資源・エネルギー問題は私たちの生命と財布に良く見える形でその異常を訴えています。
経済活動に従事するサラリーマンとして、あるいはその果実を享受する消費者として、環境とエネルギーをどう考えるか。
2008年10月25日(土)13:00−17:00、ライフビジョン学会が主催して、資源・エネルギーとポストモダンの公開学習会を行いました。
問題提起1
石油屋から見たエネルギーセキュリティ
石油会社勤務/伊藤敏和
問題提起2
モンゴルから現代日本を考える
植林ボランティア体験者/小浜孝光
問題提起3
地球の復讐
コーディネーター/奥井禮喜
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問題提起3
環境破壊と経済活動
奥井禮喜/ライフビジョン 地球と生命 すべての問題は人間が多くいることにより発生する。国が取り組む「少子高齢化対策」はナンセンスである。日本人が卓抜しているとしたら、自然に人口抑制をしていることがその一つと言えよう。
作家の武田泰淳は「人とこの世界」(中公文庫 1970)の中で、絶滅しつつある生物は無数にあり、誰を箱舟に残すかが難しい。人間が生きているだけで傲慢なことなのだから、満足して暮らさなくても良いではないかと、人間が本当に限界状況に生きていることを深刻に見抜いていた。
地球の表面の1/3が陸地、生命が生存する層の厚さは20km、大気圏は上空10kmを超えると空気密度が急激に減少するという心細い状態にある。太陽系は50億年後に消えるらしい。
人類は500万年前にアフリカで誕生した。そのとき15万人といわれる人口が、農耕の発明で5億人になった。産業革命を経て1900年に20億人になり、20世紀の100年間に一挙3倍に膨らんで、現在は67億人。2050年には世界人口は91億人になると言う。
生命は水が液体である物理的条件の元でしか生きられない。生命体の90%は水でできている。輸入食料を生産するために必要な水を考えると、日本でも水不足である。農業自体が砂漠化に関係する。インドの実業家が儲かるからと大々的に米を作って水不足をきたし、米国農業もすでにそうなっている。
水中に比べて陸上の酸素濃度は飽和状態で、ちょっと濃くなっただけで山火事が起きる。また、酸素の反応があるから大量のエネルギーを取り出して文明活動を盛んにする。酸素をたくさん利用する大型動物、大型化する動物は環境変化に弱いともいわれている。
人類の増加は生物界に大きな影響を与え、過去400年に少なくとも600種の生命が絶滅した。鰯、さばが高級魚になっている。広島では昔、鰯刺しがてんこ盛りの皿で50円ぐらいで食べられた。いまは船盛りの特等席に鎮座している。特に食物連鎖の頂点にいる大型哺乳類は絶滅の危機にあり、サイがダメ、象がダメ。人間社会も巨大動物と考えるべきである。生命が生きられる環境はきわめて狭い。
地球に生きている生き物で地球を壊してきたのは人間だけである。生き物が共生することの責任は人間にある。
科学は万能に非ず 19世紀は産業革命が成功し、科学技術が進んだ。20世紀は、光の部分としては飢えを克服したこと、長寿社会に到達したこと。これらは科学技術の成果である。影としては原水爆。核問題で本当に怖いのは北朝鮮とインドではなく米露である。
人工的な物質が作られ、公害が発生した。プラスチックは厄介なゴミを残した。遺伝子組み換えもいつの間にか、食物に入り込んでいる。
科学が人類の未来を拓いてくれると考える人は多いだろう。水や空気、資源がなくなると科学が何とかしてくれると思うかもしれないが、技術的にも、代替エネルギーは難しい。地球は確実に破壊されてきた。残念ながら、それが科学文明の歴史である。
科学というものは、人類にとって不可欠である。科学そのものには善悪はないのであって、それを使う目的・方法が大事なのだという。しかし、科学自身が強烈な毒性を備えていると考えるほうがよかろう。事実、すでに獲得された技術だけでも、想像を絶するような武器が開発されるてきた。科学は自然に働きかけて自然に無いものを作るのであるが、科学は決して万能ではない。われわれは科学の在り方を考えねばならない。
失策は経済至上主義 政治が経済に振り回されている。地球が滅びるというのに、金を持って泥舟に乗っていてどうしようというのか。
資本主義経済は、自由放任こそが最大効率になる。しかし自由放任、放置すると適者生存で弱いものが滅びるから、政治は儲けた人から利益を再配分し、すみわけをさせる。いわば政治は経済の邪魔をするのが機能である。
自由に経済活動をやっていた人たちが、サブプライム、金融システム問題で助けてくれと言っている。金融システムが壊れれば貧乏人も困るが、株の空売りなどは投機そのもの、サブプライムはねずみ講、デリバティブもまともな商品なんかではない。それをすばらしい金融技術だと褒め称えた連中はどこへ隠れたか。
大事なことはどのような経済体制をとろうと、適者生存でなく、一緒に生きていくよう、すみわけするのが民主主義、政治の仕事である。共生は心がけの問題でない。地球上の生物は共生が前提である。
20世紀の最大の失策は経済至上主義になってしまったことではないか。人間の活動は生産と消費しかない。生きることは消費で、消費のために生産している。ところが資本増殖を絶対視すると、生産が目的化し、労働が目的化し、消費が小さくなる。人間のくう・ねる・はたらく行為のうち、くう・ねるすら削られて、生産至上主義に追い込まれている人が現実に多くいるではないか。
人間は生きるために働く、生きるために働く時間は短いほど良いのだが、今はどんどん延びている。20-21世紀、経済は伸びたがマクロの視点で暮らしを見ると、人間らしさから遠のいている。
富と権力だけでよいか 国際紛争は煎じ詰めれば富と権力の争奪戦である。信頼よりも恐怖心のほうが人を動かすのもまた、経験してきたことである。「絶えず勢力を増大しなければ既得権もまた維持できない」という常在戦場的意識が人間を支配しているといっても過言ではない。
資源・エネルギーが無尽蔵に増大することはなかろう。このまま推移すれば、やがて資源・エネルギー不足は現実のものとなる。その場合、資源・エネルギー争奪戦が発生しないであろうか。
本当に富と権力だけでよいのか。資源エネルギーは心配してもしょうがないし、一人で何ができるものでもない。しかし人間の行動がエントロピーを増大させているのは事実である。
考えなければ問題は存在しない。今まで人間は、あまりにも人間が限られた空間に生きているのだという事実を考えなさ過ぎたのではなかろうか。モンゴルで農業が発達しなかった理由は、遊牧民たちが土地に鍬を入れると、土地の神の怒りに触れるという信仰であった。もちろん、こんな思想は無知蒙昧だと笑い飛ばすこともできる。しかし、今日の地球を考えると、あながち彼らの信仰的態度と生活を無視できないのではなかろうか。
経済のプロセスは物資・エネルギーを廃棄物化するのである。地球を壊してきたのは人間であって、他の動物たちではない。実際、人口自体が地球破壊の巨大な力なのである。
人類が本気で「共生するにはどうするか」という思想を磨かなければならない。それがなければ、人類は早晩、地球からの壊滅的な復讐を受けねばならない。
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