ライフビジョン学会はサラリーマンを中心とする勉強会組織。毎年、この一年の学習成果を年報「あかでめいあ」として発表している。
その勉強会の一つ、「読書会」は毎月第四土曜日13時からの月例開催。課題図書を決めてメンバーが輪講しています。
会場は当事務所、参加ご希望は事前ご一報ください。
本文注釈(*1)
●々(がいがい)の徒
「がい」は耳偏に貴。
本文注釈(*2)
トランスヴァール共和国のために祈る英国人
=イギリスは南アフリカのトランスバール共和国とオレンジ自由国に戦争を仕掛けた。
本文注釈(*3)
フィリッピンのために祈る米国人
=アメリカはスペインからフィリピンを奪い取った。
本文注釈(*4)
触蛮の戦い
=小さい料簡から互いにつまらないことで争うことのたとえ。
本文注釈(*5)
虞●の争い
ぐぜいのあらそい。「ぜい」は草冠に内
=互いに自己の利益を主張して争いを起こし訴えることで、他人の行いを見て自分たちの非をさとり、争いを止め、訴えを取り下げること。
本文注釈(*6)
ハーグ万国平和会議
=1899年26か国代表により、第2回は1907年44か国代表により、ともにオランダのハーグで開催された。軍縮については成果を得なかったが、国際紛争平和的処理条約、毒ガス使用禁止宣言などが採択された。 |
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ライフビジョン学会はサラリーマンを中心とする勉強会組織です。1993年に設立以来、今年で20周年をかぞえました。勉強会活動のひとつに「読書会」があります。中国古典六大小説に始まり、最近では明治以降の近代化に焦点を当てて「日本の民主主義の元」を探っています。
読書会メンバーによるレポート「幸徳秋水『帝国主義』」(あかでめいあVol.20掲載)をお読みください。 はじめに 『二十世紀之怪物 帝国主義』は、明治4年生まれの幸徳秋水(本名伝次郎)29歳のときの著作、帝国主義批判の書である(本人は著ではなく述であると言っているが)。
彼はこの僅か一〇年後には大逆罪で刑死。この本が出版された西暦1901年といえば、まさに二〇世紀の始まりの年。彼は一九世紀の半ば以降欧米諸国に広まっていった帝国主義思想が、二〇世紀にも続くのであれば世界・人類の未来は危ういと警鐘を鳴らす。
幸徳秋水の秋水という号は、同郷(土佐)の先輩であり尊敬する師でもある中江兆民につけてもらったものだが、その号の通り、この著作も秋の澄み切った水のような、研ぎ澄ました鋭い刀のような主張に溢れている。
この本を読んで、秋水が例言三則で言うところの『●々(がいがい)の徒(*1)=無知な人』である私は、欧州の歴史に関していかに疎いかを身にしみて感じているところである。
ライフビジョン学会読書会 伊東正人
愛国心の本性 秋水は国家経営の目的について、社会水準の進歩であり人類全般の福利であるとして、正しい科学的知識や文明的道徳に基づく自由・正義・博愛・平等の社会(国)を理想と考えていた。
帝国主義についてはこう言っている。
――帝国主義は愛国心を経となし、軍国主義を緯となして、もって織り成せるの政策にあらずや。――r
では愛国心とは何なのか。私たちは何故我が国家、もしくは国土を愛するのか。
――幼児が井戸に落ちようとしている時、それを助けようとする純粋な同情、惻隠の念、慈善の心と愛国心は一緒のものか?(孟子(公孫丑上))――r
いや、そうではない。
――今の愛国者や国家主義者は、トランスヴァール共和国のために祈る英国人(*2)を愛国の心なしと罵り、フィリッピンのために祈る米国人(*3)を愛国の心なしと罵る。
悲しいことである。愛国心の愛するところは、自家の国土に限り、自家の国人に限る。他国を愛さずただ自国を愛する者は、他人を愛さずただ自家一身を愛する者である。――r
また、愛国心は故郷を愛する心に似ている。しかしそれは尊いものである反面、卑しむべきところもある。
――人が故郷を思うのは失意逆境の時、異郷が忌み嫌うべきものであるためである。故郷に対する純粋な同情惻隠ではなく、他郷に対する憎悪なのである。得意順境の時に故郷を思うのは、さらに卑しい心である。郷里に対する同情惻隠ではなく、一身の虚栄であり、虚誇であり、競争心である。項羽も言っている、『富貴にして故郷に帰らずんば、錦を着て夜行くが如し』と。(史記 項羽本紀)――r
愛国心は、つまり外国外人の討伐をもって栄誉とする好戦の心であり、好戦の心は即ち動物的天性である。そしてこの動物的天性は、好戦的愛国心である。文明の理想・目的と相容れないところではないか。
さらに、愛国心を盛んにすることは、その敵人に対する憎悪を増大させるが、決して同胞に対する愛情を増大させるものではない、とも言っている。国愛すれども、その民を愛さず。それが愛国心の本性だと。
囲碁と領土問題 帝国主義国は他国の領土を次々と奪っていこうとする。自国の領土拡張を目的とする。
ここで一国の領土とは何かを考えるのに、囲碁との比較も一興なのでお許し願いたい。なぜなら囲碁はまさに陣地取り、領土取りの戦い(ゲーム)であるから。
敵との戦いの結果、勝負のつき方には四通りある。もちろん一局全局の中で部分的に何カ所にもいろいろな状態が出現する。
(1)完全勝利、敵地は自国の領土になる。
(2)セキ、即ちお互いに自分から先に打つと自分の石が取られてしまうため、どちらからも打つことができない形。
(3)劫(こう)、即ち勝つか負けるかを一手一手争い最終的にはどちらかが勝利する形。
(4)完全敗北、自国は敵の領土になる。
昨今の尖閣諸島を巡る日中の争いは、先人達の智恵で(2)のセキの状態にあったものが、日本側が不用意な一手を打ったために均衡が崩れたことが原因で、今はいわば(3)の劫のような状態になっている。
お互いあの手この手を繰り出して、最終的には決着を付けなければならないような事態にも成りかねない。囲碁で言えば最終的に敵に陣地を取られても仕方のない悪手を打ってしまったことになる。
愚かさを恥じよ そもそも国土、領土とは、自分の物だとは言うが、一体いつから誰が決めてそうなったのか。どんな古い文献であろうとそこに書かれたことが真実かどうかの判断は難しい。
土地(国土や領土)というものはそもそも、所有ではなく一時的にお預かりしているに過ぎないのではないか。人間ひとりに必要な土地の広さは、トルストイが『人にはどれほどの土地がいるか』で言うまでもなく、最後は一畳程度に過ぎない。ついでながらカメラが趣味の某氏は曰く、どんなにたくさんの写真を撮っても人間が最後に必要なのはたった一枚の写真だけだと。
何を血走って騒ぎ立てるのか、小さな小さな島のことで。それはまさに《触蛮の戦い(*4)》だ。その愚かさに双方とも早く気づいてほしい。《虞●の争い(*5)》における周の役割を果たしてくれる国は現代には存在しない。従って自分たちで徳を高め、争うことの恥ずかしさに気づき、そこを双方の共有地とし逆に両国の友好のシンボルに高めることができたらと思う。
軍拡は好戦的愛国心 秋水は軍国主義についてこう言っている。
――軍国主義は決して社会の改善と文明の進歩に資するものではなく、戦闘の習熟と軍人的生活は、決して政治的社会的に人の智恵を増進し得るものではない。
そして陸軍部内は圧制の世界、威権の世界、階級の世界、服従の世界である。道理や徳義の入り込める余地はない。
戦争はただ猾智を比べる術であり、その発達は猾智の発達である。
所詮戦争は隠謀であり、詭計であり、女性的行動であり、狐狸的智術であり、公明正大の争いではない。――r
なぜ軍備拡張を続けるのか。その原因は一種の狂熱であり、虚誇の心であり、好戦的愛国心である。更に続けて、
――甲国民は曰く、我らは平和を願うしかし乙国民の侵攻の非望を有するを如何と。乙国民もまた曰く、我らは平和を願うしかし甲国民が侵攻の非望を有するを如何と。世界各国で皆が同一の辞を成さざるはなし。噴飯の極なり。――r
それはまるで子供達が雛人形や五月人形の美や豪華さを競っているかのようだ。児戯の類であると同時に恐るべき惨害がこの中に胚胎されていると警告する。
しかし世界平和の希望は夢物語ではない。1899年にロシア皇帝ニコライ二世によって提唱されたハーグ万国平和会議(*6)において、欧州各国、日本、清国など全26ヶ国の参加国が採択した条約・宣言などをもし確実に実行すれば…。
正しい国の愛し方 話は変わるが、最近の出来事には何故?と感じることが多い。
アメリカのダウ工業平均株価が約14,397ドルと市場最高値を更新中(3/9現在)。
日本の国債発行高は一般会計税収を上回り続ける。防衛予算は毎年4.7兆円程にもなる。
憲法改正は中身の議論ではなく、改正の議論(第96条)が進む。
政府はサンフランシスコ平和条約が発効された4月28日(1952年)を『主権回復の日』として記念式典を開く意向。集団的自衛権の見直し議論。
この内閣が発したいのは『強い日本』というメッセージのようだ。
特に気になるのはこの国の外交である。外交とは信頼関係の構築であり、それを行うのは人と人の関係で、その方法は話し合いで、お互いをよく知ることに尽きる。人が変わればその人の知識や信頼関係も消えてしまうから、できるだけ長く継続的に付き合うことも大切だろう。
マスコミの記事は物事の本質に対する突っ込みが不足しているように思う。相手国の挑発的な面ばかりを強調し、一部の目立った行動が全てでもあるかのように報道する。いろいろなことにすぐさま反応し大声を出す。庶民は意外と冷静だったりもするのだが、マスコミに沈思黙考という言葉は死語になってしまったのか。
正しい国の愛し方とは何だろうか? そもそも国とは何なのか。日本人、中国人、韓国人とは何なのか。私はこの二、三千年の歴史・交流を考えると極論すればモンゴル人、東南アジアの人々も含めて同じ民族であると言っても良いと思う。(別に八紘一宇を目指しているわけではないので、念のため。)
いじめというものは、やった方は忘れていても、やられた方はいつまでも忘れられないもの。それがトラウマになったりもする。
国と国の関係上は過去の過ちを経済援助などで清算できたとしても、個性を持った人間の集団として国を見た場合は、金で解決して一件落着と簡単にいかないものだと思う。経済援助があったからそちらの国は立ち直れた、経済発展できたのだ、などと大きな声で言わないで欲しい。恥ずかしいから。
私たちに不足しているのは忖度する(相手を思いやる)心ではないのか。過去に行ったことをきちんと学ばなければならない。謙虚に。
政治に関与する義務を だいぶ前のことであるが、噺家の春風亭小朝が枕で、『BUSUに生きる権利はあるのか?権利はあります。ただ義務がないだけです。』と話していた。その時はただ笑って聞いていたが、これをBUSUではなく国民に、生きるではなく政治に関与すると置き換えてみると、今までの国民は権利があることは分かっていたが、それを義務とは思っていなかったということになり、その権利の行使が選挙の時だけだったような気がしてくる。
選挙によって選ばれた方々は、こちらが望んでいないことでも国民の負託を受けたからといろいろやってくださる。それって民主主義と言えるのかと、いつも疑問に思っていた。加えて選挙が終わったら何もかもお任せ、良きに計らえ的な態度であった自分も反省した。
チェックや評価の伴わない公的な人間の営みなど無いはず。これからは何かときな臭いこの国の政治をよく見ていかなくてはと思っている。
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