2013/02
人生と労働――働く哲学をうち立てようライフビジョン学会






 ライフビジョン学会は働いて人生を作っていく人々の学会として1993年に発足し、今年20周年を迎えました。
 20年を記念して国立オリンピック記念青少年総合センターで以下の公開シンポジウムを行いました。

メインテーマ

人生と労働
「仕方がない」の壁を打ち破れ

当日のプログラム

10:10−11:50 問題提起1
「神の見えざる手」が働く条件
―全体最適を意識して行動することの重要性―

法政大学経営大学院 藤村博之氏

13:00−14:40 問題提起2
「技術者の仕事とは」
―Professionalなものの見方・考え方について―

藍野大学非常勤講師 木下親郎氏

14:40−15:00 休憩

15:00−16:45 全員によるTalk & Talk
「人生と労働」混沌の霧を晴らそう

 コーディネータ 石山浩一
 コメンテータ  奥井禮喜
















































コーディネータ 石山浩一
ライフビジョン学会代表












































人生設計(ライフビジョン)とは
 日々忙しかったり、厄介な事態が発生したり、ともすれば頭の上のハエを追うばかりで時間が過ぎていくなかで、人生設計とは意識して、自分の人生観らしきことを考えてみようとするものである。
 たとえば、
 @私はなにをするために、ここに在るのだろうか?
 A私はなぜ生まれてきたのだろうか?
 B私はいかなる人間になろうとしているのだろうか?
 C私の人生はこれからどうなるのだろうか?

 長谷川萬次郎・如是閑(1875〜1969)は次のような箴言(aphorism)を残した。
 @存在に理由なし。
 A生存に発意なし。
 B性格に設計なし。
 C人生に脚本なし。

 身も蓋もない箴言ながら、生きなねばならぬ。生きるためには食べねばならぬ。食べるためには働かねばならぬ。働くのはなかなかの苦痛である。
 しかし、にもかかわらず、働いて生きているのは、自分の人生が、少なくとも、その苦痛を乗り越えられるだけの「なにか」があるからである。その、なにかを明確に意識して、目的的に日々を暮らせるのであれば、元気な人生といえるだろう。
 「人生設計セミナー」はその「なにか」を見つけようという研修である。









コメンテータ 奥井禮喜
ライフビジョン学会顧問
本誌発行人



ライフビジョン学会20周年シンポジウム Talk & Talk報告
人生と労働
――働く哲学をうち立てよう――

 ライフビジョン学会は2012年 9月26日、20周年記念シンポジウム「人生と労働」を行った。二題の問題提起の後に行われた参加者全員によるパネルディスカッションでは、労働の現状について活発な発言が供された。
 この稿では当日の発言を拾いながら再度、「人生と労働」について考えてみたい。

相変わらずの労働現場
 発言者からは次のような意見が出された。
 ○個人の元気がない。挑戦する雰囲気があまりない。ちょっと難しいと「それはできません」と後ろ向き、あきらめ、失敗を恐れる人が多い。できないかもしれないができるかもしれない、とは考えない。地道な意識付け、前向きな運動を少しずつ広げることが大事だ。(メーカー開発)
 ○競争を市場に任せてしまった結果、管理職の給与・一時金の削減も併せて労働者の所得は下がり、若者の就業にしわ寄せされている。働くって本当は何なのだろう。(メーカー人事)
 ○われわれは足元の組合員の生活に注目するより、作られた統計数字を絶対信仰する傾向がある。経済が人間の営みから離れている。
 また、相対して話をすることが少ない。労働現場や個人の状況が、互いに見えなくなっている。生き方・働き方の問題は数値化・定量化にはなじまない。(流通労組)
 ○春闘の賃上げは会社の言うとおり抑えてきたのに、景気は良くならない。GDPなど経済規模は大きくなったが何がよくなったのか。この方法ではだめなのではないか。
 それを考えるときに、「人生と労働」の主体である人間とは何か、どうあればよいのか、人間社会の在り方に価値(の中心)を置いてもう一度、これまでの道筋を総括し、これからを構想しなければ解決しないのではないか。(流通労組)
 ○連合は人間の可能性についてどのような運動テーマを設定し、展開するか。日本社会と経済に与える連合の影響力もさびしい。参加と関与に「肝」が据わっていない。(流通労組)


問題を「なぜ」から問い直す
(1)何のために経済活動するのか
 科学技術は自然の厳しさから人間を守るために進化した。農業は飢えから、土木は自然災害から人間を守った。経済はそれらの資本を融通しあうために発達した。
 技術革新は生産性向上を導き、コンピュータ、ロボットの出現で人間の労働を軽減した。おかげで人間は義務の労働から自由になり、人間性を回復することができるようになった。
 ところで日本人は残業大好きで、せっかく生まれた余暇を、自己存在感の確立や自我の成長に充てるべき大事な時間を、次の生産に提供してお金に換えた。
 ○生きるに足る労働時間と賃金はどれだけか、いくら稼げば働き方の正解だというのか。(流通労組)
 資本主義社会では必要財が飽和しても、自分で成長を止められない。
 一方でITは、人間の管理を強化した。クレジットカードや携帯端末は個人の消費と行動を掌握し、企業は集めたデータから次の購買意欲を刺激する。画一情報はのべつ流され、人間サマは携帯画面からリモートコントロールされる。過剰な情報は個性創造の芽を摘む。
 経済は社会の過不足を均しくし、各人の自由を拡大するとしたら、それは人間の可能性の拡大であると思いたい。

(2)資本主義は健全に発展しているのか
 資本主義は自由競争を原理とする経済体制で、弱肉強食を許容する。それを修正するために政治は社会福祉や労働規制を進めるが、規制を嫌う資本は自由を求めて国外に移動し、国内の空洞化が心配される。あるいは法人税が高すぎれば海外に移転すると企業は居直りをかけるなど、目下のところ資本は政治に攻勢をかけて、人間を置き去りにしようとしている。
 自由競争のゴールは何か。経済は放置すればそれ自体が「自己目的化」して、いまのままでは生産力や消費力のない弱者の排除や差別、生命の否定になる。それは「経済活動」の自己否定で、産業革命以来、児童労働、労働争議など人間を疎外して社会問題化した歴史を持つ。
 ○それぞれの施策は全体を見てやっているかというと、全体感に欠ける。(流通労組)
 ○さまざまな問題は経済社会が市場主義と資本主義によって行きどまり、人間が棄損されていることによる。経済社会の緊張と、脱落してはいけないというストレスが、パワハラやウツとして攻撃や自己喪失の姿で発現する。問題を人間の側から解き明かし、経営や地域社会、家庭の在り方までも考え直さなくてはならない。現象の対処療法では解決しない。(流通労組)
 そのほかにも、
 パワハラ、メンタルヘルス対策として職場の会話に禁句が多くなり、自由なおしゃべりがしにくくなっている。
 上司の立場からいえば注意・指導の範囲のことが、受け取り方によって『いじめ』になり、翌日から出勤しなくなる。
 同じ会社に長く勤務できないで、社外のカウンセラーに何度も相談に来る人がいる、などなどの報告が続いた。

(3)民主主義は機能しているか
 民主主義は個人の意義が国家に優先する政治体制である。私益と公益の調整は選挙による代議制議会で決める。資本は国境を越えて活動し、国の政治体制の制約を受けない。
 ○物質的な価値観は行き着くところまで来ている。これからは精神的なことが重要になる。疲弊した精神部分の立て直しが大事だ。個別労使紛争もメンタルも、対症療法しかなくてモグラたたきだ。もっと根本の、人生の価値観をどのように転換するかが必要になってくる。(メーカー開発)
 ○経済の構造と働き方が複雑化したが本来はどうあるべきか、社会的コンセンサスができていない。
 企業別組合は自社組合員を優先するので、組合の力は全労働者に波及しにくい。社会的活動の問題は労も使も、共通して横のつながりがない。協調行動が難しい。(社労士)
 ○労働分配率の後退は、組合が経済闘争だけに傾注した結果の失敗だ。アメリカの生活にあこがれ、わかりやすい賃金の数字に飛びついた。本来ならば人生の 2/3の、労働以外の時間を大切にしなければならないのに、その価値を賃金だけに収斂してしまった。自分たちはどんな生き方をすればよいのかをあまり考えずにきた。右肩上がりが止まった時、どうすればよいか相談しなかった。(流通労組)
 ○労働分配率ではなく、企業の利潤をどう分配するか。資本家への分配、内部留保を含めて、組合は経営の言いなりになってはいないか。(カウンセラー)
 ○働くこと、生きること、人間にとっての大命題が未確立だ。働くことに対する愛着も無く、後輩に仕事の薫陶も語れないまま、ここまで来た。(流通労組)
 ○組合問題と「人生」には密接な関係がある。生活が安心でないと腰を据えて仕事ができない。マズローの言うように、低次元の欲求が満たされないと、自分の仕事の社会的価値を考えるなどの、高次限の欲求は生まれない。
 マクロでみれば、このまま資本中心の自由競争を続けていたら、労働力の価格はどんどん下がる。しかし資本の暴走は一企業内労使で解決できない。(メーカー人事)
 理不尽な要求にNOが言えない。法治国なのに職場で法治が通らない。長時間労働など、労基法違反は企業内では愛社的行動となる。セクハラは社会では犯罪である。
 みんな自分のことで精いっぱいで、助け合いが生まれない。日常的なコミュニケーションがないから、孤立するのが怖くて言いたいことが言えない。セクハラ・パワハラなど組織風土問題は、管理職など特定個人の「教育」だけでは改善しないのではないか。

価値観転換のために人生設計を
 ○アジアからみれば日本は相当豊かだ。パートは正社員を、かわいそうな働き方という。日雇いで満足という労働者もいる。価値観を転換できないか。(流通労組)
 ○会社に縛られない生き方は、視点を変えれば「豊か」であっても、非正規カップルが多くなると少子化高齢化のスピードは上がるだろう。社会の在り方から考えると、個人的満足だけの視点でよいのか。(公務員)
 ○企業や会社の資産はヒトモノカネ、プラス時間が忘れられている。人生80年のうち、旬の時間は長くない。個人は自分の人となりを形成する、個人の自由時間を確保せよ。それを優先する提案を会社にせよ。会社は時間の制約の中でどうするかを算段せよ。
 「仕方がない」の壁を打ち破るには、人間としての自分の時間をどう持つか。それは会社や組合が考えて提供してくれるものではない。個人の時間と勤め人時間の割り振りをもう少しきっちりできるのではないか。(プータロー)
 ○雇用が保障された人たちの「自分の時間づくり」の一方で、生活の糧のないホームレス、失業者、求職大学生、日雇いなど、働く場がない人たちがいる。非正規労働者の雇用の受け皿が欲しい。
 長時間労働を問題にしながらワークシェアが進まない。浮上しては消えるワークシェアリングをもう一度、組合は考えてほしい。収入を増やすことと自分の時間を増やすことは背反しない。生きている人間に対する施策が欲しい。
 最近はいろいろなデモがあるが、組合としての意見が表明されていない。組合は経営と全く同じで失望している。(カウンセラー)
 ○労働組合という限りは働くことそのものの、人間及び社会にとっての意義や意味を、われわれ自身が学んで行動する運動を築いていかなければならない。にもかかわらずそういう働きになっていない。組合は、働くことが人間と社会にどのような意義を持つのか、学んで気付いて、行動しなければならない。(流通労組)


働く哲学を打ち立てよう             まとめのコメント
ライフビジョン学会顧問 奥井禮喜

 労働運動は長年、ワークシェアやフレックスタイム、労働時間短縮などを理論化できなかった。職場の学習活動も広がらず結局、ナショナルセンターから単位組合まで全て、運動の柱として「賃金労働条件の維持向上」一本槍で、「働く哲学」が深まらなかった。
 現在の経済学はすべての経済取引にかかわる人を、合理的に損得でものを考え功利的に行動する「ホモエコノミクス」として理解している。企業活動は全て金銭合理性で生成され、メセナ、CSR、社会保障の企業分担などもその範疇にある。
 資本主義の仕組み自体が、金銭合理性で個別資本を増やすことに焦点を置いている。われわれ労働者はそこと戦わなければならない。
 正規と非正規の労働問題はテーゼとアンチテーゼ、カルチャーとサブカルチャーの問題として対置するものではない。正規も非正規も同じテーゼにある、という座標に立って戦略戦術を作ったときに、問題が解決すると心しなければならない。
 自分が働きたいときに働く、まさに自由に働ける、というのが、人生と労働についてわれわれが一番願っていることだ。しかし働きたいときに働けるというのは幻想である。
 雇用に関しては、雇用者には雇う自由と解雇する自由があっても、働く方はほとんどの場合、働かない自由は即、死活問題になる、ここに非正規社員問題がある。

対等を実現するために憲法の「働く権利」
 日本は市民社会である。市民社会では雇用者も被雇用者も本来は対等である。雇うほうは雇いたいとき雇い、いらなくなったら解雇することができる。雇われる方は、働きたいときだけ働いて働きたくないときは働かない。これが市民社会での「対等」であるが、日本国憲法では、雇われる方の権利が弱いから組合を作って働く人をバックアップしようとした。
 憲法は第11条に基本的人権を保障し、基本的人権を25条の最低生活の保障につなげ、最低生活の保障を27条の勤労権・働く権利で確保し、働く権利は労働基準法の元になり、労働組合法、労働三法である28条に結実する。
 憲法における労働組合の地位は、基本的人権を実現するものである。したがって雇用があるところでは必ず組合を作らなければならないのが筋である。

資本主義の制度的矛盾
 資本主義制度は自らの中に矛盾を抱えている。
 たとえば賃金は、経営者からすると「コスト」である。労働者が満足できる賃金を払えば経営者がしんどい、その逆もある。賃労働に於いて両者には、絶対に切り崩せない矛盾がある。
 さらに経営者はコスト削減、賃金の削減には熱心だが、労働時間の削減には熱心ではない。
 資源・エネルギー問題の観点から、本当に従来通りの経済成長推進でよいのか。アダム・スミスの道徳経済論の段階においても、資源は公正公平に、効率的に使おうという考えがすでに入っている。しかし今日における経済成長推進論者には、この視点がない。労働時間の過剰供給も過剰生産、価格競争、環境破壊、資源荒廃と無関係ではない。

金融資本主義の問題
 資本の無政府性、無国籍性によって世界はバブルになっている。MITスローン経営大学院長デビッド・シュミッタライン教授が、金融には二側面があり、資本の最大利益を出すための活動と、リスクの分散だと教えてきた。サブプライムローンでは教えた通りに、リスクを分散させてばら撒いた。しかしたくさんやったので、自分が売ったリスクを自分が買うことになってしまった。もう少しきちんと教えるべきだったと、反省にならない反省をしている。(2008.12. 6日経新聞)同じ紙面で別の教授は、企業がボロボロになっても経営者が何 100万ドルも持って帰るような気風に誰がしたのか、と怒っている。
 この金融資本主義をどう考えるか。これはこつこつ物を作っても、価格がとんでもないところで操作されるということだ。ファンドがいくら儲けても、基本的にはお金は商品ではない。われわれがまともに働いても、金融資本主義のおかげでとんでもないことになっている。
 「カジノ資本主義」(1998・米スーザン・ストレンジ・講談社学術文庫)では、米国は一国覇権主義であり、それを裏付けるのは軍産複合体と、世界のマーケットを金融で牛耳ることであると喝破している。われわれが直面している問題の根っこは大きい。
 1960年代、アメリカ経済は栄光の30年と言われていた。ガルブレイスや都留重人ら、当時の世界的経済学者が集まって、「資本主義は変わったのか」との議論をした。すでに米国は軍需費が国家予算の20%あった。さらに1971年ニクソン声明による金とドルの交換停止、その後の世界へのドル撒布の道へとはまり込んだ。これが世界のバブルの根源だ。
 バブルを根元から断つには、バブルの元になる「札」を少しずつ減らすことだ。減らすためには、米国に世界の防衛を依存するような考え方を改めることだ。にもかかわらず日本の現政権は、これと全く逆の道を進もうとしている。

「私」からスタートしよう
 ではわれわれはどうするのか。
 価値観を転換するのは一人ひとりである。自分はどうしたいのか、「私」からスタートしよう。
 哲学者シモーヌ・ベイユは自分が最末端の女工になって、約一年間の現場労働をやった。自分を材料にしてこれからの労働運動に供しようというものであった。当時の工場では逆らうと首にされ、仕事は忙しくて悲惨な状態だったが、しばらくすると慣れてきて、こう述懐している。
 怒られて反発するより怒られないようにしようと思うようになり、つまらない仕事にすら達成した気になる、もうしばらくすると、何も考えなくなる、本など読むという気がなくなる。
 仕事とは単に給料がよいという話ではなく、一人ひとりがどう生きようか、という問題である。自分の考え方を体系立てるために、個人主義を基盤とした「人生設計」が必要である。
◆□◆
 ―――人は「大局よりものを観るの明」を欠きやすい。そうならぬためには「哲学的教養」が必要である。さらに大局そのものの判断を誤らぬためには、人生に対する信念が大切である。(吉野作造)―――r
 ライフビジョンの「人生設計セミナー」は、普通の人々が哲学的教養と大局観を養うための、日本で初めての研修手法である。







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