2014/12
伊東俊二氏94歳、いま思っていることライフビジョン学会





伊東俊二氏
 1920年12月生まれ94歳。軍人の父の転勤について小学校は6年間で3回、兄は7回転校した。中学は小山台にある旧制府立第8中学校。5年後に卒業し陸軍士官学校受験のためにさらに2年間、補習科で勉強した。しかし体重が45kg、12貫目しかなくて士官をあきらめ、横浜専門学校(今の神奈川大学)で英会話を勉強した。英語学習は当時国賊的な目で見られてたが、それが後の職業で非常に役に立つことになった。

【横浜の空襲】
 ■1942/4/18 米艦載機16機、日本本土を初空襲。市内の被害、南区堀ノ内町一帯に焼夷弾を投下。
 ■1944/12/25 早暁、B29、3機、鶴見・港北両区に焼夷弾218発投下。
 ■1945/1/9 午後、B29、21機、中区・神奈川区などを空襲。 ■2/15 B29、3機、戸塚海軍病院付近に爆弾投下。 ■2/16 艦載機273機、早朝から夕刻にわたり鶴見区・神奈川区・中区・磯子区・港北区を銃爆撃。 ■2/17 艦載機320機、横浜・川崎などを早朝から正午まで銃爆撃。 ■2/19 午後、B29、123機、鶴見区・神奈川区の沿岸工場地帯などを爆撃。 ■2/25 吹雪のなかを艦載機116機、鶴見区方面に来襲。 ■3/10 B29、3機、港北区樽町に来襲、1千発近い焼夷弾を投下。B29、東京を大空襲、江東地区全滅(23万戸焼失、死傷者12万)。  ■3/20 B29、1機、港北区中山付近を爆撃。 ■4/2 未明、B29、60機、港北区恩田・川崎市に来襲、照明弾使用。 ■4/4 市内初の夜間空襲。B29、80機来襲、西区・神奈川区・鶴見区・港北区・戸塚区・川崎市が被爆。 ■4/15 横浜市内全域で空襲。B29、200機、深夜から翌16日にかけて京浜地区を夜間爆撃。米軍機も数機撃墜される。 ■4/19 午前、硫黄島発進のP51、50機来襲。市内では南区・戸塚区を銃爆撃。 ■4/24 B29、3機、横浜港を爆撃(立川攻撃が目的)。 ■5/17 厚木方面等を襲ったP51、戸塚区にも来襲。 ■5/24 未明、B29、250機来襲。市全域を爆撃。 ■5/25 深夜、東京空襲のB29により港北区に被害。 ■5/29 横浜大空襲。この日午前、B29、500機、P51、100機来襲。無差別焼夷弾爆撃とP51による銃爆撃。焼夷弾投下総量2570トン、旧市域の市街地壊滅。 ■6/10 B29、363機・P51、30機来襲。中区本牧から磯子区富岡町方面を爆撃。トンネルに待避した東急湘南線電車を襲撃し乗客全滅。 ■7/12 夜半から翌13日にかけB29、50機、川崎・鶴見の工業地帯を爆撃。戸塚区・南区被災。市民は豪雨の中を水浸しの防空壕に避難。 ■7/13 B29約50機、鶴見・川崎を焼夷弾攻撃。 ■7/25 B29、50機、鶴見・川崎の工業地帯を夜間爆撃。 ■7/28 P51来襲。市内を銃爆撃。 ■8/1 B29、150機、午後9時ごろから翌2日午前2時すぎまで、鶴見・川崎方面を波状攻撃。 ■8/3 午前、厚木方面に来襲したP51、相模鉄道瀬谷駅構内を銃撃。 ■8/13 艦載機約200機、早朝から夕刻まで横浜市をはじめ県下各地を波状攻撃。


【日本近海防衛図】


北支事変明細図解

【諸勢力の色分け】
 黄色は日本勢力の上記伸展
 赤はソヴィエトの伸展
 紫は中華民国・蒋介石
 緑は中華民国・中央軍系下にあらざる
 樺色は英化せる地帯
【地図記号】





































































【東京の空襲】
 ■1942年4月18日 ドーリットル空襲(本土初空襲)
 ■1945年2月15日米空母機動部隊艦載機による本土初空襲。関東の軍需工場が標的。 ■3月10日東京大空襲 死者約8万〜10万。負傷4万〜11万名。焼失26万8千戸。 ■4月13日城北大空襲 B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。 ■4月15日 B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として大森・荏原方面。 ■5月24日 B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。 ■5月25日 B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。















【浜松の空襲】
 ■1944年11月27日東京湾岸地域に空襲のついでに浜松を爆撃。 ■1944年12月7日東南海地震が起こり、大きな被害を受ける。
 ■1945年2月15日B-29の54機が三菱重工業名古屋発動機製作所の空襲のついでに南部(海老塚地区)に空襲。浜松基地にも空襲。B-29が6機。死者約150名。 ■1945年4月30日浜松都市地域を第一目標とした、中心部(軍需工場の多かった寺島・龍禅寺地区)への空襲。B-29が69機。死者約1,000名。 ■1945年5月19日東部・西北部に空襲。死者約450名。 ■1945年6月18日浜松都市地域を第一目標とした、市街地への空襲(浜松大空襲)。死者約1,800人。 ■1945年 - 6月の浜松空襲や、その前後の艦砲射撃により、市街地の大半を焼失する。 ■1945年7月29日戦艦サウスダコタ、マサチューセッツ 、インディアナ 、キング・ジョージ5世等による艦砲射撃。目標は国鉄浜松工機部・浜松駅・日本楽器・東洋紡績など。死者約170名。

 ライフビジョン学会有志は10月22日、横浜市在住の伊東俊二氏をお訪ねし、94年の人生について思うところをお話いただきました。
 
伊東俊二氏94歳、いま思っていること
 よく、俺は不運だとの声を聞くが、それが逆になることがある。たとえば乗る予定の飛行機に乗り遅れた不運は、その飛行機が落ちたために幸運に転ずることがある。乗らなくても良いのに、乗れるからと誘われて乗って、それが落ちたという例も多々ある。私は94歳まで長生きしたのは本当に、運がよかったと思っている。死に対面する場面はいくつもあった。
 今日は人間の運不運、できれば寿命について話をしたい。


戦火をくぐる映画狂
 1942年10月、私は北京に本社がある中華航空(現在の台湾同名会社とは無関係)に入社した。半官半民の、昔の大日本航空の子会社のような位置づけの会社だった。私の親友の御尊父(日本最初の訪欧飛行をした安辺浩氏)が大日本航空の常務理事をしていた関係で、私は割合ラクに中華航空に入社することができた。その時の中華航空の総裁は、安辺浩氏のかつての上司である児玉常雄氏(児玉源太郎陸軍大将の子)であった。
 北京の本社に出社すると人事課長から、北京でなく上海地区に回ってもらうが、どこか行きたいところがあるかと話があった。私は英会話ができるから上海に行きたいと答えた。
 実は私には下心があった。1941年12月8日開戦と同時に、日本国内では米英の映画は全部禁止されていたが、上海ではまだ上映しているという。私は「狂」の付くほどの映画好きだった。
 めでたく着任式を経て、上海支社の総務課人事係に勤務となった。ボーナス計算、昇給、人事問題など全部そこで決められるので、人事係に任命されることは名誉なことだったが、私には大好きなアメリカ映画を見られる喜びの方が勝っていた。その下心も中国が参戦した1943年12月8日に上映禁止になって潰えてしまったのだが。
 その短い間、多いときは月に29日、映画館に通い詰めた。当時の日本は松竹、東宝や日活などと、決まったところが週に一度、長くて2週間続けて上映していたのだが、上海は映画館が其処此処にあり、映画館が自分たちの好きな映画会社だけを、それも2日とか3日間しか上映しない。だから新聞でどこで何をやっているかを見て、すぐに飛びついたものだった。それを書いたメモを全部、中国においてきた。もったいないことをした。
 1942年4月18日、対米戦争による本土初空襲があった。米空軍の Doolittle少佐がホーネット(USS Hornet)という航空母艦で日本を襲ってきた。私はたまたま学校に行っていた。その日は土曜日で、桜木町に映画でも見に行こうかと横浜専門学校の後ろの小高い丘に登ったところ、飛行機が一機飛んできた。速いなと思ってよく見たら、尾翼が二つのB25であった。空襲警報が鳴っていた。
 飛行機はパイロットの顔が見えるほど低く飛んできた。思わず手を振りそうになって、違うんだと思いとどまった。パイロットも私のほうを見てそのまま伊勢佐木町、桜木町あたりを空襲して飛び去った。あの時、よくも撃たれなかったものである。
 空襲警報だからまさか、映画館はやっていないだろうと伊勢佐木町に行ったところ、映画は上映していた。上映しているならば見ていこうと入ったところ、戦争映画でドカンドカンとやっていた。しかし何か違うドカンドカンが聞こえてくる。なんとそのとき横浜が空襲されていて、日本が高射砲をどんどん打ち上げていたのだ。
 そんなことは露知らず、映画が終わって出てみたら、いま空襲があったという。嘘のような本当の話で、そのときの映画が「将軍と参謀と兵」。陸軍省が協力して山西省の戦争を描いたもので、中国兵はほとんど出ない。手元にはまだ、「坂東妻三郎1942年3月7日堂々封切」というビラを取ってある。


あわや海の藻屑になるか
 1943年10月、上海の人事課勤務の女性社員が亡くなり、誰か遺骨を持って内地に帰れる人はいないかという。入社半年の私は大喜びで申し出た。
 遺品がいっぱいあり飛行機には乗せられないので、船便で帰国することになった。内地に帰るというので友人たちが私にいろいろ餞別をくれたり、共済会の友人には、内地には不足している甘いものや砂糖などいっぱい、安く売ってもらった。友人の奥さんが内地で出産するので一緒に行くことになり、別に航空会社から一人、私を含めて三人が、内地と上海を連絡する3000tonの上海丸で出航した。
 乗船後、船内放送があった。「前日、内地と台湾の連絡船が米潜水艦の魚雷攻撃で沈没した。皆さんも乗っている間は十分注意をしてください」というものだった。嫌なことを言うなと思ったが仕様がない。
 翌明け方の4時ごろ、船がドッカーン、グラグラグラと来た。地震か魚雷攻撃かと思って、あわてて荷物を持って外に出たら、目の前に大きな船がある。上の方から衝突ダ衝突ダと声がする。船と船の間を見たらいろいろなものが浮いている。早く来ないとそちらの船は沈没するという。飛び移ろうと、あわてて荷物を持ってこようとしたが、お土産が実に重い。遺骨は持って帰らなければ社用にならない。そこで上の階段に上ったところ、目の前の船と船の間に救命艇がある。それを伝っておかげでラクに、相手の船に乗り移ることができた。
 同行の友人の奥さんもしばらくしたら来られた。ラクに来られたでしょうと言うととんでもない、彼女は救命艇によじ登って乗り移った、と話が違う。
 ぶつけられたわれわれの上海丸は3000ton、ぶつけた船は13000tonの崎戸丸(さきとまる)という輸送船であった。戦後になって読者投稿された新聞報道では真っ二つになったとあるが、そんなことはなかった。浸水による沈みかけの上海丸と崎戸丸との間に段差ができて、私より後から移ろうとした人たちはその段差をよじ登ったというものだった。
 同行したもう一人の社員はわれわれと反対側に出た。皆であわてて救命艇をおろし、乗り移ったものの転覆して海に落ちたが、上海丸と同型の長崎丸3000tonに助けられて、そのまま内地に帰ったという。
 私たちは助けられたはよいが、13000tonはさほど大きくは無い。新聞報道には400名近くが乗ったとあるが、実際はその半分ぐらいだろう。部屋もなく、普通の船室を上下2段に仕切り、ゴザを敷いて寝るのだが、うっかり立つと頭を鉄骨に打つ。一番困ったのは食事で、味噌汁を出してくれてもお椀がなかった。やむをえず捨ててあった割れたお椀を見つけて大事に使用した。
 3日後、台湾の南にある高雄に着いた。10月の終わりのことで、内地に帰るつもりで厚着をしていたが、だんだん暑くなってくる。助けられた輸送船は南下して台湾に来ていたのだ。
 皆はすぐ降りられると思ったが憲兵が、これは軍用輸送の途中なので一般の人に知られるのはまずい、あなたたちは別の船で内地に連れて行かれるが、降りたい人は理由を言えば許可すると言う。私は奥さんに聞くと、荷物は全部失ったし、内地に帰っても仕方ない、できたら夫のいる上海に戻りたいがそんなことはできないでしょうという。いや、私は航空会社の社員なので何とかなります、台北に行けば自社の駐在所がある。それを聞いていた憲兵は、それならば下船を許可するということになった。
 結局、200人ぐらいのうち降りたのは10名、元気なのはわれわれ2名、あとの8名は全部病院送り。思えばよく下船できたものだ。
 下船できない乗客たちは、せっかく台湾に来たのだからバナナが食べたいという。子供たちが港に来ていてバナナ買ってくれヨ、籠にお金を入れて下ろしてくれれば買ってくるという。値段がわからないので多い人は10円、これは相当な金額だったが、10円から5円の金を入れて船から降ろした。そこに先の憲兵が皆集まれと集合をかけて、結局バナナは皆の手に届かなかった。お金は子供たちが丸々手に入れたが、子供たちの責任ではない。
 私たちは下船したものの、荷物も何もない。台北への汽車がもうないので高雄に一泊しようと旅館に行くと、女中部屋に案内された。10円を渡すと態度を変え、今度は立派な新しい部屋に案内した。奥さんがバナナを食べたいというので買ってみると、一房13銭であった。私たちは先の子供たちにうまくやられたのだろうか?
 翌朝台北に行き、駐在員に話をすると1席しか取れないという。そこで友人の妻を乗せて送り出し、自分は2日後の次便で行くことにして宿を取ってもらった。たまたま泊まり合わせとなったのが、南方航空勤務の人で、亡くなった女性社員のダンナさん。いろいろお世話になりましたと、お経を上げたりして別れた。こんなことで上海に、今度は荷物も何もないので飛行機で舞い戻った。


選択される命と命の洗濯と
 1944年5月29日、上海に新しい映画館ができていたので見に行くと、ハワイ・マレー沖海戦をやっていた。入るとちょうど、ハワイを空襲するところで、ドッカンドカンとやっていた。
 私はいつも映画館の真ん中あたりに席を取るのだが、そのときに限って先客がいたので真ん中の左側に席を取った。いつもの癖で足を前に出し体を低くして見ていた。
 映画が始まって10分経たないうちに、ドッカーン!とすごいことになった。映画館の中で爆発が起こったのだ。それは私の席から4m後方であった。天井から防音用の板が落ちてくる、座るはずだったいすは全部飛ぶ…。耳ががーんとしたので押さえて、しばらく座っていたら、スカート姿の女の人が負ぶさって出てきた。足から血がぼたぼた落ちていた。自分は大丈夫かと体をあちこち触って見てみたが、なんともなかった。重傷1名、軽傷9名ということだった。
 翌日は別の映画館で時計仕掛けの爆弾テロが起き、4人亡くなっている。運がよかった。いつもの通り早く着いて普通に座っていたら、私もどこか怪我をしていたことだろう。
 それ以降、映画館では映画の途中に電気を点けるようになった。明るくなると、自分の座っている椅子の下を見てくださいなどと。席の下には帽子を置く場所があり、そこに時計仕掛け爆弾を置いたらしい。そんなことで映画のムードは台無しになった。
 1944年12月、ちょうど東京で採用の仕事があり北京から出張帰京していた時、自宅に電報が来た。1945年1月10日、山西省運城に入隊するから至急帰って来いとある。もう飛行機は取れないので、韓国経由でいったん北京に帰り、続いて北京から客車で太原乗換、貨車で2日かけて運城へ。運城近くの西安は共産軍の本拠地である。
 八路軍のそばまで行って3週間の教育を受け、帰りは無蓋車であった。途中の通信線の電柱は、わずかの間に共産軍に全部切り倒されていた。
 3週間の教育を終わると兵隊たちは、着用していた衣類を洗濯をして返上する。洗濯をしようと思っていたら、皆で芸をやれということになり、それぞれは硬い詩吟や郷土の歌を歌う。「私は新しいところで東京ラプソディをやります」とやったらば、拍手喝采。これで終わりますと言うとちょっと待て、もっとやれという。いや私は洗濯しなくちゃ。
 「おい誰か」とリーダーは新しい衣類を持って来させ、これでお前は洗濯しなくて良いからもっと歌え。
 それから私は「加藤隼戦闘隊」とか「さらばラバウル」だとかを歌った。本当に笑い話であった。


東京の空襲
 1945年4月、上海から北京に、北京から東京支店勤務となった。
 それまで自宅方面の空襲は、私は未経験であったが、内地に転勤になって両親と在宅していた1945年5月25日、空襲警報と同時にバーン!ガラガラッと、トロッコのような音とザーッという雨のような音とともに、庭に焼夷弾がバラバラバラッと落ちてきて、自宅から50m範囲内の10軒以上も、郵便局も、薬局も燃えてしまった。東京大空襲帰りのB29によるものであった。
 焼夷弾には油脂焼夷弾とエレクトロンという、燐で自然発火するタイプの2種があった。
 油脂焼夷弾は36発入っている。それが落ちてくる間に結わえていた金具が全部外れ、火がついたままバラバラバラッと落ちて、それがザーッという音なのだ。家の近くにある慶応大学の屋上にも落ちるのだが、こちらから見ていると花火のようで、屋上は鉄筋なので皆、跳ね返る。当時あそこには連合艦隊司令長官がいたから警備は厳重で、火災も続かなかった。その音も燃える姿も、今はとても想像できないほどのものであった。
 翌日、電車は動かなかった。私は自宅から会社のある日本橋宝町まで歩いて行った。途中の鉄橋では枕木が全部焼け落ちていたので、鉄の枠につかまりながら渋谷に入った。渋谷駅ではもちろん、東急デパートも焼けて、階段がまだ熱い。宮益坂を上ったところには10数人が死んでいたが、警官はそばでうずくまって見ているだけだった。日本橋宝町に着き会社が焼けているのを確認して、そのまま帰った。酷いものだった。


浜松の空襲
 会社からは5月25日の空襲で東京支店が焼けてしまったので、上海に行けという。私が人事に詳しいことから、行って確認してこいと言うものだった。日本の旅客機はすでにダメなので、私は軍属の身分で軍の飛行機で、浜松の三方ガ原から出発することになった。
 三方ガ原は昔、家康が戦って敗れ浜松城に逃げ帰ったという場所である。駅前に旅館があった。当時はコメを持参しないと宿屋には泊まれなかったが、軍属の証明を出したら1汁3菜に風呂、蚊帳までサービスされた。これは極楽、運がよかったと思った。
 ところが6月18日夜、空襲警報が鳴った。浜松大空襲である。ラジオが伊勢志摩上空を通過、ナンとかを通過という。東京ならば三浦半島通過と聞けば後どれぐらいで自分のところに来るかがわかるが、土地勘がないのでぜんぜんわからない。それで寝ることにしたが真夜中、ガラガラガラッと例の音がしだし、すぐ後ろの家が燃え出した。あわてて着替え荷物を持って二階から降り、旅館の前の防空壕に入った。当時は道路のそばに、防空壕は必ずあった。
 防空壕では両側の出入り口がバッと明るくなっては暗くなる。こんなところに入っていたのでは死んでしまうと飛び出したものの、さてどちらに逃げようか。すると道幅7mぐらいの大きな道路を、馬が東側から西側に駆けてきた。こちらに来るのならば向こう側が燃え始めたのだろう、ならばそちらへ行ってみようと、私は逆を選んだ。
 道筋両側の家は燃えていた。おばさんが「火ハタキ」で、これはハタキの大きなもので縄が付いていて、それで火をはたいて消そうとしていた。奥さんそんなことをしていても、もうだめですよ、逃げたほうが良いですよと言ったが聞かない。
 私はトランクの中身をリュックに詰め替えて、道路の東側に逃げていった。道の両側は火を噴いているようだった。右側を駆け抜けたら向こう側が真っ暗で、あぁ助かったんだなと思った。
 私の後を2-3分で男の人が駆けてきた。どうです、大丈夫だったでしょうと言うと、こんなんですよと広げた両手は火ぶくれ。ほんの2-3分の違いでこれだけ違った。私はもっと東側の暗いところに逃げて、空襲が終わるのを待った。逃げていく途中で自分が死ぬことは不思議なことに一切、頭に浮かばなかった。ただ、逃げた。
 明るくなった。帰ろうと歩いていると途中には死人ばかりだった。のどが渇いて逃げる途中、防火用水の水を口にしたらしく下痢をしたが、命だけは助かった。
 宿屋から出たすぐ右側にT字道路があり、大きな看板が二つあった。「撃ちてし止まん」と「ほしがりません勝つまでは」。それがまるで映画のシーンのようだった。
 その後浜松で飛行場近くの民家で待機中、夜中に艦砲射撃を受けた。空襲警報と同時に近くの飛行場に逃げて、壕に入っていたら遠くでドカーン、アメリカ海軍の砲弾を発砲する音が聞こえる。それはズッシーン!という地響きがして、入っていた防空壕の土がバラバラッと落ちるほど、振動が大きい。次は自分の壕がやられるのではないか。皆は音がするたびに背が低くなった。幸い砲弾は、自分達のところに来なくて助かった。


すんでのことで空のチリ
 三方ガ原から上海に行く飛行機は、日本の重爆撃機飛竜。三機編隊で出発する。出発前日、計器を調べるために操縦士がエンジンを入れると、計器盤がガタガタとゆれる。操縦士がこんな飛行機に乗れるか、機関士にやり直せと怒っている。何とか直して翌日、シンガポール、ジャワ、スマトラなど南方に部品を届けに行く役目の、一番前の爆撃機に私たちが乗って、後の2機には別の人達が乗った。
 出発して何分か後、先頭のわれわれの機がガガッと、落ちた。考えられないが、落ちながらエンジンから黒い煙がバーッと出ている。乗っているわれわれはわからないが、後ろに乗っている人たちはあっ、落っこちたと思ったという。
 落ちながら、操縦士が脇にいた機関士の背中をパーンと叩いた。機関士があわててポンプを汲む。翼の中に給油管があって、それが詰まったらしい。ポンプで汲んだらガソリンが行き渡るようになり、落ちそうになった機体はファーっと持ち直した。
 飛び立つと、敵機に見つからないように超低空で、瀬戸内海の波がすぐ目の前に迫る海面すれすれに飛んだ。レーダーは使えず、通信をすると米軍に位置を知られる。目測での飛行であった。
 どれぐらい飛んだのかわからないが、とにかく海を越えて上海近辺へ。しかし行けど探せど目標が見つからない。やっと見つけて操縦士が確認し操縦桿を握り返したとき、機関士がフラップ(補助翼・浮力を制御する)を下したところ、風を受けて、いきなり機首が上がった。操縦士は操縦桿を押して、辛うじて降りることができた。機関士はすぐ後、機長に謝りに行っていた。われわれには意味はわからなかったが、旋回中にフラップを下ろしてしまうと風の力が強くなり、速力が遅くなり、横滑りして落ちてしまうのだという。
 戦後、東京でそのときの通信士にばったり出会った。「みんな元気?」「なに知らないの、あれ、帰りに揚子江に落っこちちゃったんだ。」「あなたは乗っていたんじゃないの。」たまたま私は下痢をしていて、乗っていなかった。本当にそんなことで、幸運、悪運、いろいろあるんだなぁと。


敗戦、次の生き残り
 南京にいる時に軍から、最近日本が負けたという奴がいるが、絶対にそんなことは無い。我が方には未だ戦わざる精鋭100万あり、事後、かかる言動を弄するものは断固処罰する、といわれた。そうかなぁ、広島もだいぶやられたし、長崎もやられた。
 1945年8月14日、南京城外飛行場から内地に出発した。ソウルに一泊の予定であったが台風が来たので内地に直行してくれという。米子に着いてしばらくしたら空襲警報になった。「ここは軍の飛行場だから鳥取に行ってくれ」というので、半官半民の鳥取空港に移動。これ以上は飛べないのでと、ここに1泊した。
 翌日昼過ぎに空港に行くと、日本は負けたんだという。あぁやっぱり。当時は残念だとか、そういう気持ちはまったくなかった。なんだやっぱり本当に、日本は負けたんだ。そういう要素があったんだな。
 鳥取で、戦争が終わったならば米軍はもう来ないのだから、大阪に行こう、軍の飛行場であった伊丹に一泊しようということになった。すると操縦士が、悪いけど大阪の自宅の様子を見てくる、明朝早く戻るからという。
 宿舎に泊まっていると夜中に、下士官らが酒を飲んだ勢いで、俺たちは負けたのではない、絶対にそんなことは許さないと大暴れしている。われわれは危ないからと、別の部屋に行った。
 翌朝、10時まで待ったのに操縦士が帰ってこない。機関士は、飛ぶことはできるが降りることはできないという。しょうがないので陸路に変更し、伊丹駅で乗り込もうとしたら駅員が、大きな荷物はダメだという。米国製タバコを出すとまぁしょうがないですねと、ころりと態度を変えた。
 大阪駅についたら切符を求める人でものすごい行列だった。これはいつの行列ですかというと、明後日の分という。すると機関士が気の利くやつで、「皆、高級石鹸を持っているだろう、アレを出せ」。ちょっと行ってくる、としばらくして、駅長が売ってくれたと戻ってきた。LUXの石鹸で切符を買えたのだった。
 こんなことでたくさんの命拾いをして、8月17日早朝、横浜の自宅に無事に戻ってきた。こうして振り返ると私はいま、どうして生きているのか不思議に思っている。







On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |