2012/11
人生と労働―そろそろ自信を取り戻そうライフビジョン学会


 
藤村博之 氏
――◆――
 京都大学博士(経済学)
 法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科教授
 1997年に法政大学経営学部教授、2004年4月から現職。専門は労使関係論、人材育成論。著書に、 『人材獲得競争―世界の頭脳をどう生かすか』(竹内、末廣と共著、学生社、2010年)、新しい人事労務管理[第4版]』(共著、2011年)などがある。


 ライフビジョン学会は働いて人生を作っていく人々の学会として1993年に発足し、今年20周年を迎えました。
 20年を記念して2012年9月29日(土10:00‐17:00)、国立オリンピック記念青少年総合センターに於いて以下の公開セミナーを行いました。

メインテーマ

人生と労働
「仕方がない」の壁を打ち破れ

当日のプログラム

10:10−11:50 問題提起1
「神の見えざる手」が働く条件
―全体最適を意識して行動することの重要性―r
法政大学経営大学院 藤村博之氏

13:00−14:40 問題提起2
「技術者の仕事とは」
―Professionalなものの見方・考え方について―r
藍野大学非常勤講師 木下親郎氏

14:40−15:00 休憩

15:00−16:45 全員によるTalk & Talk
「人生と労働」混沌の霧を晴らそう
コメンテータ 奥井禮喜

ライフビジョン学会20周年シンポジウム 報告 1
人生と労働
「仕方がない」の壁を打ち破れ
「神の見えざる手」が働く条件
―全体最適を意識して行動することの重要性―
法政大学経営大学院教授 藤村博之氏


企業人事の問題 日本の場合
 日本の会社が「人」にかかわるどんな問題に直面しているかについて紹介したい。
 日本の労働市場には5400万人の雇用労働者がいる。1985年には85%が正社員、15%が非正社員であった。これが90年代半ば以降、非正規社員が三分の一を占めるようになった。
 労働力人口の減少は1998年から始まった。政府は労働力の減少を緩やかにするために、出産子育て期の女性の勤務環境をサポートする『次世代育成支援』政策や、高齢者が働き続けられる『高年齢者雇用安定法』改正などを進めているが、企業はコスト増を理由に必ずしも積極的ではない。
 採用活動は早期化、長期化している。新入社員には即戦力であることを求め、特に人材育成の費用対効果を明確化するように求められる。
 日本は国内生産の輸出比率は12%で、これからはもっと外に出て行く時代となる。事業の海外展開、グローバル化への対応として外国人採用、グローバル人材も課題だが、それをやろうという人がやや減ってきている。
 人事制度に対する安心感がなくなった。成果主義の中でも評価制度が複雑になって、現場でうまく使いこなせない。長時間労働が常態化している。管理職の職場管理能力が不十分。メンタルに問題を抱える従業員が多い。
 正社員に対する雇用保障が、いろいろなところで足かせとされている。以前ならば過剰雇用であっても、企業は次の景気拡大に備えて人員を抱えておかなければならなかった。しかし低成長経済下では、景気の変動に合わせて人を減らすことが受け入れられるようになってきた。
 職場のチームワークや連帯感が弱くなり活気がない。やらされ感が強い、考えて仕事をする雰囲気がなくなった。
 採用、育成、賃金、評価、モチベーション、チームワーク、福利厚生、高齢者雇用、ワークライフ・バランス、労使関係、グローバル・スタンダードなどなど、今日の企業人事はいろいろな問題を抱えている。
 経営資源とはヒト、モノ、カネ、ブランド力と言われる。企業とは、カネの結合体であると同時に人の結合体である。両者がしっかり回っていかないと会社は動かない。
 経営者はカネの結合体を強くしようとする。おかげでしばしば、人の結合体を弱めてしまうことがある。売り上げが下がる中で利益を上げるためにはコストを下げる、その核心は人件費である。年収500万円の人を10人辞めさせれば5千万円のコストが浮く。しかしそれは、人の結合体が弱くなることであるから、カネの結合体も成り立たなくなる。
 アメリカの経済学者ジェフリー・ フェファーが「人材を生かす企業」(1998トッパン)を書いた。アメリカ企業で人を減らしたところを丁寧に追いかけると、業績が落ちてまた人を減らす。アメリカの経営は人という貴重な資源をなぜ、簡単に捨ててしまうのか。もっとちゃんと使おうというのがメッセージである。
 90年代後半の日本ではバブル崩壊後の不況の中で、企業の雇用保障という仕組みはよくない、人をどんどん切って、身軽にならなければ企業は生き残らないと言われていた。この本は当時の日本の風潮では受け入れられなかった。われわれはこれらアメリカの実態を知った上で、議論をしなければならない。
 人の結合体を強化しなければならない。それを担うのが人事部であり、労働組合である。その労働運動が、このところ停滞をしている。


日本社会の停滞と労働運動
 組合は「活動」をしているが、「運動」が見えない。運動とは社会を動かすものである。目指すべき社会の姿を描けなくなったのが、労働組合停滞の一番大きな原因である。
 以前は社会主義と資本主義の対立があった。資本主義の諸問題を解決した姿として組合は「社会主義」をイメージし、その実現のために運動した。しかし社会主義が消え、資本主義が勝ったとの誤った認識が広まって、人事も組合も力を失った。
 いまは、資本主義間の争いが激しくなっている。アメリカ型の資本主義は一つの形であり、それがグローバルスタンダード・世界標準ではない。技術の世界でいえばde facto standard(事実上の標準)で、グローバルスタンダードという英語はあまり聞かない。
 ヨーロッパ大陸の人間は国際会議で、アメリカを特殊な国扱いしている。
 たとえば高齢者雇用で、60歳以上を雇うとメリットがあるという政策に対し、アメリカ研究者は、年齢を意識させる政策は差別の一部だから良くない、ジャスティスに反すると批判する。ヨーロッパ人は、それは君たちのジャスティスで、私たちは別のジャスティスを持っていると反論する。大陸人とアメリカ人の議論は、横で聞いていると面白い。
 日本人の私たちはなぜか、アメリカ型資本主義を世界標準だと思っている。アメリカに占領されて、アメリカの軍隊が日常的に私たちの周りにいて、アメリカの影響が未だに強い。
 ISOはヨーロッパの世界戦略であった。これに日本企業はまんまと乗せられた。トヨタ自動車はISOを取得していない。トヨタはISOを超えているから低い基準のものをとる必要がない、との考えである。
 ISOのおかげでコンプライアンス関係の仕事をはじめ、それぞれ形式ばかり整える仕事が増えた。創造的な仕事ができない、朝起きてがんばる気になれない。若者の労働観がおかしいというが最大の理由は、親が楽しそうに仕事をしていないことにある。


日本の良さは善意と信頼
 日本にはアメリカにない良さ、強さがある。その一つは歴史である。建国250年のアメリカに対して日本には、少なくとも1500年ぐらいの書かれた歴史がある。
 それ以外にわれわれの世界には、善意と信頼を基盤とする企業間の関係がある。
 たとえば自動車は2-3万点の部品を組み付ける。重要な部品には部品製造会社のエンジニアが組み立て現場に出向して、一緒に組み立てる。これらを「ゲストエンジニア」という。
 ひとつの会社がトヨタ、日産、ホンダにそれぞれゲストエンジニアを送っている。企画会議にも出るからこの情報を集めてくれば、部品会社は自動車各社が次にどういう車を出そうとしているのかがわかる。新車の情報は機密度の高い情報だが、企業間は信頼関係で結ばれているから、情報が漏れない。もしこれを契約で結ぼうとすると、窮屈で複雑なものになるだろう。
 アメリカの関係は不信感から始まるから、その契約は穴がないように、いろいろなケースを想定して分厚いものになる。
 日本社会の現状問題としては安心感の喪失、格差の拡大と固定化、あきらめムードがある。
 問題はあるが、日本は外から見るととてもよい国である。質の高いインフラが整備されている。正確な鉄道運行、電気の質も高い、電気時計が狂わないのは日本ぐらい。電話がいつでもつながるとか、質の高いインフラが整備されている。
 たとえば鉄道会社の運行時間の国際比較をしようとしても、ヨーロッパでは15分以内は遅延としてカウントされていない。日本は1分でも統計で出てくるから、両者は比べようがない。
 日本では皆、約束を守る。忘れ物が返ってくる。財布も中身がそのまま返ってくる。これには外国人は感動する。ものがたくさんあって、安い。人々が親切。ほかの国と比べると安全でいろいろなものがそろっている。基本的には今のところ、とても良い国だ。
 日本は善意と信頼を前提として社会の関係を作っている。抜け駆けをしないのが日本の良さである。そこに気づいていないのが問題なのである。


目指すべき社会を描く
 われわれは今、どんな社会を創ろうとしているのか、考えなければならない。
 バブル崩壊は、日本人の自信まで崩壊させた。たとえば人事制度では、周回遅れでアメリカの背中を追いかける愚かさである。
 アメリカ経済は1980年代にガタガタになった。90年代からよみがえるが、その時にとりいれられた組織や人事の仕組みは、多くは日本企業がもともとやってきたものだった。
 たとえばリ・エンジニアリング。一人ひとりの仕事が細分化され、それをつないで完成する。でもそれは誰かが休むと仕事が進まなくなるので、皆が共通して取り組めることは誰でもできるようにしよう、となった。職場の中で情報共有し、助け合おうというやり方は日本がやってきた方法である。
 次に出てきたのは学習する組織、ラーニング・オーガナイゼ―ション。個々人の経験を皆で共有する、失敗を繰り返さないよう、うまくいったことは皆で共有するように、これが学習する組織、情報の共有である。
 次はリーン(lean)プロダクション。leanとは贅肉が引き締まっている状態のことで、中間在庫を持たない生産方式、つまりトヨタ生産方式のことを言う。
 1980年代に具合が悪くなったとき、アメリカは日本企業のやり方を研究した。自分たちが負けたことを認め、よりすぐれた国を研究しようとするアメリカ人の態度は尊敬に値する。その研究に政府も財団も金を出す。
 やがてアメリカは、日本企業の経営の良いところを整理してうまく概念化し、うまく名前をつける。リ・エンジニアリング、ラーニング・オーガナイゼ―ション、ストラテジック・ヒューマンマネジメント、リーン・プロダクションも全く、日本を感じさせない。たとえばリーン・プロダクションをトヨタ・プロダクションシステムと言ったのでは、アメリカ人は拒否反応を起こしたことだろう。
 2000年前後に日本でも言われ始めたのは、「戦略的人事管理」である。世の中の優秀な人材は限られているのだから、不要になった人材を解雇するのはもったいない。辞めさせないで配置換えすれば使えるとして、人事が経営戦略と合わせて全体を管理する。これも日本が普通にやっていたことである。
 今は日米が逆になり始めている。アメリカの賃金は80年代までは「営業課長」という机とポストに値段がついていた。つまり職務ごとの賃金である。当時の日本は職能資格制度で、人の背中に値段が付いていた。これが90年代のアメリカでは人の背中に値段をつけるように変わり、日本は机に値段をつけ始めた。いま、アメリカの研究者が日本でやっていることを見ると、なんでそんな古いことをと思うことだろう。
 日本企業はバブルで浮かれ、崩壊し、自信をなくし、這い上がろうと打った施策は良かった時代の延長線上で考えたものであった。何をやってもうまくいかないまま90年代半ばを迎え、自分たちのやり方が間違っていたのではと思い始めたところに、外資系のコンサルタント会社が、成果主義賃金などを提案した。確かにそれは、アメリカの金融会社などでは機能していたが、日本では製造業までそれを導入した。その結果、周回遅れになった。
 日本はかつて先頭集団を走り、最後尾のアメリカの背中を見て、自分が遅れていると思いこんだ。そこでアメリカがすでに辞めている古いやり方を、つまりアメリカの後塵を拝した。これでは勝てるはずはない。日本型の資本主義をもっと考える必要性がある。


問題は人事の素人化
 周回遅れの最大の理由は、自信を失ったことだと思う。改めるべきものはたくさんあったが、なくしてはいけないものもたくさんあった。それも一緒にポンと捨てて、新しいものを採り入れたのが問題であった。
 人事の世界でいうと、人事の素人化が傷を深くしたと思う。同時に労組役員も素人化した。
 80年代はいろいろな意味で世代交代の時代だった。戦前の教育を受け、高度経済成長で活躍した経営者たちが定年を迎えた。代わりに戦後教育の社長が登場し、合理的、効率的な経営を進めた。
 戦前の教育で「人間観」をしっかり持っていた人が社長をしていた時代には、組織の統制が取れていた。しかし人間観がなく功利性で判断する人たちが社長になってくると、企業がひとたび傾き始めたときに、打ち出す施策が人々の心を射止めない、どんどん人心が離れていった。
 80年代以降、人事経験者が社長にならなくなった。以前は組合と話ができる人でないと社長になれなかったが、組合がおとなくしなったので人事の相対的地位が落ちて、人事は誰にでもできる仕事になってしまった。
 人事を知らない人が人事部長になり、外資系コンサルタント会社の見事なプレゼンに流されて、現場で使えるか使えないかの判断ができないまま、成果主義などを導入した。これが人事の素人化が起こした結果だと思う。
 組合役員も素人化した。中卒で養成工として会社に入り、職場でリーダーシップを発揮して組合の委員長になる。80年代に定年になり、リーダーは大卒に代わるが、大卒はいずれ会社に帰って昇進する。大卒委員長の組合員経験は年数が短く、幅が狭く、労働を代表する人材も素人化が進んだ。
 こうして自信をなくした経営者の元で、素人人事と素人組合が増えてきた結果、従業員のモチベーションを上げるべき局面で、アメリカ型の人事管理手法を無批判に受け入れた。
 企業人事の素人化を防ぐには、人事部の役割を経営側がしっかり見なければならない。いま人事の人と話をすると数字の話、頭数の話しかしない。
 人事は本来、従業員の顔が浮かび、その人がどんな仕事をしているかが分からなければならない。人事には必ず何人か、個別社員の顔がちゃんと見える人たちがいるようにしてほしい。
 高島屋では6000人の従業員を人事担当3人で、一人当たり2000人を面接し意見交換するという。人事担当者が30分から1時間ぐらい話を聞く。書類と写真があれば前回の話をメモを見ながら思い出せるので、2000人の面接は可能だそうだ。
 この社員の3年前の希望が今はどうか、上司の下で働きながら自分の希望を達成しているか。働く側も、人事部がちゃんと自分を見てくれているという安心感。これがとても大事なのだと言う。
 頭数ではなく一人ひとりの顔が見えている人事担当者の存在が、人事の強みとなるだろう。それができれば素人集団が人事管理の流行を追いかけることにはならないはずだ。


日本型資本主義の可能性
 目指すべき社会として、日本型資本主義を確立したい。考えられる対立軸は次の通りである。
 A アメリカ型。ルールをたくさん作り、守らなければ厳罰に処す。性悪説に基づく競争社会。
 B 競争の質を高めるには、ルール作りよりもプレーヤーの質を高めるよ、とする。野球でいえば、プレーヤーの質が高いとゲームが面白くなる。質の高いプレーヤーをどう育てるか。
 いま日本は、Aに近いところにいる。
 アダムスミスには「国富論」(1776)の前に「道徳感情論」(1759)がある。これがあって初めて、国富論が説く「神の見えざる手」が機能する。
 市場で行動するときにはフェアか否か、第三者の目で自分の行動をチェックしなければならない。市場競争とは抜け駆けしても勝てばよいという話ではない。互いにフェアな取引であることを大前提として競争がおこなわれ、その結果として「神の見えざる手」による最適化が始まる、と説く。
 将来の利益のために今日は損しても長期視点で考えよ、という考えを今に当てはめると、協力会社の育成問題がある。
 協力会社は適正な利益を上げることで社員を雇い、育成して力を発揮することができる。この仕組みがいま、弱くなっている。
 グループの中核会社は、いろいろな協力会社から部品やサービスを供給されて成り立っている。本来それらの会社に回すべき利益を全部吸い上げて、史上最高の利益を自慢する中核会社はナンセンスである。それは近所の子供とメンコ、ビー玉をして、強いから全部かっさらってしまうガキ大将である。メンコ、ビー玉を独り占めしてしまえば、次の日から誰も遊んでくれなくなる。
 関連・協力会社に十分な利益が上がらなければ、そこが人を雇えない、優秀な人材が辞めていく。協力会社の経営者たちは高齢化が進み、これから10年後にこの商品・部品を今と同じ品質と価格で作れる自信はないと言う。協力会社がきちんとした仕事をしなくなればグループと中核会社は成り立たないのだが、どうもそこが見えていない。
 学際的な仕事をしているジャレド・ダイアモンド(米・生物学者)が、「文明崩壊」(2005草思社)という本を書いた。
 崩壊した社会は人口が増え、食糧増産のために周辺を開発し、争い激化、飢餓や戦争、消滅する。過去に多くの社会が崩壊もしくは消滅し、大規模な古跡を後代に残した。
 現代の脅威には人工的な森林伐採と植生破壊、土壌問題、水資源や動植物の乱獲などの問題がある。日本は食料自給率40%だが、見方を変えれば「外国の土地を輸入」していることになる。外国で作物ができなくなると、金がいくらあっても食えなくなる。私たちは目の前の問題に気がつかなければならない。
 私たちは変わっていないつもりでも、無意識のうちに少しずつ変わっている。意識して何かをしようとすれば自分自身を変えることができる。同時に、周りを変えることができる。
 環境は変えられないから仕方ないのではなく、自分たちが動くことで変えられる。これを本日最後のメッセージとしたい。
(文責編集部)







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