 故郷の風評軽減に私設ロビイストとして活動しました。
貝沼保信さん(サラリーマンOB)
 何らかのお手伝いをしたいと思っていたところ、震災直後の4-5月、泥出しボランティアで宮古に行くことができてよかったです。
 私の実家は福島原発から100km以上離れたところですが、風評被害で困っています。被災地からの避難生活者も多く住んでいます。裏磐梯(北塩原村)は五色沼など風光明媚な観光地ですが、震災以降観光客がめっきり減り、ペンションが倒産したりホテルが閉ったり、民宿も客が来なくなっていました。
 私は大学母校の陸上スポーツの支援をしていますが、毎年8月に裏磐梯で行っている長距離チームの合宿について、学生の保護者から、あんなところに行って大丈夫なのかという問い合わせが来るようになりました。そこで地元の状況を取材し大学陸上部から保護者に広報してもらい、合宿の中止を回避しました。
 いつもの夏は多くの大学や高校が合宿に来ますが、昨年の夏は閑古鳥が鳴いていました。私は地元紙企画の村長と駅伝監督会談にも同行し、現地での放射能量は微量で合宿に問題のないことを記事にしてもらいました。正月の箱根駅伝では現地から村長はじめ民宿の方が上京しコースの沿道で各大学の選手に声援を送り、それもまた村のHPや地元紙に掲載されPRに協力しました。
 今年もまた夏合宿シーズンに入ります。2月、山形県上山市(山形蔵王の上り口の温泉地)の市長と北塩原村の村長さんにタグを組んでもらい、関東地区の大学を数か所、「ぜひ合宿に来てください」と巡回しました。これらの活動は戻ると必ず地元紙に載せてもらいます。村のHPには動画で、村長らの活動を報道しています。
 風評被害ではもうひとつ、農産物が市場に出て行かない問題があります。放射線量はクリアしているのに流通に乗らない。そこで地元の米屋からコメを買い求めて、ライフビジョン学会のチャリティパーティや自分が訪れた被災地宮古に送りました。
 実際に現地に足を運び体験し、何らかの手を差し伸べられ、その積み重ねができればよいと考えた一年余でした。

◆ 労使で仙台に復興支援センターを創りました。
新妻健治さん(イオングループ労連)
 当初は直接被災した組合員の安否確認、その終息時には組合員によるカンパ活動と、被災組合員の雇用と生活の再建を図ることに集中しました。
 グループ企業経営者には必ず雇用を守ること、生活再建にはイオン30万人従業員の総力を挙げて取り組むこと、地域のお客様の生活再建を支えるのもわれわれ小売業の使命であることを申し入れました。5ヶ月後の8月ぐらいまでには被災店舗の営業を復活し、お客様に物資を供給し、買い物をする喜びを提供することができました。
 この取り組みを自社のトップが世界の小売業大会で事例発表したところたいへん驚かれ、日本人の再生の力に対する満場の拍手とスタンディングオベーションを受けたそうです。
 昨年9月には、わが社の国内外従業員30万人がかかわって、被災地の復旧復興を支援する仕組みを労使で作ろうと経営に申し入れました。それが5月のいま、ようやくまとまりつつあります。
 復旧復興は長い時間がかかるので継続的にやること、地域の事情を良く知って地域ニーズに合致したやり方でやること、その拠点としてイオン労使で仙台に復興支援センターを創り、労使で人材を出し、地域のNPOで活躍している何人かを直接雇用して地域情報を採りながら、全国さらに世界のわが社従業員・組合員が復興支援にとり組めるようにしようという構想です。
 仙台の復興支援センターは情報の収集と分析をして全国に発信する、情報を受けてグループ傘下の労使には、自分のところだったらこれができると手を挙げてもらい、両者のニーズをマッチングします。
 他方、イオンの労使はかなり前から植樹活動に取り組んできましたが、沿岸被災地の新しい「スーパー堤防構想」などにも苗から植樹までにかかわって、防災面からも貢献しようとしています。
 営業面では地域からの商品調達、店舗の開発、地域からの雇用を進め、@従業員の参加、A植樹、B営業での貢献、この3本柱で貢献しようとしています。
 原発からの被災者が全国各地に散り散りになって、孤立している状況を支援するNPOも各地に立ち上がっています。イオンの店舗は全国ネットなので、そうした取り組みに機会、場、人的、資金的援助が可能です。原発避難者の支援もする予定です。
 自治体からは東南海、東海地震、減災のための防災意識を、ショッピングセンターを使って普及徹底してもらえないかとも言われています。


社会はつながっている
◆ 大切なのは自分の仕事とチームワーク
 奥井 石巻と気仙沼のイオンが被災した店舗で営業を再開した様子を、しばらくの間インターネットの動画で流していました。販売員とお客としてでなく、自分たちの仕事が社会貢献そのものであることを余すところなく伝えていました。
 地域の核となるようなしっかりした会社があって、会社を地域のために再建しようと思っている社員たちがいる。社員たちは被災からの初動時には、自宅が被災していても会社の復旧を優先した。それが被災市民にとっても励みになったと思います。
 コミュニティという言葉はあるが、地域社会には協同の実態は何もない。そのなかで企業は営利活動とは別のすごい力を発揮すると言えるでしょう。被災地へ手伝いに行った社員や一般ボランティアたちは、そこで感じたことが次の成長の芽になるでしょう。
 電力会社の、復旧に赴いた社員たちの感想を読んだところ、日ごろからきちんと自分の仕事の能力を磨いておくこととチームワークが大事だと言っています。加えて「危機管理が大事」という地味な表現だったが、自分の仕事を自信を持って進められることという指摘は、大いに説得力がありました。
 組合嫌いの人の中には、自分は団体の力を借りなくても一人のプロとして十分通用すると思っている人がいます。しかしこれは本物のプロではない。プロほど、いくらすごい図面を描いてもそれを形にしてくれる現場の人がいなければ、たくさんの人の力がなければ大きな仕事は完成しないことを知っているものです。
 今は大卒社員が増えて一人で何でもできると思っているようですが、自分の力を本当に知っていれば、他人とコミットしなければ、自分のやりたい仕事ができないのだから、良いコミュニケーションを求めるのは必然でしょう。しかし人間関係をこじらせないよう取り繕う程度のコミュニケーションしかできなければ、仕事の質は上がらない。この十数年、コミュニケーションがよいという話は聞いたことがないので、たぶん今の日本は、自分と仕事を本気で考えるプロがいなくなっているのでしょう。
 その意味でも個人と組織、個人と社会の関係、横糸縦糸をつなぐことを考えたいと思います。

◆ 根本的な人間教育が必要だ
 Kさん 一番の問題は一年あまりを経て今日のテーマである『まだ何か、もっと何か』、そう思っている人がどれぐらいいるのかということです。
 仙台の街中は震災前より華やかです。しかし少し離れると瓦礫は片づけているだけの状態だし、風景はすっかり変わっているし、一番被害を受けた沿岸部など、まだ復興していない。この現実を被災しなかったわれわれはどう見るべきか。今日のように個人に課題を提起するといろいろな問題意識を持っているが、これをどう有機的に結びつけていくのが、前進に持っていくかが、本当の復興だと思います。
 宮城県の実家では家もなくし、不自由ながら何とか生きているが前には進んでいない。にもかかわらず周りの人はすっかり平常の生活に戻っています。最近は経済の危機に関心が向けられ、企業も自社の危機を喧伝し、中にはこのどさくさに手柄をあげようなどと、節操がない輩もいます。
 私は人事マンとしてはもっと人間教育をしなくてはならないと思っています。最近は就職がし辛くなって点数を競うようになっていることもあり、若い人はスキルばかり身につけて、どうも根本的な、人間的な教育がない。私は若手社員に、自分は何をしたくて会社に入ったのかと、問い続けています。
 『まだ何か、もっと何か』という意識をどう波及していくかが課題です。皆さんの突っ込んだ意見を伺いたい。
 奥井 教育問題では、課題に対して自分の知識とマニュアル本を総動員して、それが正解だと思っている節がある。しかしそれは、最近のことだけではないようで、「答えを求めることに日本人はせっかちだ、議論を嫌う」と明治時代、日本に7年ぐらい留学していた魯迅が書き残しています。
 「議論は大声で押さえつけて終わり、きっちりやり取りしない」ともあり、違う意見AとBをキャッチボールして、組み合わせて、Cを導き出す苦労を好まない。最近の会社では、議論好きは組織で肩をすぼめているのではないかと心配です。

◆ 頼む、お願いする文化
 篠田さん コミュニケーションについて目新しいことがあります。
 地域の高齢者はほとんど何も言いません。「ごみはどうしようか」「市はどうしてくれるのか」という人に私は、隣の人に頼みなさい。お願いしますと言って、はいと言ったらありがとう、断られたらごめんなさい、もう年寄りになったのだからこの二つぐらいは言いましょう、と言っています。
 「何をしてほしい」と頼んでもよい。隣近所でしょうゆを貸し借りした文化がなくなったから、福祉も押し付けになってしまった感があります。人間自身も人に頼まれるような人間になって、「頼む」「お願い」と一言言える社会にしたいものです。
 大概の住民は隣人との仲が悪いのですが、1件だけ仲良くなった例があります。ゴミ捨て場が遠い高齢者が、「ゴミ出せないんだけど」と一言声をかけたら「前に出しておいたら持ってってあげるよ」と返ってきたのです。
 奥井 頼むというのは大事です。僕らの若いころの組合は、政治家の選挙で応援を頼み、ポスター貼りを頼み、金のない候補者のためにカンパを、などと頼んでいるときのほうが組合リーダーと組合員の関係は強くなった。最近は頼む活動が減っています。全体でみると妙に遠慮していて、頼む活動が減っている。
 新妻さん 組合活動では命令はできないので、頼むしかない。その成果は、会社の幹部と組合幹部を比べると明らかに違います。組合は説得して、納得させてやってもらうというスタンスで、会社の職制と比べると、生産性は「お願い」したほうが断然高いですね。
 組合活動は参加人数が多ければ「成果」で、集まらなければ成果でないという見方があり、難しいところには踏み込まない傾向があります。成功狙いで挑戦しなくなっています。

◆ 社会がつながっていることが分からない
 Oさん ボランティアで就活コンサルタントをした際、学生たちは知識があり資格も取っているが、もう社会に出るしかないのに、準備ができていない。実際、大学1−3年はいろいろなことをやっているのだが、それが社会にどう繋がっているのかを取りまとめていないので、就職面接で自分をどのようにアピールするかわからない。学問のステージと実社会がいかに離れているかを感じます。
 われわれ世代は先輩たちが有無を言わせず命令。後で丁寧に説明してくれる先輩がいた。今はマニュアル通りでそれがない。純粋培養された学生が就職して一気に社会の理不尽と対面し、5月ごろに新うつ病を発症する。家では垂れ流しテレビ番組を真剣に聞いてマスコミに情報操作されている年寄りがいる。両者の思考の澱を時に撹拌し、つなぎ合わせて、孤立化を防がなければだめだと思う。
 原発水蒸気爆発の影響から東京でミネラルウォーターが無くなった。旅先の北九州や博多のコンビニからも同時に無くなった。それは東京に出た転勤族の娘に地元の親が一斉に送ったからだという。日本は狭いが、東京一極中心で特化しているから、十数時間列車に乗って移動するだけで、そんな奇妙なことに出くわす。
 われわれが生活している表は、実は隣家の裏なのに、そこが分断されている。社会は有機的につながっていて当然だが、一般の市民は、町内会もなくなり、民生委員が接着剤をしてもなかなか相互の関係性は修復されず、むしろ崩壊は止まらない。日本社会が誇ったいろいろな良い習慣や機能も保てない状態にある。その最たる部分が人間関係だと思っている。
 唯一、会社組織では非常時になるとそれが活かされる。軍隊もそう。混乱の時に強い組織は普段からトレーニングしている。それが今回、被災地のあちこちで発揮されていたことは、今手を打てば、まだ修復できるということだ。不幸が人を正気にさせてくれたようにも思います。


自主・自立・自由・自治 民主主義の芽を育てる
 奥井 整理すると、仕事する一人ひとり人がどれだけきちんと、本気で仕事をしようとしているのかの問題があるようです。そういう人がはたして、多いのだろうか。常識で考えて、きっちり仕事をしようという人が多ければ、コミュニケーションは絶対良くなると思う。協同作業がうまくいかないということは、本気で自分と自分の仕事について考えていないのではないか。そこをえぐらないと、ハードは再生してもソフトの日本再生にはならないでしょう。
 私は「昔は良かった」という論は立てたくない。例えば1923年9月1日関東大震災のときは朝鮮人虐殺をしたり、ひどい流言蜚語が飛び、町内会を守ろうと日本刀を持って、助け合いではなくて殺し合いをして、万の数の人間が死んでいる。あの頃はルーマーが飛んで、警察もからんでいました。
 それは戦後の日本では起きていないし、長いスパンでみると助け合いの行動は起こしている。便利になったからボランティアへの想像力が無くなったわけでもないし、昔は助け合い精神がすごくあったわけでもない。
 日本社会ではなぜ、コミュニティが形成できないのかと言うと、戦前の町内会が「お上の手先」だったから住民から信用されなかった過去を持つからです。決して昔は良かったわけではなくて、むしろ戦後民主主義の意義がわかっていないからコミュニティが機能しない可能性が高い。この民主主義の芽を皆でどうやって育てるか。
 3.11から一年ちょっとで、被災者への共感のスピリッツがずいぶん無くなってしまいました。日本の危機とは原発とか被災だけでなく、危機に直面したときの日本人のスピリッツの問題だと思います。
 いま日本は混沌、混乱しているといわれます。ここで状況を変えようという方向にベクトルを向けられるか否か。問題は混沌、混乱が続くと慣れてしまい、自分たちが作った混乱の中に日々の生活を合わせて痛痒を感じなくなってしまうことです。
 この国は民主主義の本当の意味がわかっていない国民によって構成されていることを覚えておきましょう。自由とは束縛からの解放のみではなくて、わが内なるgenius天才をいかに発揮するかです。社会を離れて生きられない個人としては、一隅を照らすだけの自分のささやかな天才の発揮、個性の発揮が社会の役に立ったと感じたとき、なんともいえない喜びを感じるでしょう。それがボランティアに行った皆さんが感じたものだと思います。
 大会社で立派な給料をもらいながら、ぶつぶつ言っている元気のない方たちがいっぱいいるのはもったいない。その人たちは自分の仕事が金の多寡だけで決まっていて、かつ、社会の役に立つ仕事という意識にまでつながっていない。自分の仕事が社会とつながっていると考えられる人が多い社会と少ない社会とでは、社会の質が違うでしょう。
 これは私が高校生の時から考え続けてきた「民主主義」です。今日話したような民主主義は恥ずかしながら最近気がついたことの一つです。やっと一歩進みました。
 今日ご参加の、私より若い人にバトンはつなぎました。あとはよろしくお願いします。
(文責編集部)







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