2016/07
憲法のあることを知っていても…ライフビジョン学会


 







 2016年5月14日10時から19時、国立オリンピック記念青少年センター(東京渋谷)でライフビジョン学会第24回総会と公開学習会、懇親会を行いました。




東京合同法律事務所・弁護士
市橋耕太



 この紙芝居『王様を縛る法』はユーチューブなどでも見ることができる。




































































大日本帝国憲法    1890.11.29
 ↓
   天皇主権
   国家主義


日本国憲法      1946.11.3
 ↓
   民主主義
    of the people
      by the people
      for the people
   国民主権/国民は憲法を作った主体 
             憲法を守らせる主体
        公務員は憲法を守る主体


自民党的新憲法??  2016.7.10
 ↓
   天皇元首
   国民の義務の強調
   内閣の権限拡大
   自衛権・国防軍新設
   個人の自由の制約
 ↓

 ??




6月5日国会前

憲法のあることを知っていても
     何であるかを知らないので、
     ちょっと勉強会を開きました。


 イギリスの「EU残留か離脱か」の国民投票が終わった。
 ――Googleトレンドによると、開票結果が判明した翌朝、1時間あたりの検索が3.5倍にはねたワードが「EUを離脱したら、なにが起きる」。さらに開票結果が公式に伝えられてから、イギリスで最も多くググられたEUに関する質問は「EU離脱が意味することは?」。そして、2位が「EUとは?」。3位は「EUの加盟国は?」だった。(BuzzFeed Japan6月26日6時12分配信) ――とか。
 平和主義を国是とする日本でも最近、一部の人達による憲法改定推進の論調が泡立っている。日本国憲法の改正手続きは憲法96条で、国会議員総員の2/3以上の賛成の下に改憲の発議が許され、更に国民投票の賛成が投票総数の半分を超えると、国民の承認があったことになるという。
 でもちょっと待って!私たちはまだ、「憲法とは?」をググっていない。5月14日ライフビジョン学会憲法勉強会の様子(前半)をお届けします。
 後半は、「憲法改変から考える日本の民主主義 U」へどうぞ。

―――――――――――――――――――――――――――――
憲法改変から考える日本の民主主義
東京合同法律事務所 市橋耕太 弁護士

 私たち『明日の自由を守る若手弁護士の会』通称『あすわか』の設立趣旨は憲法を知ってもらう、「知憲」としている。どうやればやわらかく、わかり易く、一般市民に憲法を伝えられるか。
 私たちは紙芝居を使って、小さな集会をあちこちで展開している。特に子連れの母親たちに話すときには芝居っぽく、お話し調にやっているが(笑い)、今日はダイジェスト版でお話したい。
――――――――――――――――――――――――――――――

権力を縛り、国民を守るのが「憲法」
 さて紙芝居のはじまりはじまり。
 憲法の始まりは「王様を縛る法」であった。紙芝居に登場する悪そうな王様は、悪事の限りを尽くし、王の気に入らないことは全て止めさせ、王のやりたいことだけを国民に押し付ける。逆らうものは処刑したり投獄してしまう。これに不満を持った市民が立ち上がり、王を倒して新しい王を立てる。
 新王は国民に、王が許可した一定の自由を与えたが、国民の自由の拡大や王への批判は許さなかった。あるとき新聞が王の批判記事を書いた。記者たちは捕らえられ、王に対して自由にものを言えない社会が作られてしまった。
 ここで国民は気が付いた。「これでは前と一緒じゃないか」。でも前の王より、王が許可した範囲の自由や権利は与えてくれる。
 「いや違うんだ。権利や自由は与えられるものではなく、私たち一人ひとりが、生まれながらにして持っているものなのだ」。
 そこで王の力を縛って国民を守る仕組みを作ろうとしたのが、「憲法」である。こうして「憲法」を王の手に縛り付けることによって、国民の自由と権利が守られるようになった。
 「憲法」の仕組みは議会民主制の現代でも同じである。不当に逮捕されたり盗撮されたりしないよう、自由にものを言うことが許されるよう、私たちは憲法を守り、王に対してものを言い、私たちの権利を、自由を守らなければならない。


「立憲主義」は権力を制限し国民の自由を保障する
 憲法を説明する言葉には、基本的人権の尊重、国民主権、立憲主義、平和主義、あるいは国家の基本法であるとか最高法規であるとか、三権分立の原則などいろいろある。
 「立憲主義」の本質は、国民が権力を縛るところにある。権力の行使を憲法に基づかせる、憲法に基いて政治を行わせる。これが近代憲法の常識になっている。
 前述「新王」の憲法には立憲的意味は無い。権力を制限することによって自由を保障する内容が無ければ、いくら憲法と名付けても憲法を持つとは言えない。フランスの人権宣言が200年以上も前から言っていたことである。
 「権力分立」は権力同士の抑制と均衡により、権力の行使を制限するものである。
 「最高法規性」とは、憲法の条文に反する法律、命令、詔勅および国務に関するその他の行為の全部または一部はその効力を有しない。縛られている側、日本で言えば立法や行政、裁判所も含む彼らが作る法律や命令は、憲法に劣後する。
 「基本的人権の保障」は、権力からの自由、権力に対する禁止、という形で定められている。
 たとえば19条「思想良心の自由は、これを侵してはならない」がある。自分がどんなことを考えても、それは自由である。有名なものに君が代、日の丸裁判がある。卒業式などで君が代を歌わない教師に対して処分を加えた事件で、ここで争われたのが「思想良心の自由」である。「権力が国民の思想良心の自由を犯してはならない」としてその処分を争った。
 「立憲主義」が「権力を制限して国民の自由を保障する」という原理であるから、基本的人権の保障も権力を制限し、権力からの自由を定めている。
 一方、対私人との関係では、憲法は直接には適用されない。ここが少し難しい。
 学生運動を理由に新入社員に採用されなかった学生の件では、思想良心の自由を侵害しているのではないかとして争われた。普通の人と人、普通の人と会社の関係に憲法は適用されるのかが一大論点とされたが、対私人の関係に憲法は直接適用されない。しかし憲法の理念は、個々の法律を解釈するときに考慮しよう、というのが、今のところの憲法学の通説になっている。
 たとえば平等権。定年年齢の男女差について民法の、あるいは労働法の解釈をするときに、なぜ性による違いを設けるのか、平等権を考慮しようとの話になり、結果、会社と私人との私人間契約においても男女平等は尊重されるべきだとして、定年年齢の男女差は無効、との判断がなされた。


国民主権を天皇主権へ? 自民改憲案
 ところで憲法を守るのは誰か。それは権力を行使する者である。
 日本国憲法99条は「天皇又は摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と、公務員の憲法の遵守義務を書いてある。しかし自民党の改憲案は、「全ての国民はその憲法を尊重しなければならない」と書き換えた。
 国民は憲法を(公務員に)守らせる主体である。立憲主義は誰に向いているものかを理解していれば、憲法は政府や国会などの権力、国に対する法規範であり、国民に向いているものではないとわかるだろう。
 憲法の前文にもその根拠がある。「日本国民は…、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」憲法を作ったのは国民である。日本国民が憲法を確定させているのである。
 そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであり、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使する。
 国民が憲法を作り、その権威は国民に由来し、権力は国民の代表者がそれを行使している。「国民主権」がここに表されている。
 国民主権とは国民が憲法を作り、憲法によって権力を縛る。あるいは、憲法に基づいて国民自身が権力を行使する。日本は間接民主制であるから、国民の代表に権力を行使させていることになる。
 主権とは国家を支配する権限である。誰がこの国のあり方を最終決定する権限を持っているのか、それは国民に帰属している。これが「国民主権」ということだ。
 かつての大日本帝国憲法では天皇が国を統治していた。主権は天皇にあり、国民は支配される対象であった。この国のあり方を最終的に決定する権限は天皇が持っていた。天皇主権、独裁主義であった。


憲法改正と国民投票
 もう一つ、国民主権の顕われに「憲法改正の手続き」がある。
 憲法を変えるには国民が最終決定する。縛られる人=権力側が、縛り加減=憲法をどういうものにするかを決められたら、縛る意味が無くなる。そこで憲法改正の手続きが、日本国憲法96条に定められている。普通の法律は、議員の1/2、過半数が賛成すれば成立するが、憲法改正のためには各議院総議員の2/3以上の賛成で国会が発議し、さらに国民に提案してその承認を経なければならない。
 7月の参議院選挙でこの2/3の議席がどうなるかがいま、熱いテーマになっている。改憲勢力が2/3を取ると、憲法改正の発議をする条件が揃う。
 憲法改正には「国民投票」というハードルがある。第一次安倍政権のときに作られてしまった現行「国民投票法」は、非常に問題がある。憲法改正案に対する賛成投票の数が、有権者ではなく、有効投票総数の1/2を越えた場合、国民の承認があったものとする、という個所である。
 憲法96条に「国民に提案してその承認」としか書いてないところを突かれて、最もハードルの低い定め方にされてしまった。たとえば全国民の1/2の賛成がなければ憲法改正はできないという定め方でも良かった。あるいは有権者全体の1/2、18歳を越えた全員の1/2でも良かった。しかし国民投票法有効投票総数、実際に投票した○か×の有効投票総数の1/2を越えたらOKとする、との定め方になっている。
 それはたとえば投票率50%という事態になったとしたら、有権者の25%が賛成すれば、憲法改正ができてしまう。国のあり方を決める、憲法を変えるということに対して、国民の1/4しか賛成しなくても改正できてしまう。憲法改正のハードルを下げようとする目論見に注意してほしい。
 安倍首相はかつて、憲法96条自体の改正も着手しようとしていたが、猛反対にあって断念している。


劣位的状況に置かれる司法権
 今回の講演にあたり、主催者からの依頼項目の一つに「司法が機能しない三権分立」というのがあった。そこで司法が機能していない状況、司法の役割について話したい。
 権力分立とは、日本で言えば権力を3つの機関に分けて、それぞれに互いの権力行使を監視抑制させることによって、権力の暴走を止める機能を有する原理で、日本の場合立法・行政・司法、国会・内閣・裁判所である。裁判所は国会に対して違憲立法の審査をするし、法律でなくても命令、規則、処分などの違憲審査をする。
 しかし現実には、司法権は立法・行政に比べれば明らかに劣位に置かれている。
 わかりやすいところでは、最高裁長官の指名権は内閣が有している。人事に関して、元裁判官が非常に絶望的な指摘をしている。
 最高裁長官の意を受けた最高裁事務総局(人事を握っている)は、容易に裁判官の支配統制を行うことができるので、裁判官たちはヒラメのように最高裁事務総局の方向ばかりを伺うようになり、結論の適正さや当事者の権利は二の次になりがちである。
 構造で言えば一番下に裁判官、その上に事務総局、その上が長官。それを決めるのが内閣。内閣の考え方が下まで降りる仕組みになってしまっている。
 あるいは裁判官や事務官の給料を含めた司法予算から見ると、三権の一つを握っているのだから単純に考えれば1/3だが、全体の0.3%。(ここで会場はオーッ!のどよめきに包まれた)非常に残念な状況だ。
 特に裁判官・裁判所職員の増員が不可欠な課題だ。裁判所に行くと裁判官、書記官、事務官が非常に忙しそうで、特に裁判官の忙しさはかわいそうなほどで、しかし彼らが15時間などと働いていては、まともな裁判ができない。止む無く、集団訴訟、公害などでは一件あたりにかけるコスト・時間を削るから、一つの事件に十分審議ができているのかと、心配になる。私は熊本で司法修習生をしたのだが、水俣病の裁判の記録は台車で運ばれてくるほど大量で、本当にこれをちゃんと読めているのか。
 弁護士は増えて食い扶持がなくなっているのだが、裁判官は増えていない。するといくら弁護士を増やしても、国民が司法にアクセスするのは簡単にならない。日本の権利救済のシステムを変える画期的対策になるかもしれないのに、いまだに「国家予算の0.3%」に置かれているのが、日本の司法の現状だ。裁判官数を人口比で見ると欧米諸国は日本の3-4倍、ドイツは日本の10倍以上、裁判官がいる。
 私は労働事件をやりたいと思って弁護士をしているが、日本の労働事件、訴訟や労働審判が全部合わせて7000件/年。ドイツは労働事件に関する争いが60万件/年ある。クビにされるなどした労働者がどれほど気軽に裁判所を利用しているかがわかるだろう。


司法の違憲審査を阻む問題点
 司法権の劣位的状況を表しているのは3月、現に稼動していた高浜原発の運転を差し止めるという画期的判決がなされたときのこと。それに不服な原発推進派が、「一地方の裁判官ごときがなぜ止められるのか、このシステムはおかしい」と言った。司法はそれだけ軽く見られているのだ。三権の一つとして、国や行政の暴走を止めるために裁判所があって、一人ひとりの裁判官がその権力を持っている。司法によって重大な権力が担われていることについて、日本の国民の意識が低いのではないかと思われる。
 司法権の役割は違憲審査が一番重要な役割だが、それを十分に発揮できないいくつかの問題点が指摘できる。「付随的違憲審査」、「司法消極主義」、もう一つが最近非常に話題になっている「統治行為論」。
 「付随的違憲審査制」とは、裁判所は具体的な訴訟がないと、国の行為が違憲かどうかを審査しない、というもの。例えば違憲と疑われる法律ができても、その法律が具体的に施行、適用されて、何らかの事件として訴訟が提起されなければならない。たとえば安保法制に対する違憲訴訟を提起するのに、どういう理由で提起できるか。
 施行されたことによって一人ひとりの平和的生存権が侵害された、という場合。簡単に言えば自衛隊が海外に行ったり、テロが日本で起きるかもなどと、戦争が起きやすい状況にされたとき、われわれの平和的に生存する権利、安全が脅かされたから国に損害賠償を求める、などと違憲訴訟を起こす。このやり方はよくあり、イラクに自衛隊を派遣したイラク特措法が施行されたときも、同じような形で提起された。このようにちょっと工夫しないと、日本では違憲審査ができなくなっている。
 フランスには憲法裁判所が設置され、法律が成立したとき、憲法に照らしてすぐに判断する。違憲か合憲か、判断できる仕組みになっている。一方であまりに違憲裁判が多発したのでは最高裁が機能しなくなるから問題だという意見もある。
 次に司法消極主義とは、憲法違反が問題になる場合であっても、憲法判断をしなくても判決を下すことができる場合には憲法判断を避ける傾向があるということと、憲法判断をする場合にも違憲判断をしない傾向があるということの、二つを意味することがある。
 憲法に対する、例えば安保法制に対する違憲訴訟で、「皆さんに損害なんて生じていないではないか」と1発で撥ねられる可能性はある。つまり今回の安保法制について違憲なのか合憲なのか、そんな判断をしなくても、それが施行されたとしても国民に何か損害が生じているのか、生じていないでしょ、だから請求棄却です、という形で終わってしまう可能性がある。これが司法消極主義。
 もう一つ。憲法判断する場合にも、違憲判断を避ける。これは単純に、裁判所が消極的だ、というそれだけだが、そういう傾向が日本には当てはまる。
 なぜこれがまかり通るのかというと、憲法41条が指摘される。これ自体は今回の改定草案には違いがないので乗せていないのだが。「国会は国権の最高機関」である。これだけ読むと三権の中で国会が一番えらいのか、と思いがちだ。
 ただ憲法学の通説では、「政治的美称」=特に意味はないが、格好つけているだけ、というのが今のところの通説である。特に国会が一番上との考え方は取っていない。三権は平等に、それぞれ抑制と均衡を行うべきだ、と解している。


統治行為論
 さて、司法権の役割の中でもっとも問題だと思えるのが、「統治行為論」だ。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為については、理論上は裁判所による判断が可能であるとしても、事柄の性質上、司法審査の対象から除外すべきだ、との考え方だ。
 これを採用したのが、砂川判決である。本来は日米安保条約の違憲性が争われたのだが、
 ―― 安全保障条約は主権国としてのわが国の存立に帰するきわめて重大な関係を持つ高度な政治性を有するものというべきであって、その内容が違憲なりや否やの法的判断はその条約を締結した内閣、およびこれを承認した国会、の高度な政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点が少なくない。それゆえ、違憲なりや否やの法的判断は準司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、したがって、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであり、それは第一義的には時期条約の締結権は内閣が、それに対する承認権を有す、であるが、内閣、国会の判断に従うべき。終局的には主権を有する国民の政治的判断に委ねるものであるべき。――
 安全保障条約は高度に政治的内容なので、裁判所は基本的には審査しない。内閣や国会の判断に従います、と云うのが砂川判決で採用されてしまった。
 この正当化の根拠としてよく言われるのが、司法は三権の中から最も民意から離れている、というものである。
 国会議員はわれわれが直接選ぶ。内閣に入る人はその半分以上を国会議員から選ばなければならない。総理大臣も国会議員の中から選ぶ。民意が選んだ国会、そこから出てくる内閣というように、国会と内閣は民意がつながっている。しかし裁判官は、司法試験の成績が優秀であれば、なれる。民意とつながっているわけではない。だから高度に政治的な事柄については司法でなく、民意に近い立法・行政の判断に委ねるべきであるというのが、統治行為論の正当化根拠として述べられる。
 しかし司法は、そういう民意によっても左右されない、最後の砦としての役割を担っているのではないか。
 多数者が選ぶ民意、多数者が選ぶ国会や内閣が暴走するかもしれない。少数の人たちの人権を多数の人たちが侵害するかもしれない。そんなときにも裁判所は、憲法に基づいて、憲法の人権規定に基づいてそれを止める、そのためにあなたたちはいるのではないのか。そんな疑問があってしかるべきだ。
 仮に司法がやりすぎだとしても、最高裁判官には国民審査機能がある。10年スパンで最高裁の、不適切な裁判官には×をつけることができる。もし司法が不満ならば国民審査で是正せよ、ということも言える。


自民党の改憲草案の問題点
 自民党の改憲草案の問題点はたくさんある。
 憲法を守るのは誰か、公務員である。自民案は「国民」に憲法を守る義務を負わせる、ここが一番の特徴だ。天皇は憲法を守る対象から除外しているのだが、立憲主義の原理を思えばそのおかしさがわかる。
 関連して天皇の位置づけも「元首」に変えている。これは大日本帝国憲法のときと同じで、戦前に回帰する姿勢がうかがえる。
 ―〇―自衛権・国防軍―〇―
 平和主義、第9条についても大きく変わっている。
 いままで規定の中に自衛権は無く、解釈によって導かれている。それを明確に位置づける。しかもここで言う自衛権は集団的自衛権を含む。集団的自衛権には何の制限もない、いわゆる「フルスペック」の9条をおく。
 「9条の2」では今の自衛隊を変えて国防軍を保持する。ここに隠れていて問題なのは、機密保持に関する事項。国防軍に対する機密については法律で定められる、とある。国の防衛に関する事項は秘密保護法で、一番守りたいことだが、これが憲法上正当化されることになる。国防軍に関する秘密については、国は法律で、国の好きなように守ることができる。
 ―〇―義務の強調―〇―
 自民改憲草案の特徴として、「義務の強調」も性格の大きなところだ。
 12条、「自由および権利には責任および義務が伴うことを自覚し、常に公益および公の秩序に反してはならない。」13条にも似ていることがある。今まで「個人」だったものが「人」に変わっているのも問題だ。
 「国民の権利」については、「公益および公の秩序に反しない限り、最大限に尊重されなければならない」。今までは12条、13条のところで「公共の福祉」との言葉が使われていたものが、「公益および公の秩序」に変えられている。
 自民党改憲草案はHP上にQ&Aがある。「なぜ作ったのか」の質問に対して自民党自身が答えている。「改正によって人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたもの」とある。
 公共の福祉は憲法学的には、人権相互の衝突の場合に限って、人権制約を正当化する、という概念だ。「公益によって制限」は許されない。人権制約が許されるのは、人権同士の衝突の場合に限られ、その調整作用が、公共の福祉なのだ、と考えられている。
 例えば週刊文春の報道の自由とベッキーのプライバシー、あるいは名誉権が衝突している。ベッキーは、報道によって自分のプライバシーや名誉権が傷つけられる。一方文春は、ベッキーの私生活は国民が知りたがっているから報道すべきだ、報道の自由だ。
 このように互いの人権同士がぶつかったときに、公共の福祉の概念を使って調整すると考えられている。自民案の「公益および公の秩序」という言葉に変えられてしまうと、権力による乱用の可能性がある。
 ―〇―表現の自由―〇―
 21条表現の自由は保障されるのだが、「前号の規定にかかわらず、公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、ならびにそれを目的として結社をすることは認められない」と変えられようとしている。この意味するところは、例えばテロを扇動するような行為はこれに値するだろう。ただ騒ぐだけの、住民に迷惑をかけるだけの行動はどうか。政府批判のデモは? 共産主義は、共産党の活動はどうなのか? いろいろな想像ができるが、どこまで規制されて、どれならOKなのか、それがまったく明確でない。
 表現行為に対する規制は、どこまでが規制されてどこまでは規制されないのかを明確にしなければならない。その基本がまったくわかっていない。
 ―〇―内閣の権限拡大―〇―
 「緊急事態条項」が騒がれている。参議院選挙後、一番最初に着手するのはこれではないかと報道されている。
 なぜ首相がこれを作りたいのか。「緊急時に国民の安全を守るために、国家、国民自らがどのような役割を果たすべきかを憲法にどのように位置づけるかは、きわめて大切な課題だ。」を口実に作ろうとしている。同じようなせりふを5〜6回も暗記しているように話している。
 それは98、99条にある。外部の武力攻撃や自然災害の時、「緊急事態」の宣言を発せられた時は、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる。内閣は法律と同様のものを作ることができ、国民は従う義務が生じる。
 よく指摘されるのは、戦争や大災害の緊急事態にどういうことができるのか、国を守る規定が備わっていないのは現憲法の重大な欠陥なのだ。あるいは、東日本大震災のときはたくさんの行政機能が麻痺して大変だった、臨機応変に活動できない今の制度のままでよいわけはない、などという。先日の熊本、大分を中心にした地震のときもまた、緊急事態条項を作るべきだと言われた。
 災害対応で重要なのは、現場に権限を下ろすことだ。熊本の件で言えば、安倍首相が屋外退避は止めろ、屋内に入れろと言った。これに対して樺島知事は、現場をわかっていないと批判していた。
 却っていろいろな危惧がある。内閣が現場を知らずにトンチンカンな法律を作るのではないか。現場ごとの臨機応変な対応ができないと、画一的になるのではないか。あるいは反対意見をじっくり議論することがないまま、法律と同じ効力を持つものが作られてしまうのではないか。
 現場に権限を下ろし、現場の判断が実行できる法律はすでに整備されている。災害救助法、災害対策基本法などによって、かなりの権限が現場に下ろすことができる。
 現憲法でも、緊急の必要があるときはたとえ衆議院が解散して議員がいないときでも、仮にダブル選挙のときに大きな災害が起きても、参議院の半数だけで緊急集会を開くことができ、臨時で法律を作って対応できる。これが今の憲法の仕組みだ。
 3.11で何が困ったかなどのアンケートをとった。緊急事態条項が必要だとの指摘や、内閣の権限を強化してどんどん法律を作れるようにしてくれというような要請は一切無かった。
 災害対策で大切なのは普段の準備だ。不足しているのは事前の準備、訓練、柔軟な運用である。災害が起きてから緊急事態宣言をして、あわてて法律を作っても意味はあるのか。総理が緊急権を発動すると拳を振り上げても何の役にも立たないし、混乱を起こすだけ、というのが被災現場を知り弁護士らの実感だ。
 被災地の弁護士会も反対声明を出している。被災地をダシにしている、との声も聞かれる。


恒久緊急事態条項の新設は危険
 内閣が緊急事態として法律と同じ効力を持つ政令を作ったら、事前の対策が吹っ飛び、新しく作られた政令に従わなければならなくなる。一般市民の人権は各種制限されがち、行政の判断を尊重して裁判所も市民の権利を抑制しがち、危難が去ったあとでも政令を延長しがちである。
 国家緊急権、緊急事態条項が乱用された歴史がある。関東大震災の時、緊急勅令による戒厳令が出された。行政・司法権を停止し、軍隊が治安維持に当たる。朝鮮人が井戸に毒をまいたとか、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こすなどのデマが流され、社会主義者、組合活動家、朝鮮人が殺傷された。
 1934年ドイツの国会議事堂が放火された。ナチスの自作自演と言われているが、ヒットラーはそれを共産党の犯行とした。ワイマール憲法に基づいて緊急大統領令を発し、言論報道集会等の自由は制限し、令状なしで逮捕可能にした。これによって多数の共産党員や社会党員を逮捕し、憲法を骨抜きにする全権委任法を採決して、ナチス独裁が成立した。
 放火を契機に緊急事態として、共産党員を国会から排除したことによって全権委任法を成立することができたのだ。当時、ドイツにおいて共産党は有力な野党だった。逆に言うと、緊急事態条項を利用しなければ、彼らは独裁を完成させることができなかったかもしれない。非常に危ない条項だといえる。
 今の自民党改正草案だとずーっと同じ総理大臣、同じ与党で緊急事態を続けることが、規定上可能になってくる。
 戦後、現憲法を作るときにも、緊急事態条項を作ったほうが良いのではないかとの議論があった。それに対して内閣の中心にいた憲法担当相が、――行政当局者にとっては実に重宝な、使い勝手が良い、しかし国民の意思をある期間、有力に無視しうる制度である。だから便利を尊ぶか、あるいは民主政治の根本原則を尊重するのかの分かれ目になる。――と言い切った。今の54条は地味で、今まで使ったためしがないのだが、緊急事態にも対応するために作られている。
 われわれが当たり前のように思ってきた憲法が、今まさに殺されようとしているこのときに、憲法の言葉の美しさ、大切さに気付く。国民一人ひとりが自覚していかなければならないと思う。
 ともにがんばっていきましょう。(拍手)
【文責編集部】







On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |