2013/08
ボクが見聞きした敗戦前後の話ライフビジョン学会





 31年前に憲法ブームがあった。その火付け役の一冊である小学館の初版本(ハードカバー)を手に講演する加藤氏。最近はコンビニで、ソフトカバーの復刻版がブームになっているという。

 加藤孝一 ━─━─━─━─━─━
 1936年生まれ、中央大学法学部卒業。公務員を中心に人材教育、人事管理の講師として活躍、同分野で著書多数。加藤研修総研代表、ライフビジョン学会顧問







































ライフビジョン学会
同時並行学習会

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2013年6月22日(土)13:00-17:00
ライフビジョン学会主催
憲法の公開学習会
――改憲の賛否を問われる前に
知っておかねばならないこと――
 

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体験報告 ボクが見聞きした敗戦前後の話
  加藤孝一(ライフビジョン学会顧問)

問題提起 改憲の賛否を問われる前に知っておかねばならないこと
  奥井禮喜(有・ライフビジョン代表)

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*ライフビジョン学会では「同時並行学習会」として、政治や社会の動向に並行するタイミングで、シンポジウムやセミナーを開催しています。
 これらは会員以外にも公開し、社会の問題を当事者として考える仲間を増やし、民主主義の成熟を進めます。
 詳細案内及び申込方法は会報とホームページ他でお知らせします。
 次回学習会は9月ごろを予定。























































































































































































日本の戦後史と現在の日米関係を
決定づけた出来事



■対日平和条約
 第二次大戦の終結と国交回復について、日本と連合国との間で結ばれた条約。サンフランシスコで調印。

■サンフランシスコ平和条約
 第二次世界大戦後、敗戦国日本と戦勝連合国48ヶ国の戦争終結の平和条約。1951年9月8日調印、1952年4月28日発効。
 この条約の発効により連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復したことになっている。現在の領土問題はここに端を発している。

■日米安保条約
 サンフランシスコ平和条約と同時に締約。アメリカ軍部隊を在日米軍とし、他の連合国軍部隊は撤収した。日本の自主防衛力を除去した後、代わりに米軍が駐留して防衛する。米国の「駐留権」にもとづく片務的な性格を持つ。沖縄ほか基地問題はここに端を発する。

■砂川基地闘争
 在日米軍立川飛行場(立川基地)の拡張に反対して、1955年から1960年代まで闘われた住民運動。

■日米新安保条約
 10年を期限とした前回の日米安保の更新条約。1960年6月締結。
 集団的自衛権を前提とした双務的体裁を採っており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力することを規定したが、在日米軍の諸特権を日本国民の諸権利より優先させる状況は継続されている。

■全学連
 全日本学生自治会総連合。各大学などの学生自治会の全国的連合機関。






























































































発行所 株式会社 童話屋
2001年2月26日初版

「あたらしい憲法のはなし」は1947年8月2日に文部省が発行した中学校一年生用の社会科の教科書である。1952年3月まで使われて、4月に姿を消した。この本はその復刻版である。2001年6月5日第3刷発行
 7月21日の参議院選挙は、日本国憲法改正と自衛隊の軍隊化を標榜する自民党が圧勝しました。国民の多くは明治憲法も日本国憲法公布のときも、憲法の意義や意味に無関心でした。今回もまた、憲法の中身に関心が低いままの政権選択でした。
 未来の歴史のために、悲惨な戦争から生まれた憲法の精神を忘れてはいけない。ライフビジョン学会では2013年6月22日(土)午後、東京中野NULホールで憲法の学習会を開催しました。
 当日のプログラムから、加藤孝一氏の体験報告を紹介します。

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 私は1936年(S11)、二・二六事件の4ヶ月後に生まれて今は77歳で、10歳ぐらいまでは「旧憲法」の下で生きてきた。子供ながらに過酷な経験をした体験からすれば、もう戦争は本能的生理的に嫌だ。この気持ちは言葉では言い表せられない。
 今は金持ちでなくても食べるものに苦労しない、徴兵制度もない、自分の子供たちを徴兵されることもない。今の日本国憲法を大事にしながら、日々感謝して生きないともったいないという気持ちでいっぱいである。


7歳の子供も「戦争」に組み込まれた
 1941年(S16)12月8日に、日本はハワイ・オアフ島にある真珠湾を奇襲攻撃して、太平洋戦争を始めた。すでに1937年(S12)から中国への侵略戦争も始めていて、私は戦時体制の中で育った。
 1943年(S18)に国民学校初等科に入学した。尋常小学校はすでに国民学校と呼び名を変えていた。「君たちはみな小国民、大人はみな戦争に出ているので、銃後を守るのは小国民だ」と毎日毎日、学校で言われた。
 この年に第一回学徒出陣、徴兵年齢が20歳から19歳に繰り上げになった。翌1944年(S19)には学童集団疎開が始まり、中学生以上の学徒動員が本格化した。中学生はまだ子供なのに軍需工場に行き、朝から晩まで働いた。ほどなく「17歳以上兵籍編入」となった。
 1944年、敗戦の一年前になると戦争が激しくなった。防空壕を強制的に作らされ、竹やり訓練が始まった。隣組の組長さんが配給の割り振りからお上の命令伝達まで、最末端組織として統制をかける。その嫌なおっちゃんが全権を握っていた。
 年末から連日のごとく大規模空襲が始まった。焼夷弾攻撃が来ると灯火管制が敷かれる。警戒警報が出ると一個だけ点けている40ワットの暗い裸電球を、光が漏れないように風呂敷で覆う。まもなくサイレンが鳴る。いまでも大工場のそばなどで、昼休みの「ゥウーゥ」というサイレンを聞くとドキッとする。トラウマとは怖いものだ。
 空襲警報が鳴ると同時に防空壕に飛び込む。夜も着の身着のままで寝る。たけのこの皮のような子供用のゲートルを、すばやく巻く練習をしょっちゅうやった。枕元には大事なものを入れたリュックを置き、それを担いで玄関を飛び出す。父はすでに兵隊として引っ張られていたので、家に男はいなかった。小学二年のときだった。
 家の前の歩道と路面電車が走る阪神国道の間の街路樹を引き抜いて、1−2家族が隠れる程度の小さな防空壕を作った。そこに震えながら飛び込むと、バリバリバリーッと爆弾が落ちてくる。防空壕の隙間から覗き見ると、国道向かい側の二階建ての大きな屋敷が、まるで映画のように炎上し、30分もしない間に焼け落ちる。周りには焼夷弾がいっぱい落ちてくる。小学二年生の時の経験なのに空襲で焼けていくさま、空襲警報の怖さを今でも鮮明に覚えている。
 戦争が終わってから大きな川に遊びに行くと、川原に焼夷弾がブスブス、突き刺さったまま残っていた。大人からは、触るな、怖いぞ危ないぞと言われていたが、不発弾などいくらでも残っていた。


自宅に“武器”を置く異常
 竹やりは竹製の物干し竿の先をスパッと切ったようなもので、どの家にも2−3本はあった。子供用には小さな竹やりを作ってもらうが、遊び用ではなかった。
 週に三回ぐらい集められて、組長さんが軍服姿で軍人と同じ調子で叫ぶ。「鬼畜米英、刺し殺す!」「一人一殺、一億玉砕!」。17歳以上の男はもういない。上陸したら殺してやるという気迫で女性たちがヤッ!ヤッ!ヤーッ!と声をあげて突く訓練をした。誰も異常とは思わないし、子供もそれを当たり前に思っていた。今から思うとなんとも滑稽な、完全武装の米兵をそんなことで殺せるものではないのに、社会全体がそういう雰囲気にされていた。 
 学童集団疎開の有様も克明に覚えている。全校生徒は校庭に集められ、校長が軍服姿で訓示した。袋や破れたリュックのようなものを担いで並んで、小麦粉の袋に入った小さなものをうやうやしくもらう。それを持って一列に、誰も話す者もいず一クラスずつ、粛々と校門から出て行く。残るわれわれは黙って見送る。
 それはやけに寂しい、むなしい記憶で、こちらはぽつんと校庭に残される。その寂莫たる光景は今でも忘れない。彼らがどこに疎開したのかも知らされていない。いつ帰ってきたかも記憶がない。
 1945年(S20)8月15日敗戦。このときは初等科三年生の9歳であった。私は縁故疎開として和歌山の山奥の、周りにあまり家のないところに若い叔母と疎開していた。
 近所の大人たちは午前中から変な様子だった。子供なので玉音放送は聴いていないが、大人たちがボヤーッと、日本が負けたとしょぼくれていた。午後になると銃声が数発、聞こえた。負けたのに撃っているんだなと思った。人家から2kmぐらい離れたところの駐屯地に部隊があって、夕方、馬に乗った将校が狂ったように乱射しながら走り回っていた。危ないから出るなといわれた。怖かった。


平和と自由、無秩序と混乱
 敗戦から3−5年は、米軍占領下の平和であった。爆弾も落ちず警報もなく、拍子抜けしたような静かさで、何をしても誰も何も言わない。偉い人の悪口を言っても引っ張られない。
 しかしその一方で占領下の平和と自由、無秩序と混乱はすさまじかった。良いも悪いも何でもあり、道徳倫理くそ食らえ。小さな政党が雨後の筍の如く登場した。私はこの話をするために四種類の年表を、10日ぐらい掛けて読み込んだが、オモテの世界もウラの世界も、今から思えば漫画のような社会だった。
 ある年表によると1948年(23年)、上野公園に11月の夜に警視総監が視察に行くと、男娼ら30人に囲まれて殴られたという。権威が崩壊してやりたい放題であった。闇屋、泥棒、殺人、子供の身売り、闇の女、首切り、復員、仕事のない大人たち。毎日のように法律ができたり改正されたりしていた。
 戦時中、大企業はほとんど軍需産業になっていた。戦争がなくなり武器弾薬が不要になると、万人単位で首切りするので失業者があふれている。1−2年経つと大陸や南方など外地から兵隊が復員するが、仕事がない。特に高級軍人は恨みの目で見られて、どこも雇ってくれない。町中失業者だからカッパライでもしなければ生きていけない。
 そんな中で闇屋は英雄に見えた。何もないのにどこかからか食べ物を持ってくる。闇屋のおっちゃんと仲良しになると具合が良いが、ウラ家業だ。普通の人も泥棒する。身売りもひどいものだったらしい。「パンパンのネエチャン」と呼ぶ「闇の女」がいっぱい発生した。進駐軍の20歳代の兵隊がいっぱい来るのでいろんな問題が起きていた。
 東京もひどかったが、私のいた関西の住宅地もひどい状態だった。
 私が大学に入るために初めて東京に来た1955年、敗戦から10年たっていたが、有楽町や新橋のガード下には、まだ、戦災孤児や浮浪者、傷痍軍人がいっぱいいた。国のためにこんな体になった、と白衣を着て包帯巻いて、アコーディオンで軍歌を弾く人もいた。何ともいえない光景であった。


ルールが反転した敗戦後
 戦争中は本当のことは何も言えない、基本的人権などもちろんない。言論、出版の自由もない。筋の通った教授は引っ張られ、ぶち込まれた。「戦争はいやだ、いつ終わるのか」などと子供が言えば、大人たちに真剣に叱られた。何もいえない、地獄の時代だった。
 近所の三男坊が出征したときは、隣組が集まって軍歌を歌い、組長が軍服姿で「お国のために命を捧げてきてください」と叫ぶ。しかしそれは全部嘘ごとで、そういわなければならなかった。そのお兄ちゃんが復員して軍服のままうちの玄関で、「ただいま帰りました」と直立不動の敬礼をした。大人たちは本音で、生きて帰ってよかったねと喜びあった。あらゆることが一夜にして変わった。
 学校でも、昨日まで「鬼畜米英」と教えていた先生が、GHQの命令で「日本は生まれ変わりました、平和が来ました。日本は無条件降伏しました。これからは軍備を持ちません」という。生徒に話が違うと追い詰められて、まじめな先生は今までの罪を悔いる、これから生きる自信がない、生徒たちに合わせる顔がない、と自殺した先生が出たと聞く。


占領下の日常
 1945年(S20)、占領軍の進駐の行列を見た。阪神国道を大阪方面から神戸方面に軍用トラックが隊列を組み、ジープには5−6人の兵隊が乗っていて、全員が完全武装の鉄カブト、カービン銃の引き金に手をかけて乗っている。その行列が一昼夜、続いていた。
 そのときに進駐軍が国道を通る、女子供は隠れろ。女は襲われるから絶対に外に出てはいけない。各家は玄関戸に釘を打てという噂が流れた。うちも父親はいないので、玄関を釘付けにして開けられないようにし、雨戸とカーテンを閉めると二階のカーテンの隙間から、恐怖と好奇心の入り混じった心地で、何時間も眺めていた。
 自爆テロの発祥は神風特攻隊の日本ではないか。歩兵が爆弾を抱えて敵地に飛び込み爆死する。爆弾三勇士は神様になっていた。20歳そこそこの完全武装の兵隊たちにはこれが知れ渡って、住民が何をするかわからないとの恐怖心があったと思う。
 近くのガソリンスタンドの跡地に闇市が立っていた。小さな町でも闇屋が幅をきかしていた。たたみ半畳の店が数十軒ぐらい、いろいろなものを地べたに広げて売る。
 私は闇市を歩くのは楽しかった。見たことないものがあるし、仲良くなるとパンの端ッコなどをくれる。
 週に一回ぐらい、米軍が闇屋の手入れに来る。闇屋にある高級品はGIの横流し品で、缶詰はパイナップルやコンビーフなど、良いものがいっぱいあった。それを摘発に来る。それが凄まじかった。
 誰かが「来たぁ!」と叫ぶ。でっかいトラックが横付けになり、ジープからパラパラと兵隊が下り、何人かの闇屋をトラックに投げ入れ、十数人を逮捕すると30分ぐらいで帰っていく。いなくなるとまた、逃げのびた闇屋が集まって営業再開する。それはしょっちゅうやっているから、「来たぁ!」と言うとわれわれも物陰に隠れ、「行った行った!」と言うとまた集まってきて、大人たちは誰がつかまったとかしゃべっている。
 それでも4−5ヶ月たつと米軍も、日本人はテロの心配はないとわかってくる。町を巡回するジープに子供たちが集まって、ハローハローと手を振る。教えられたわけではないのに英語をしゃべった。大事な言葉はプリーズ・ギブミー・チョコレート、チューインガム。それだけで米軍のお兄ちゃんたちは面白がってジープを止め、きゃっきゃと笑いながらポケットからチューインガムをばら撒く、ワーッと取り合う。ときどきパンなどパーッと捨てる。われわれはひったくりあって食べる。私はそこで、パンは白いものだと初めて知った。それまで知っていたパンは黒くて、どんぐりの粉でできていた。
 心底うれしかったのは、小学校であるとき、「国際赤十字から慰問の品が来ました、皆様にお配りします」と先生が言った。日本の鉛筆は黒っぽい緑色だったが、もらったのは濃い橙色の鉛筆が一人2本、太い罫の便箋が、これは一人一冊は当たらず数枚ずつ破いてもらったと思うが、その紙の素晴らしいこと。ちょっと厚手で白くて、紙はザラ紙しか知らなかったから、うれしくてもったいなくて使えなかった。
 昭和21年1月1日、天皇の人間宣言の放送があった。11月3日、日本国憲法の公布があったが、話題にもならなかった。
 このあたりまでが明治憲法の、大日本帝国憲法の時代であった。


自由の謳歌
 1947年(S22)新憲法施行、日本国憲法の時代が始まった。占領下での新憲法は、しかし、食べるのに必死だから国民の関心は低かった。結核が増えた。性病も増えた。私も小学3−4年ぐらいに軽い肺結核で、家でぶらぶらしていた。ペニシリンがない時代だった。
 その4月には6・3・3制の新制小学、中学がスタートし、男女共学の義務教育が実施された。
 10月に電球が1世帯1個、配給になった。11月11日には判事が栄養失調で死亡した。「私は法に基づいて人の罪を決めるのが仕事だから、自分が法を犯して闇米を食べることではできない」というものだった。大人たちは建前では「まじめな裁判官だ」と言い、裏ではこそこそ「まじめ一本でも考えものだ」と言っていた。
 1948年敗戦から4年、私は新制中学に入った。新制中学のでき始めは活気があって楽しかった。生徒も先生も自由自由で、自由を謳歌していた。
 焼け残りの校舎で、兵隊帰りの先生は、軍服に豚革の「ドタ靴」を履いて、兵隊から帰ってきたそのままの姿で教えていた。戦時中の代用教員が先生になったような、若い先生が多かった。
 高校時代、ある先生は、まだそのままの姿で通学していた。生徒のほうが良い革靴を履いていて、先生を気の毒に思った覚えがある。
 当時は何でもかでも「革新」流行りだった。後に県知事になった、革新派の市長が誕生した。文化人で、開明的な政治家でもあると評判だった。私は学校新聞の編集長として、市長のところに単身インタビューに乗り込んだ。中学の子供が一人で市長にアポをとって会いに行き、市長も会ってくれる、戦時中にはとてもありえないことだった。自由闊達な気分が広がっていた。


日本の独立をかけた、政治闘争の時代
 1950年6月からまた、戦争が始まった。朝鮮戦争だ。日本に駐留していたアメリカ軍が、朝鮮出兵中の治安を守るためにと称して警察予備隊を作れと日本政府に指示した。日本社会は治安を必要とするような状況ではなかったのだが、それが保安隊に成長し、今日大変な力を持つ自衛隊となる。
 1951年9月8日にサンフランシスコ講和会議、対日平和条約、日米安保条約に日本は調印してしまった。
 1952年、私が高校に入った4月28日に対日平和、日米安保、両条約が発効して、日本は主権回復し独立国になった。
 連合国軍の占領は終了したがアメリカ軍は引き続き駐留となり、占領時代と実質何も変わらない状況が今日まで続く。
 1955年後は平和運動の流れが継続し、その天王山といわれたのが「砂川基地闘争」だった。
 1955年(S30)5月4日、東京調達局は砂川町に立川米軍飛行場拡張のため同町四番・五番を接収する意向を伝えた。米軍は日米安保条約に基づいて、他の横田・小牧などと共にジェット機発着用に基地の拡張を要求し、鳩山一郎内閣が要求を受け入れたものだった。
 9月、政府側の分裂工作で反対派の町民から脱落者が出たあと、延べ5,500人の農民や支援団体に武装警官が出動し検束、負傷者を出して20本の杭を打ち、骨格測量終える。このとき、「土地に杭を打たれても、われわれ心には杭は打たれない」との有名な言葉ができた。
 この激突で町はさらに分裂し、残った反対派の人たちは全国に仲間を派遣し、砂川の現状が日本全体の問題であるとアピールした。
 その年の暮れ、進歩的な文化人たちが砂川に視察に行き、基地問題文化人懇談会を結成した。
 年が明けて1956年(S31)6月、全学連大会で砂川闘争支援を決定した。このころは全学連のピークで、同年9月に超党派の幅広い支援団体連絡会議ができ大量動員始まる。
 10月2日 鳩山内閣の強硬方針で強制測量開始したが、反対デモに阻止され11日まで測量が進まない。ついに12日雨の中、武装警官2400名が出動して4800名の反対派を襲撃。負傷者194名(内重症2名)、警官負傷78名(内重症2名)の惨状となった。
 当時の私はいわゆるノンポリ、ヘラヘラの大学二年生だった。大学自治会のクラス委員が連日教室に来て、動員への参加を呼びかける。お前らもマージャンしたり酒飲んでいる場合じゃない、現場に見学に来い、大学までバスが迎えに来る、それに只で乗ればよい。それでちゃんと砂川に行く、帰りも送る、というのでバスツアーの気分で気楽に乗った。10月12日だった。
 先に行っている仲間たちの話によると、どうも、畑の中でデモをやるらしい、汚れるから長靴を履いて来いというので、長靴にジャンバー姿で出かけて行った。
 昼過ぎに現地に着くと、結集地とされていた砂川町の鎮守「阿豆佐味天神」に集められた。偉い人たちから檄を受けて昼過ぎ、「まず現場に出動してもらいます」と隊列を組んで連れて行かれたのがものすごく広い野っぱらで、学生が何千人と隊列を組まされ班編成を命令され、地べたに座って出動命令がくるのを待っている。
 遥か向こうではワーッともめている。完全武装の機動隊がバリケードを張って、そこへわれわれ学生は労働者のおじさんたちの指導を受けて、10人ぐらいでスクラム組んで、それがずーっと100mぐらい続いて、そのままガーッと機動隊のバリケードに突っ込んで押し合いをする。
 最初は運動会みたいだと思っていたが、それを何回か繰り返してへとへとになったころ、はいご苦労さん。今日来た新しい人たちは阿豆佐味天神に戻りなさい、明日は本気で、日本のためにがんばってください、と言われ、農家に泊めてもらった。
 食べるものがない時代に「学生さん、どんどん食べてくださいよ」と出されるサツマイモを頬張りながら、農民の話を聞いているとだんだんわかってきて、夜は興奮して寝られなかった。
 翌11日は早朝から阿豆佐味天神に続々集合した。組合旗、赤旗が林立する中で、「学生第何班出動!」と命令を受ける。昨日の要領で隊列を組んで地べたに座って待っていると全学連の幹部が、はい出動してもらいまーす、立てーッ。
 昨日でもう、気合が入っているから皆でガーッと行くが、向こうはもっと気合が入っていて、激しくこん棒で叩く、怯んだ奴はごぼう抜きされ、機動隊がスクラムを組んでいるトンネルに次々と放り込まれ、5mぐらい離されて一人ずつ歩かされる。
 機動隊員は両側から、「ごく潰し」「日本の国のためなのになんで反対するんだ」と学生をなじる。こちらは「ナニヲ!権力の犬、イヌメーッ」と吠える。そのうち互いに興奮してきて殴りかかろうとするが、向こうはドタ靴で蹴る。数十メートル歩いてやっとトンネルを抜けるが、まだ元気だから遠回りして200mぐらい後ろの、隊列の背後に戻る。
 それを4-5回、3時間ぐらいやるうちに声も出なくなり、這うようにしてトンネルから出てくるころには、彼らはますます凶暴になる。
 今思えば学生は20歳ちょっとの年頃、向こうも同じ年頃の、田舎の農家の次男三男で、大学に行くカネもないから出稼ぎ就職する時代、警察に入れるなんてエリートだったろう。日本国家のためにと教育されて使命感で来ておられる。そこに同じ年頃のわれわれがぶつかっていく、もみ合う。
 翌13日は激しい雨。日蓮宗のある一派の僧侶たちが100人ぐらい、黄色の袈裟を掛け座り込んで太鼓を叩く、その無抵抗の僧侶たちを警官はこん棒で殴る、援護活動の女子学生を殴る、倒れた学生に容赦なく暴行を加えていた。
 一警官が「砂川問題で人生観が変わった」と遺書を残し自殺した。この狂暴な暴力行為は世論の反撃を招き、翌14日夜、政府は測量打ち切りを声明せざるを得なかった。その後、米軍基地は立川(砂川)から横田(福生市)に移転が決まり、1977年11月、立川基地は全面返還となった。
 12−13日は激しさのピークだった。私は脛に怪我をして夜中に近いころ、どろどろの姿で素人下宿に逃げ帰った。


政治闘争からカネ至上主義へ
 砂川の抵抗運動はそのまま、安保条約改定反対運動のエネルギーにつながっていく。
 1958年(S33)10月、安保条約改定交渉が本格的に始まった。
 1959年(S34)、私は社会人になった。初任給は9000円、上等なラーメンが30円、チャーシューなければ20円、焼酎一杯10円ぐらい、という時代だった。11月、安保阻止統一行動のデモ隊2万人が国会構内に乱入。
 1960年、岸内閣は日米新安保条約行政協定に調印してしまう。
 4月26日安保改定阻止国民会議第15次統一行動デモが国会を取巻いた。
 私の職場には組合はなかったが夜にこっそり、国会デモに行く先輩が何人かいて、彼らから昼休みに囁かれ、煽られ、ついに断りきれずに私も行くことになった。当時は残業が毎日9時10時というのは当たり前だった。6月12日ごろ係長に、家庭の事情でと残業断りを申し出た。私は就職した年の暮れに結婚していて、「仮雇い」で家族手当を申請するなど初めてだと言われていたのに、その上残業しないで帰るという、何事かと言われた。次の晩も先輩から言われて、係長に「すみません」。
 こうして国会に駆けつけて、先輩の知っている労組のデモ隊にもぐりこんで、夜中までやった。日本の国がどうなるかという熱気で東京中、学生も労働者も主婦も燃えていた。私は14日までデモに行ったが、15日には係長から叱られて残業せざるを得なかった。
 歴史的な大事件は6月15日に起こった。
 全学連7000名が国会構内で警官隊と激突、乱闘となった。労働者はそれ以上だったろう。その乱闘の中で東大生が圧死した。私のいた中央大学の社会学教授が、樺美智子さんの父親だった。
 6月23日、新安保条約発効、同時に岸首相の退陣表明。このあと池田勇人内閣ができ、貧乏人は麦を食え、7年間で所得倍増という政策を出し、人々の関心はカネ至上主義、高度成長に一気に流れて、政治への関心が冷えていった。


いま思うこと
 77歳の私がいま思うことは、次の二つである。
 1 日本国憲法の前文を大切にしたい。
 日本国憲法の前文は、読めば読むほどすばらしい。
 2 中学の社会科の教科書「あたらしい憲法のはなし」で学んだことを大切にしたい。
 それは日本国憲法が公布された翌年、文部省が作った中学一年用の社会科の副教材である。10年ぐらい前に童話屋という小さな本屋さんが復刻し、ずいぶん売れた。図書館にも置かれている。
 「あたらしい憲法のはなし」で文部省は、こんな文章を書いていた。
 ――国民一人ひとりが賢く、強くならなければ国民全体が賢く、また、強くなれません。国の力の素は一人ひとりの国民にあります。――r
 ――これから先、この憲法を変えるときに、この前文に記された考え方と違うような考え方をしてはならない。――r
 また、「改正」のところでは、
 ――憲法は国の規則で一番大事なものだから、これを変える手続きは厳重にしておかなければならない。――r
 しかし発行してわずか5年で、保守反動の政権がこれを潰した。それから学校教育がぐっと変わってしまった。なぜ5年ぐらいで無くなってしまったのか、不思議に思っている。
(文責編集部)







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