2008/07
人生設計から見たワークライフバランスライフビジョン学会


 


奥井禮喜
 
 有)ライフビジョン代表取締役、ユニオンアカデミー事務局他。三菱電機労組時代に日本初の人生設計セミナーを開発・実践。著書「老後悠々」「中高年危機の処方箋」などでその後の人生設計ブームを作る。人と組織の元気を開発する講演、研修、コンサルテーション活動展開中。
 FAXとe-mailによる週刊RO通信、On Line Journalライフビジョン発行人。



質問


Q1)ワーク・ライフ・バランスとは何か知っていますか?
 A 「仕事と生活の調和」という意味でしょう。知っていますよ。

Q2)残業はどの程度やっていますか?
 A 平均すると月40時間程度でしょうね。ちょうどいいですよ。

Q3)有給休暇使っていますか?
 A 病気しませんし、疲れていませんし、必要ないのでほとんど取りません。

Q4)そうすると、年間労働時間がざっと2,200時間程度だと思いますが!
 A そうなりますか、もうちょっと働いてもいいかな。

Q5)通勤時間はどのくらいですか?
 A ドア・ツー・ドアで2時間弱ってとこです。

Q6)原則的に定時で帰宅する生活をしたくありませんか?
 A ふむ!それでは収入がねえ、4万円は減るなあ。いや、もっとか−−

Q7)具合よろしくない?
 A 暮らせないことはないけれどねえ。やはり、厳しいでしょうが。

Q8)では、もし賃上げで補えれば残業しない?
 A わははは、うちの組合が、賃上げできるもんですか。

Q9)書斎で勉強する時間はありますか?
 A 痛っ、そんな、あなた勉強する時間なんて、忙しくて――r

Q10)昨年、家族で何かイベントやりましたか?
 A 家族サービスに二泊三日の旅行ってとこですね。カネがかかってねえ。

Q11)家族から、もっともっとと注文ありませんか?
 A とくに、いや、腹の中では期待しているのかなあ。

Q12)何か自分がしてみたいことがありますか?
 A 月2回程度グリーンに出られたらいいです。

Q13)残業ない日は何しますか?
 A たまに友人と飲んで帰ったり、早く帰ってもすることがないしね。

Q14)もし、2週間連続で有給休暇取るような制度になったらいかが?
 A 悪い冗談言わないでよ。そんなの使い勝手が悪いや。それにお金が。

Q15)家族と一緒に過ごすだけでも楽しいのではないですか?
 A そうかなあ、案外お互いに人見知りしたりして(笑い)

Q16)自宅でゆったり飲むなんてのはいかが?
 A ううん、家で飲んでもなあ。(笑い)

Q17)一番関心があるのは何ですか?
 A 仕事、あ、いや子供の将来、えーと、ま、そんなとこで。(笑い)



そこで問題提起


1)ワーク・ライフ・バランスとは「仕事と生活の調和」の意味である。
2)生活とは人生であるが、この場合、「仕事とそれ以外」と解釈する。
3)要するに仕事によってそれ以外が圧迫されているというのである。
4)子供を産むか生まないかは「関係ねえ」。本来生存欲求的なものである。
5)人はパンのために生きるにあらず−−
6)しかし、パンがなければ生きられないから働く。
7)では、パンが人生の目的か。
8)パンは生きるためであって人生目的にあらず。
9)人間にとって仕事は必要条件である。
10)人間にとって仕事は十分条件か。
11)違う、もしそうなら動物と変わらない。
12)人間にとって「仕事+something」が十分条件である。
13)「仕事+something」とは「高等遊民」をめざすことである。
14)現代日本の高等遊民は「ガキとペット」である。
15)高等遊民の最大課題は人間的成長を遂げた暁に死を迎えることである。
16)人生は道であり、高等遊民は「道楽」を生きるのである。
17)道楽とは元気・愉快な人生である。
18)道楽は「思索」することから始まる。
19)思索は「懐疑」することから始まる。
20)懐疑は「自我」を発揮することから始まる。
21)自我はgeniusの発現である。
22)人生は虚無である。
23)虚無だから模索する。
24)模索するから目的ができる。
25)目的を作るから目的意識的に生きられる。
26)目的意識的でない人生は無知蒙昧と同じである。
27)残業中毒と仕事中毒は似て非なるものである。
28)なぜなら「仕事の質」が本気で問われていないからである。
29)なぜなら「社会・文化」を讃える人がいないからである。
30)なぜなら「個人の元気が組織・社会の元気」だからである。

補遺

1)人類は呪術的世界観の時代が圧倒している。
2)わが封建時代終了まで「閑雅」を生きたのはわずか1割にも満たない。
3)だから武士と勤め人はまったく違う。
4)明治維新後も封建社会の残滓が色濃く残っている。

2008年06月21日(土)新宿NSビル13階会議室で、日本余暇学会とライフビジョン学会がジョイントして行われたシンポジウム「ワーク・ライフ・バランスを検証する」報告、第二弾。

    問題提起1  薗田碩哉/日本余暇学会会長
        余暇から見たワーク・ライフ・バランス
    問題提起2  奥井禮喜/ライフビジョン学会顧問
        人生設計から見たワーク・ライフ・バランス
    問題提起3  藤村博之/法政大学大学院教授
        人事管理から見たワーク・ライフ・バランス



問題提起2

人生設計から見たワーク・ライフ・バランス奥井禮喜/ライフビジョン学会顧問



人生に占める仕事の割合が増えた
 ワーク・ライフ・バランスとは「仕事と生活の調和」の意味である。そもそもワーク・ライフ・バランスが出てきた理由は、仕事と生活の調和が取れていないからである。にもかかわらず長時間労働を何とかしようという話が出てこない。
 私は1960年代初めに組合役員になり、1981年組合を辞めるまでの間、経営者側から有給休暇取れ、残業止めろとなどとは一度も言われなかった。にもかかわらず今回の憲章は、今の経営者が開明的になったのではなく働く人がなめられているのであり、時代はこれだけ変わってしまったと感慨ひとしおである。
 仕事と生活の調和が壊れている。生活とは人生である。仕事と人生と並べれば人生が上だし、仕事より生活の方が大きい言葉だ。ワーク・ライフ・バランスが崩れているのは、仕事が分不相応に、人生に占める割合が増えたということで、これを元に戻せという話である。仕事によってそれ以外の時間が圧縮されていることが、最大の問題である。
 ワーク・ライフ・バランス憲章の発端も少子化問題が大きいのだろうが、子どもを生むのは生存欲求である。この国の生存欲求が弱っているのが少子化の原因だと私は考える。結婚して幸せになった人はほとんどいない。(笑い)ギリシャ時代以降、結婚についてそれを賛美する記述は圧倒的に少ない。仕事のできるエリートが1割ぐらいしかいないという論法からすれば、結婚生活のエリートも1割ぐらいしかいないだろう。家でも仕事でも地域社会でも、いいパパで社員で夫でという人はいない。ナンセンスだ。
 勤め人の皆さんに何のために働くのかを聞くと、食えないからという。そこで聖書ではないが、人はパンのために生きるにあらず、と私は思う。しかしパンがなければ生きられないからパンを求めて働く。ではパンは人生の目的か。パン屋でない限り、人生の目的ではない。パンは生きるに必要なものに過ぎない。


余暇を社会階層で見ると
 余暇による理論的、思想的キャンペーンが成功しなかったのは、余暇の掲げ方、突っ込み方が弱かったのだと思う。ついでながら江戸時代と余暇のルネサンスは論理矛盾である。
 江戸時代のよき文化は一部の人である。江戸時代の芸術もごく一部の人たちのおもちゃである。わが封建時代終了まで「閑雅」を生きたのはわずか1割にも満たない。士農工商の、士と商人の一部を除き、90%の連中はボロを着ていた。ロシアから開国を迫って長崎に入った船が、長崎は豊かな土地であるにもかかわらず、襤褸を着ていたと書き残している。僕らが問題にしなければならないのは、圧倒的多数の「食うか食えないか」の層である。これは歴史を見れば分かることで、百姓は生かさぬように殺さぬように、とやられてきた。
 明治時代にまともに教育を受けたのは1割弱である。7%が武士・公家であり、後の93%は働いて7%を養っていた。今でもごく一部の人たちはハイソな生活をしているが、7%の彼らには閑雅があった。平家物語の中にある薩摩守忠度は、武勇以上に和歌の道で名を成した。昔の武士で名を残した人は武道以外に勉強して、歌舞音曲の道に秀でていた。公家も武士も、閑雅の過ごし方を最大価値においていた。彼らはそのために「由らしむべし知らしむべからず」、圧倒的多数が黙って働いてくれることを奨励し、それが明治維新まで続いた。
 余暇論がメジャーにならないのは、圧倒多数のサラリーマンはかつての武士ではなく、農工商の貧乏人の子孫であるから、余暇が何かを知らないのである。明治以降も勤労第一論で抑えられてきたから、彼らに余暇のすばらしさを説いてもわからないのである。ここでヨーロッパ型の余暇論をぶってもダメだと思う。
 その後、私が会社に入った1960年代でも、「入社以来30年、有給休暇をとったことがない、病気もしないし仕事が好きだ」と自慢する人がいた。それが立派な人だとされていた。それが素地にあって、いまの余暇環境がある。
 それで喜んでいた経営者が最近ここに来て、人口が減るから子どもを生んでくれと、出産育児制度に財布の紐をゆるめるなどはけしからん。
 これは余暇の問題ではあるが、余暇を自分の物にしようとすれば勉強し、戦わなければならない。余暇は本気で戦って、自分の人生に取り込まなければならないものなのである。


仕事は必要条件だが、十分条件か
 仕事は人間にとって必要な条件ではあるが、仕事さえやっていれば人間として充分なのか。違うだろう。居酒屋チェーン某社長は、教師たるものは365日24時間教師たれ、と発言した。二宮金次郎だってそこまで働いていなかった。取材した日経記者が何も思わずそのまま載せた、読者も何も思わない。某社長はヒューマニズムがなさ過ぎる。学校経営も老人施設経営も、金があるからやっているだけのように見える。
 余暇の意味は、モノを考えることにある。単なる遊びで余暇をやっている、金があるから余暇をするというのなら、じっとしていろ(笑い)と言いたい。
 第一回ILO総会で、10時間労働制導入に日本とインドだけが反対した。資本家代表の武藤山治が小人閑居して不善をなす、日本人は労働によって成長すると弁明した。日本人には余暇が閑雅という発想はない。
 仕事が必要条件でありかつ、十分条件だというのならば動物と同じだ。人間には仕事プラスsomethingが必要だろう。それを高等遊民という。夏目漱石が「それから」に書いた代助のような、職業で言えば学者の皆さん、学者に付き合いのない人には子ども、ペット…。彼らは働かないで一日好きなことをしている。食うために働くと人間はいうが、働かない分だけペットの方が高等遊民であることになる。薗田さんの18歳女子大生は気が付いたのだ、このまま結婚して子どもなどできたら、私の高等遊民生活はどうなるのか、と。
 高等遊民の最大の課題は、人間的成長を遂げた暁に死を迎えることだ。年寄りがぴんぴんコロリで死にたいという。在職中は会社でぴんぴん戦っていなかったのに、定年後にぴんぴんコロリは許せない。だからタバコを吸え、酒を飲め、早く死ね、と言っている。
 日本の厚生労働省は多分、メタボリックと禁煙キャンペーンが成功した暁には必ず、健康のために酒を控えましょう、とキャンペーンするだろう。いまや資本主義下の役人も自分たちの売上=税金が取れるような理由を作ることが最大課題である。メタボが悪人のような法律を平然と作る役人天国では、酒もタバコも余暇も、戦うしかない。これぐらい外して見ていかないと、それはご親切だからなかなか反論しにくい、厄介である。私にはデブチンになる自由、病気になる自由がある。病気は本当にダメなのか。
 結局、政治家の発想はすべて金・予算から入っている。金の出入りをバランスするだけ、どこから取るかだけ、の話ならば政治は要らない。
 介護保険制度も金で抑えられての話だった。介護保険は民間に金を出して委託するのでなく、近所で手間を出し合い介護のネットワークを作れば金は要らない。
 65歳以上の7%がボケだという。今日の参加者60人でいえば4人だから、56人はセーフである。確かに全員がボケになるリスクはあるが、このたった4人の面倒を見るのに大騒ぎしているのが介護保険である。4人を56人で看れば一人当たりの負担はどんどん軽減される。それを考えるのが政治家であり民主主義である。
 そういうことを考えるために、余暇が必要だ。休養のためだけの余暇ならば、しなくて良い。休養して長生きするだけならつまらない。すでにギリシャ・ローマ時代に、『長く生きたと言うことは、ただ長くあっただけにすぎない』と言われている。もし膨大な余暇時間に悩むサラリーマンOBたち一人が自分なりに一隅を照らしていたら、後期高齢者「問題」などと言われなくて済んだであろう。そういうことを考えよう、そのために余暇を使おうというのが人生設計である。


虚無から逃げるために仕事するフリ?
 高等遊民が目指す道とは、道楽である。道楽とは元気・愉快な人生である。道を楽しむのが人生である。しかしそうなっていない。
 結局、余暇でサラリーマンが元気にならないのは、職場が一番居心地がいい傾向にあるのではないかと思う。ここを離れてはこの問題の解決はない。
 人生は自由だ、ということは人生に正解はないということだ。学校でも正解がないことは教えられない。正解がない人生とは虚無のこと。虚無だから模索する。模索するから目的ができる。目的を作るから目的意識的に生きられる。これが人生設計である。
 いま休暇もとらず長時間残業している圧倒多数は、職場で余人をもって代えられないほどの人ではない。虚無たる人生において自分が自分の元気を出すことを、考えること自体がしんどい。しかし会社で仕事をしていればそれを考えなくて良い、会社は居心地が良くて、よくやっていると見られているから、会社に長くいたい、という程度だろう。道楽は「思索」することから始まる。思索は「懐疑」することから始まる。
 私は長年有給休暇問題をやってきたが、もう戦うしかない。働く人よ、もっと勉強しなければあかんデェ(笑い)と言わなければならない。
 目的意識的でない人生は無知蒙昧と同じである。余暇についてもほとんど無知蒙昧である。余暇など考えていない。仮に余暇であっても、余暇が何たるかがわかっていないのだから、無知蒙昧と規定するしかない。そこからスタートしようではないか。
 本当に経営者や政治家がワーク・ライフ・バランスを考えるならば、原点は「個人の元気が組織・社会の元気」、一人一人が元気になれば社会が元気になると考えるべきである。
 「ワーク・ライフ・バランス憲章」は文章上も恥ずかしくて、とても読んではいられない。







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